> 【源氏物語】【須磨 03】源氏、二条院にて紫の上と別れを惜しむ【原文・現代語訳・朗読】

【須磨 03】源氏、二条院にて紫の上と別れを惜しむ

原文

殿におはしたれば、わが御方の人々も、まどろまざりけるけしきにて、所どころに群れゐて、あさましとのみ世を思へるけしきなり。侍所《さぶらひ》には、親しう仕うまつるかぎりは、御供に参るベき心まうけして、私《わたくし》の別れ惜しむほどにや、人目もなし。さらぬ人は、とぶらひ参るも重き咎めあり、わづらはしきことまされば、所せく集ひし馬車《むまくるま》の形もなくさびしきに、世はうきものなりけり、と思し知らる。台盤《だいはん》などもかたへは塵ばみて、畳所どころひき返したり。見るほどだにかかり、ましていかに荒れゆかんと思す。

西の対《たい》に渡りたまへれば、御格子《かうし》も参らでながめ明かしたまひければ、寶子《すのこ》などに、若き童《わらは》べ所どころに臥して、今ぞ起き騒ぐ。宿直《とのゐ》姿どもをかしうてゐるを見たまふにも心細う、年月経《へ》ば、かかる人々も、えしもありはてでや行き散らむなど、さしもあるまじきことさへ御目のみとまりけり。「昨夜《よべ》はしかじかして夜更けにしかばなん。例の思はずなるさまにや思しなしつる。かくてはべるほどだに御目離《か》れずと思ふを、かく世を離《はな》るる際《きは》には、心苦しきことのおのづから多かりけるを、ひたや籠りにてやは。常なき世に、人にも情なきものと、心おかれはてんと、いとほしうてなむ」と聞こえたまへば、「かかる世を見るより外に、思はずなる事は、何ごとにか」とばかりのたまひて、いみじと思し入れたるさま、人よりことなるを、ことわりぞかし。父親王はいとおろかに、もとより思しつきにけるに、まして世の聞こえをわづらはしがりて、訪れきこえたまはず、御とぶらひにだに、渡りたまはぬを、人の見るらむことも恥づかしく、なかなか知られたてまつらでやみなましを、継母の北の方などの、「にはかなりし幸ひのあわたたしさ。あなゆゆしや。思ふ人、かたがたにつけて別れたまふ人かな」とのたまひけるを、さるたよりありて漏《も》り聞きたまふにも、いみじう心憂ければ、これよりも絶えて訪れきこえたまはず。また頼もしき人もなく、げにぞあはれなる御ありさまなる。

「なほ世に赦されがたうて年月を経《へ》ば、厳《いはほ》の中にも迎へたてまつらむ。ただ今は、人聞きのいとつきなかるべきなり。朝廷《おほやけ》にかしこまりきこゆる人は、明《あきら》かなる月日の影をだに見ず、安らかに身をふるまふことも、いと罪重かなり。過ちなけれど、さるべきにこそかかる事もあらめと思ふに、まして思ふ人具するは、例なきことなるを、ひたおもむきにもの狂ほしき世にて、立ちまさる事もありなん」など聞こえ知らせたまふ。日たくるまで大殿籠《おほとのごも》れり。

帥宮《そちのみや》、三位中将などおはしたり。対面《たいめ》したまはむとて、御|直衣《なほし》など奉る。「位なき人は」とて、無紋の直衣《なほし》、なかなかいとなつかしきを着たまひてうちやつれたまへる、いとめでたし。御鬢《びん》かきたまふとて、鏡台に寄りたまへるに、面痩《おもや》せたまへる影の、我ながらいとあてにきよらなれば、「こよなうこそおとろへにけれ。この影のやうにや痩せてはべる。あはれなるわざかな」とのたまへば、女君、涙を一目浮けて見おこせたまへる、いと忍びがたし。

