> 【源氏物語】【須磨 07】出立前日 源氏、藤壺宮を訪ねる【原文・現代語訳・朗読】

【須磨 07】出立前日 源氏、藤壺宮を訪ねる

明日とての暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふとて、北山へ参《ま》うでたまふ。暁かけて月出づるころなれば、まづ入道の宮に参うでたまふ。近き御簾《みす》の前に御座《おまし》まゐりて、御みづから聞こえさせたまふ。春宮《とうぐう》の御ことを、いみじううしろめたきものに思ひきこえたまふ。かたみに心深きどちの御物語は、よろづあはれまさりけんかし。

なつかしうめでたき御けはひの昔に変らぬに、つらかりし御心ばへもかすめ聞こえさせまほしけれど、今さらにうたてと思さるべし。わが御心にも、なかなかいま一きは乱れまさりぬべければ、念じ返して、ただ、「かく思ひかけぬ罪に当りはべるも、思うたまへあはすることの一ふしになむ、空も恐ろしうはべる。惜しげなき身は亡きになしても、宮の御世にだに事なくおはしまさば」とのみ聞こえたまふぞことわりなるや。宮も、みな思し知らるる事にしあれば、御心のみ動きて聞こえやりたまはず。大将、よろづのことかき集め、思しつづけて泣きたまへる気色いと尽きせずなまめきたり。「御山《みやま》に参りはベるを、御|言《こと》づてや」と聞こえたまふに、とみにものも聞こえたまはず、わりなくためらひたまふ御気色なり。

見しはなくあるは悲しき世のはてを背きしかひもなくなくぞ経る

いみじき御心まどひどもに、思しあつむることどもも、えぞつづけさせたまはぬ。別れしに悲しきことは尽きにしをまたぞこの世のうさはまされる

現代語訳

明日はご出立なので、その日の暮には、院の御墓を拝み申し上げなさろうということで、北山へお参りになる。明け方にかけて月が出るころなので、まず入道の宮(藤壺の宮)にお参りになる。

近い御簾の前に源氏の君の御座所をしつらえて、藤壺の宮ご自身がお話なさる。

藤壺の宮は東宮の御ことを、たいそう心配していらっしゃる。互いに心深くに思いを抱いていらっしゃる御二方のお話は、万事しみじみと心深いものであったろう。

藤壺の宮のやさしくすばらしいご様子は昔のままであるが、つれなかった御心根もそれとなくお恨み申し上げたいが、今さらそんなことを申し上げては藤壺の宮は嫌なことにお思いになるに違いない。

源氏の君ご自身の御心としても、かえってなおいっそう思い乱れるに違いないので、我慢して、ただ、(源氏)「このように思いかけない罪に問われておりますにつけても、胸に思い当たる一つのことに、空を仰ぐのも恐ろしい気持でございます。惜しくもないわが身は亡きものになっても、東宮の御世さえ何事もなくあられますなら…」とだけは申し上げなさるのも、もっともというものであろうか。

藤壺の宮も、すべて思い当たることだらけなので、御心ばかり動揺して何もおっしゃられない。

大将(源氏の君)が、あらゆることをかき集めて思いつづけて泣いていらっしゃる様子は、たいそう尽きることなく優美な感じである。

(源氏)「御山に参りますが、御言づてはございませんか」と申し上げなさると、藤壺の宮はとっさにものもおっしゃることができず、懸命に、物を言いわずらっていらっしゃるご様子である。

(藤壺)見しはなく…

(連れ添った人は亡くなり、生きている人は悲しい境遇となった世の果てを、出家したかいもないまま過ごしております)

ひどくさまざまな御心の惑いによって、あれこれお考えになっていたことも、仰せつづけなさることがおできにならない。

(源氏)別れしに…

(故院とお別れした時に悲しいことは味わい尽くしたと思いましたのに、さらにこの世の辛さが増すことですよ)

語句

■北山 京都の北方の山。桐壷院の御陵は松ヶ崎あたりと思われる。 ■暁かけて 明け方にかけて。夜更けから明け方にかけて月が出るので、藤壺の宮に対面しようとした。 ■御みづから 女房を介さないで藤壺が直接話をする。 ■つらかりし御心ばへ 藤壺は源氏からの求愛を拒むために出家した。 ■思うたまへあはすること 源氏が藤壺と密通して東宮が生まれたこと。 ■東宮の御代 東宮が即位してからの御世。右大臣方の画策で、東宮の地位がおびやかされていることを源氏は心配している。橋姫巻に、弘徽殿らには八の宮を東宮に立てる計画があったとある。 ■ことわりなるや なにが「ことわり」なのか意味が取りづらい。東宮のことは話さないようにしていたが、やはり話に出してしまったの意か。 ■大将 源氏はこの時無位無官なので「大将」はおかしいが、以前の呼び方に準じている。 ■御山 桐壺院の御陵。 ■とみに 頓に。とっさに。急に。 ■見しはなく… 「見し」は桐壺院。「ある」は源氏。「かひもなく」の「なく」に「泣く」をかける。 ■いみじき御心まどひどもに あまりにも心惑いが多いので、さまざまな話したいことも話しつづけることができない。 ■別れしに… 「この世」に「子(東宮)の世」をかける。 

朗読・解説:左大臣光永

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