> 【源氏物語】【須磨 08】源氏、賀茂の下の御社(下鴨神社)を拝む 次いで故院の山陵を拝む【原文・現代語訳・朗読】

【須磨 08】源氏、賀茂の下の御社(下鴨神社)を拝む 次いで故院の山陵を拝む

原文

月待ちいでて出でたまふ。御供にただ五六人ばかり、下人《しもびと》も睦ましきかぎりして、御馬にてぞおはする。さらなることなれど、ありし世の御歩《あり》きに異なり。みないと悲しう思ふ。中に、かの御禊《みそぎ》の日仮の御随身《みずいじん》にて仕うまつりし右近将監《うこんのぞう》の蔵人《くらうど》、得《う》べき冠《かうぶり》もほど過ぎつるを、つひに御簡《みふだ》削られ、官《つかさ》もとられてはしたなければ、御供に参る中なり。賀茂の下《しも》の御社《みやしろ》を、かれと見わたすほど、ふと思ひ出でられて、下りて御|馬《むま》の口を取る。

ひき連れて葵かざししそのかみを思へばつらし賀茂のみづがき

といふを、げにいかに思ふらむ、人よりけに華やかなりしものを、と思すも心苦し。君も御馬より下りたまひて、御社の方拝みたまふ。神に罷申《まかりまう》ししたまふ。

うき世をば今ぞ別るるとどまらむ名をばただすの神にまかせて

とのたまふさま、ものめでする若き人にて、身にしみてあはれにめでたしと見たてまつる。

御山《みやま》に参《ま》うでたまひて、おはしましし御ありさま、ただ目の前のやうに思し出でらる。限りなきにても、世に亡くなりぬる人ぞ、言はむ方なく口惜しきわざなりける。よろづのことを泣く泣く申したまひても、そのことわりをあらはにえ承りたまはねば、さばかり思しのたまはせしさまざまの御遺言は、いづちか消え失せにけん、と言ふかひなし。御墓は、道の草しげくなりて、分け入りたまふほどいとど露けきに、月も雲隠れて、森の木立《こだち》木《こ》深く心すごし。帰り出でん方もなき心地して、拝みたまふに、ありし御面影さやかに見えたまへる、そぞろ寒きほどなり。

なきかげやいかが見るらむよそへつつながむる月も雲がくれぬる

現代語訳

月が出るのを待ってご出発なさる。御供にただ五六人だけ、召使も親しく仕え慣れた者だけを連れて、御馬に乗ってご出発なさる。言うまでもないことだが、以前のお忍び歩きとは異なっている。みなたいそう悲しく思う。

その中に、例の御禊の日、仮の御随身としてお仕え申し上げた右近将監の蔵人は、得るはずだった位も得られず時期が過ぎてしまったのに、ついには殿上の御簡《みふだ》も削られて、官職も召し取られて居場所がないので、源氏の君のお供に参る人々の中に加わっているのだ。

賀茂の下の御社を、それと見渡すあたりで、ふと思い出されて、馬を下りて源氏の君の馬の口を取る。

(将監)ひき連れて…

(人々をひき連れて葵をかざした昔を思うと、賀茂の瑞垣が辛いことですよ)

というのを、(源氏)「なるほど将監はどう思っているだろう。人よりもたいそう華やかにしていたからな」とお思いになるにつけても、源氏の君は不憫なお気持になられる。

源氏の君も御馬からお下りになって、御社の方をお拝みになる。神にお暇乞いを申し上げなさる。

(源氏)うき世をば…

(この辛い世の中と今こそ別れます。後に残る評判は、真偽をただす、その名もただすの神におまかせして)

とおっしゃるご様子は、将監は感激しやすい若い人なので、しみじみと身にしみてうばらしい方と拝見する。

御山にお参りなさると、院のご生前の御ようすが、ただ目の前のことのようについ思い出される。

この上ない帝王のご身分でも、亡くなってしまった人は、どう言っても仕方なく、口惜しいことなのであった。

源氏の君は、万事を泣く泣く申し上げなさるが、院のお答えをはっきりとお聞きになることはできないので、あれほど御心を尽くして残し置かれたさまざまなご遺言は、どこに消え失せてしまったのかと、言っても仕方なないかんじである。

御墓は、道中草が生い茂って、お分け入りになる時ひどく露が多く、月も雲に隠れて、森の木立がこんもりして、ぞっとする。

立ち帰る方法もないような心地がして、お拝みになっていると、故院のご生前の御面影がはっきりとお見えになるのは、思わず寒々とするほどである。

(源氏)なきかげや…

(故院はどのように私の有様をご覧になっておられようか。故院になぞらえつつ眺めていた月も雲に隠れてしまった)

語句

■月待ちいでて 「待ちいづ」は月が出るのを待って出ること。 ■下人 召使。 ■ありし世 源氏の君の全盛期。 ■仮の御随身… 【葵 06】。 ■右近将監 紀伊守の弟。伊予介の子。 ■得べき冠 従五位の下にされること。叙爵。 ■御簡削られ 殿上人の名札をはずされ除籍されること。 ■官もとられて 右近将監の官職を罷免されたこと。 ■賀茂の下の御社 下鴨神社。賀茂御祖神社。 ■思い出でられて 「かの御禊の日」のことを思い出した。この日将監は源氏の馬の口を取った。 ■ひき連れて… 「葵かざす」は葵の葉を冠の上にかざすこと。「そのかみ」は「往昔」と「その神」をかける。「ひく」は馬の縁語。「瑞垣」は神社の垣根の美称。源氏の君にこんなひどい仕打ちをした神を恨んでいる。 ■うき世をば 「ただすの神」は下鴨神社の神。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。「名を糺す」の意をかける。 ■ものめでする 感じやすい。感激しやすい。 ■御山 桐壺院の御陵。松ヶ崎あたりと思われる。 ■限りなきにても 「十善帝王の位も、生をへだて侍れば、何事も口惜しきことなり」(細流抄(『源氏物語』の注釈書))。 ■そのことわり 院からの御返事。 ■さまざまのご遺言 桐壺院は、源氏に、朱雀帝を補佐するよう遺言した。それなのにこんな境遇になってしまっては院のご遺言にそいたくてもそうことができない。 ■御墓は、道の草しげくなりて… 「古墓何レノ世ノ人ナル 姓ト名トヲ知ラズ 化シテ路傍ノ土ト作リ 年々春草生ズ」(白氏文集巻二・続古詩)。 ■露けきに 露が多い状態と、涙にくれていることをかける。 ■心すごし ぞっとすること。 ■なきかげや… 「なけかげ」は故人の霊。「月」は桐壷院。

朗読・解説:左大臣光永