> 【源氏物語】【須磨 04】源氏、花散里を訪ね別れを惜しむ【原文・現代語訳・朗読】

【須磨 04】源氏、花散里を訪ね別れを惜しむ

花散里の心細げに思して、常に聞こえたまふもことわりにて、かの人もいま一たび見ずはつらしとや思はんと思せば、その夜はまた出でたまふものから、いとものうくて、いたう更かしておはしたれば、女御《にようご》、「かく数《かず》まへたまひて、立ち寄らせたまへること」と、よろこび聞こえたまふさま、書きつづけむもうるさし。いといみじう心細き御ありさま、ただこの御蔭に隠れて過ぐいたまへる年月、いとど荒れまさらむほど思しやられて、殿の内いとかすかなり。月おぼろにさし出でて、池広く山|木《こ》深きわたり、心細げに見ゆるにも、住み離れたらむ巌《いはほ》の中思しやらる。

西面は、かうしも渡りたまはずやと、うち屈《く》して思しけるに、あはれ添へたる月影の、なまめかしうしめやかなるに、うちふるまひたまへるにほひ、似るものなくて、いと忍びやかに入りたまへば、すこしゐざり出でて、やがて月を見ておはす。またここに御物語のほどに、明け方近うなりにけり。「短夜《みじかよ》のほどや。かばかりの対面《たいめん》もまたはえしもやと思ふこそ。事なしにて過ぐしつる年ごろも悔しう、来《き》し方行く先の例《ためし》になるべき身にて、何となく心のどまる世なくこそありけれ」と、過ぎにし方の事どものたまひて、鶏《とり》もしばしば鳴けば、世につつみて急ぎ出でたまふ。例の、月の入りはつるほど、よそへられて、あはれなり。女君の濃き御|衣《ぞ》に映りて、げに、濡るる顔なれば、

月影のやどれる袖はせばくともとめても見ばやあかぬ光を

いみじとおぼいたるが心苦しければ、かつは慰めきこえたまふ

「行きめぐりつひにすむべき月影のしばし曇らむ空なながめそ

思へばはかなしや。ただ、知らぬ涙のみこそ、心をくらすものなれ」などのたまひて、明けぐれのほどに出でたまひぬ。

現代語訳

花散里のご邸では心細げにお思いになって、いつもお便りをお寄越しになる。それも無理からぬことで、あの人(花散里)ももう一度会っておかないと、自分のことをつれない男だと思うだろうと源氏の君はお思いになるので、その夜はまたお出かけになるものの、ひどくものうくて、たいそう夜が更けてからおいでになると、女御(麗景殿女御)が、「こうして数の中に加えてくださって、お立ち寄りいただけますこと」と、よろこび申されるさまなど、書きつづけるのもわずらわしい。

たいそうひどく心細い御邸のご様子、ただ源氏の君の御庇護の下でこの御邸の人々がお過ごしになっている年月を思うにつけ、ご自分がいなくなってしまわれれば、たいそうひどく御邸が荒れていくことをご想像されるが、御邸の中はひどく静かである。

月がおぼろにさし出てきて、池が広く山の木々の繁みが深くなっているあたりが、心細げに見えるにつけても、これから遠く旅立ってそこで住むことになるだろう巌の中が、つい想像される。

西面では、まさかこんなにまでして源氏の君はおいでにならないだろうと、ふさぎこんでいらっしゃるところに、しみじみとした情を添える月影が、優美に、しめやかであるところに、源氏の君の、立ち居振る舞いのたびに立つ匂いが、類なく香ばしく、君がたいそうそっと部屋の中にお入りになると、姫君はすこしいざり出て、そのまま月を見ていらっしゃる。

またここで御話をしているうちに明け方近くなってしまった。

(源氏)「夜の短いことですよ。この程度の逢瀬ももう二度と持てないかもと思うと…。無為に過ごしてしまった年月も悔しく、これまでのことこれからのことも、語り草になるような身で、何となく心おちつく折もなくてございましたよ」と、過ぎ去った昔の事どもをおっしゃっているうちに、鶏もしばしば鳴くので、世間にはばかって急いでお出ましになる。

姫君は例によって、月が山の端に沈む時分の風情が、源氏の君がお帰りになることによそえられて、しみじみお心を痛められる。

姫君の色の濃いお召し物に月が映って、まさに歌にある「濡るる顔」なので、

(花散里)月影の…

(月の光をやどす私の袖は狭いですが、ひきとどめたいのです。いつまでも飽きることない月の光…貴方のことを)

姫君が辛いと思っていらっしゃるのがおいたわしいので、源氏の君はご自身もお辛いのであるが、また一方で姫君をお慰め申し上げなさる。

「行きめぐり…

(巡り巡っても最後には月が澄み輝くように、私もどこへ行こうと最後には無実の罪が晴れて戻ってこれるでしょう。だからほんのしばらくの間空が曇っているからといって、それをながめて悲しいお気持ちになりますな)

「しかし思えばおぼつかないことですね。ただ「知らぬ涙」だけが、心を暗くするものですよ」などおっしゃって、夜明けのまだ薄暗い時にご出発された。

語句

■花散里 麗景殿女御の邸。妹三の君の花散里もともに住む。「橘の香をなつかしみほととぎす花散里をたずねてぞとふ」(【花散里 03】)。 ■ことわりにて 麗景殿女御は桐壷院崩御後、源氏の庇護の下暮らしてきた。今、源氏が離京することになり生活があぶない。どうなるのでしょうかと何度も連絡してきたのだろう。 ■かの人 麗景殿女御の妹三の宮。花散里。 ■この御蔭に隠れて 源氏の庇護によって苦しい内情が隠されていて=源氏の庇護によってなんとか生活できていた。 ■住み離れたらむ巌の中 これから下る須磨のすまい。前段の紫の上との会話から引く(【須磨 03】)。 ■西面 花散里のすまい。また、花散里その人のこと。 ■にほひ 衣にたきしめている香の匂い。 ■ゐざり出でて 膝頭をついて前進すること。 ■えしもや 下に「あらむ」が省略。 ■思ふこそ 下に「つらけれ」などが省略。 ■よそへられて 月が沈むのが源氏が帰っていくことによそえられる。没落する源氏の境遇に、とする説も。 ■濡るる顔 「あひにあひて物思ふころのわが袖に宿る月さへ濡るる顔なる」(古今・恋五 伊勢)。「あひにあひて」は毎度同じようにの意。 ■月影の… 「月影」は源氏。「袖」は花散里。「袖が狭い」は生活が苦しいこと。 ■行きめぐり… 「行きめぐり」は月が運行することと、源氏が須磨に下ることをかける。「すむ」は「澄む」と身の潔白が晴れるの意をかける。 ■はかなしや 源氏は歌の中では都に帰ることに期待をかけながら、一方ではそれはおぼつかないことだと感じている。 ■心をくらす 心をかきくらす。暗くする。

朗読・解説:左大臣光永

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