身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡の影は離れじ

と聞こえたまへば、

別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし

柱隠れにゐ隠れて、涙を紛らはしたまへるさま、なほここら見る中にたぐひなかりけりと、思し知らるる人の御ありさまなり。

親王《みこ》は、あはれなる御物語聞こえたまひて、暮るるほどに帰りたまひぬ。

現代語訳

源氏の君は二条院にお帰りになると、ご自分のお部屋つきの女房たちも、まどろみもしなかったようすで、所々に集まっていて、世の変わりようを、呆れたこととばかり思っているようすである。

侍の詰所には、親しくお仕えしている者たちは、御供に着いて参る決心をして、それぞれ身近な者との別れを惜しんでいる時なのだろうか、人影もない。

それほど源氏の君に親しくない人は、訪ね参ることも重い咎めがあり、面倒事がふえるので、かつては所せましと集まっていた馬・車の跡かたもなく寂しいことにつけ、この世は辛いものであるよと、源氏の君は思い知りなさる。

台盤なども一部は埃がつもり、薄縁は所々ひき返している。「今目の前にしている時でさえこうなのだから、まして自分がいなくなった後はどれほど荒れゆくだろう」と源氏の君はご想像される。

西の対においでになると、姫君(紫の上)は御格子もおろさないで一晩中物思いにふけっていらしたので、簀子などに、幼い女童たちがあちこちに横になって、今ごろ起き出して騒いでいる。

かわいらしい宿直姿の女童たちがいるのをご覧になるにつけても心細く、年月が経てばこうした人々も、最後まで努めつくすことができないで、散り散りになってしまうのだろうかなど、まさかそんなことにはならないはずで、普段はお気にもなさらないことさえ御目にとまるのであった。

(源氏)「昨夜はこれこれのわけで夜が更けてしまったのでね。またいつもの心外のことだろうとお取りになったのでしょう。せめてこうしております間だけでも貴女のお側から離れないでいようと思うのですが、こうして世を離れる際には、気がかりなことが自然と多いのですから、まったく家に引きこもっているわけにもいかないでしょう。この無常な世の中で、人からも情ない人だと、見限られてしまいましょうし、その見限る人のことも不憫ですから」と申し上げなさると、(紫の上)「こんな悲しい目を見るよりほかに、心外の事とは、何ごとですか」とだけおっしゃって、たいそう思いつめていらっしゃるご様子が、格別でいらっしゃるが、それも無理もないことなのだ。

父親王(兵部卿宮)はひどく足が遠のきがちで、それでなくても姫君はもともと源氏の君になついていらっしゃるし、まして最近、父親王は世間の評判を面倒がって、姫君にお便りもなさらず、お見舞いさえもなさらないのを、姫君は、そうしたことを人に見られることも恥ずかしく、かえって父宮にご自分の存在を知られないままでいたらよかったのにとお思いになるが、継母である北の方などが、「にわかな幸福があわただしく去っていくこと。なんとまあ不吉な。可愛がってくれる人に、それからそれと、お別れになる人ですよ」とおっしゃっていたのを、さる筋があって漏れ聞きなさったのにつけ、たいそう情けないので、姫君のほうからも父宮のもとにはまったくお便りをなさらない。

源氏の君のほかには頼れる人もなく、なるほどお気の毒な姫君の御境遇である。

(源氏)「まったくお赦しがないまま年月が経つのでしたら、巌の中にも貴女をお迎えいたしましょう。ただ今は、人聞きがひどく悪いことでしょう。朝廷に遠慮ある人は、明るい月日の光さえ見るものではなく、気楽にふるまうことも、たいそう罪が重いといいます。私に過失はございませんが、しかるべき前世の宿業によってこんな事になったのだろうと思うにつけ、まして愛しい人を連れて行くことは先例のないことですので、ひたすらきちがいじみた世の中ですから、さらなる罪を加えられるかもしれません」など言い聞かせなさる。日が高く上がるまでお休みになった。

帥宮(蛍兵部卿宮)、三位中将などもいらした。源氏の君は対面なさるということで、御直衣などをお召しになる。

(源氏)「位なき人は」といって、無地の直衣の、かえってたいそう優美であるのをお召しになって、質素なご恰好でいらっしゃるのは、たいそう素晴らしい。

御鬢を整えなさろうとして鏡台にお寄りになると、お痩せになられたお姿が、我ながらたいそう気高く、さっぱりしているので、(源氏)「ひどく衰えてしまったものだよ。鏡に映ったこの姿のように私は痩せていますか。情けないことですよ」とおっしゃると、姫君は、涙を目にいっぱい浮かべて源氏の君のほうをご覧になる、その様子がたまらなく意地らしいのだ。

(源氏)身はかくて

(私の体はこうして遠く離れていくけれど、鏡に映った私の姿は、貴女のいるあたりを去らず、離れずにいますよ)

とおっしゃると、

(紫の上)別れても…

(お別れしても、せめて貴方の影だけでも留まっているなら、鏡を見ても慰められるでしょうよ)

柱に隠れて座っていて、涙を見せまいとなさっているさまは、やはりこれまで知っている女性の中ではたぐいなく素晴らしいものだと、思い知られるほどの、姫君の御様子である。

弟宮(蛍兵部卿宮)はしみじみと心にしみるお話をなさって、日が暮れるころお帰りになった。

語句

■わが御方 源氏の居間。東の対。 ■侍所 家に仕える侍の詰所。 ■私の別れ 家族・親戚・友人などとの別れ。 ■台盤 食卓。 ■かたへは 一部は。 ■畳 薄縁《うすべり》。畳に布の縁をつけた敷物。ござ。 ■かかり 「かくあり」の略。 ■参らで 「参る」は格子を上げる・下げる。 ■さしもあるまじきこと まさかそんなことにはならないだろうこと。 ■しかばなん 下に「左大臣邸に泊まったのです」の意をつぐ。 ■例の思はずなるさま 源氏が女のもとに泊まったのではないかという紫の上の疑いをいう。 ■ひたや籠り 家に引きこもっていること。 ■いとほしうて 源氏の君を「情けなきもの」と見て愛想をつかす、その人々のことが、そんな気持ちにさせたことが、かえって気の毒だと源氏は気を回しているのである。 ■ことわりぞかし 無理もないことですよね、と作者が念を押す。以下、紫の上の心細い境遇をのべる。 ■父皇子 兵部卿宮。藤壺の兄。 ■思しつく 愛着を抱く。なつく。 ■にはかなりし幸い 葵の上の死後、紫の上が実質的な源氏の正妻の地位にあったこと。 ■げにぞあはれなる 継母が言うとおり。 ■巌の中にも 「いかならむ巌のなかに住まばかは世の憂きことの聞こえこざらむ」(古今・雑下 読人しらず)を引く。 ■人聞きのいとつきなかるべき 世間の人は貴女を須磨に連れて行くことをけしからんと見るでしょうの意。 ■明らかなる月日の影をだに見ず 「勅勘 風情無クシテ天気ヲ見ズ 門ヲ閇(と)ヅル外他無シ」(禁秘御抄)。 ■重かなり 「重かるなり」の略。 ■かかる事 無実の罪を被って遠流されようとしていること。 ■ひたおもむきに 一方向にひたすら向かうこと。右大臣家の権勢がいよいよ盛んで、それ以外の人々には不遇が続いていること。 ■立ちまさる事 より重い罪が加えられること。 ■日たくるまで 紫の上と床を供にしていた。 ■帥宮 源氏の腹違いの弟。後のエピソードから蛍兵部卿宮とよぶ。 ■直衣 貴族の平服。 ■位なき人は すでに除名されて無位無官の身となっている。 ■無紋 模様のない絹の直衣。 ■こよなうこそおとろへにけれ 「かえって気高く見える」とした直前の心理描写と食い違っている。心理描写のほうが本音で、台詞は紫の上の同情を引くためのポーズだろう。 ■身はかくて 古代、旅立つ人は鏡を相手に贈る風習があったらしい。「身を分くる事の難さにます鏡影ばかりをぞ君に添へつる」(古今六帖五)。 ■涙を紛らはしたまへる 旅立ちにあたり涙は不吉なので抑えている。 ■親王 蛍兵部卿宮。源氏の腹違いの弟。

朗読・解説:左大臣光永