【須磨 19】寂しき須磨の冬 源氏、詫び嘆く

かの御住まひには、久しくなるままに、え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、わが身だにあさましき宿世《すくせ》とおぼゆる住まひに、いかでかはうち具しては、つきなからむさまを思ひ返したまふ。所につけて、よろづのことさま変り、見たまへ知らぬ下人《しもびと》の上《うへ》をも、見たまひならはぬ御心地に、めざましう、かたじけなうみづから思さる。煙《けぶり》のいと近く時々立ち来るを、これや海人《あま》の塩焼くならむと思しわたるは、おはします背後《うしろ》の山に、柴《しば》といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、

山がつのいほりに焚《た》けるしばしばもこと問ひ来《こ》なん恋ふる里人

冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもことにすごくながめたまひて、琴《きん》を弾きすさびたまひて、良清に歌うたはせ、大輔《たいふ》横笛吹きて遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、こと物の声どもはやめて、涙を拭《のご》ひあへり。昔|胡《こ》の国に遣はしけむ女を思しやりて、ましていかなりけん、この世にわが思ひきこゆる人などをさやうに放ちやりたらむことなど思ふも、あらむ事のやうにゆゆしうて、「霜の後《のち》の夢」と誦《ず》じたまふ。月いと明かうさし入りて、はかなき旅の御座所《おましどころ》は奥まで隈《くま》なし。床の上に、夜深き空も見ゆ。入り方の月影すごく見ゆるに、「ただ是れ西に行くなり」と、独りごちたまて、

いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見るらむこともはづかし

と独りごちたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。

友千鳥もろ声に鳴くあかつきはひとり寝ざめの床《とこ》もたのもし

また起きたる人もなければ、かへすがへす独りごちて臥したまへり。夜深く御|手水《てうづ》参り、御|念誦《ねんず》などしたまふも、めづらしき事のやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え見たてまつり棄てず、家にあからさまにもえ出でざりけり。

現代語訳

須磨の住まいには、長くご滞在なさるにつれて、耐え難いようにお思いになるが、自分でさえ信じがたい運命と思われるこの侘しい住まいに、どうして姫君(紫の上)を連れてこれよう。いかにも姫君に似つかわしくないだろう今の境遇を思い返しなさる。

所がら、万事今までと様子が変わり、今まで源氏の君をてんで理解申し上げない下人のことをも、これまで経験されなかったことだから、心外に思われ、我ながらこんな下人たちの相手をするのも勿体ないとも、お思いになる。

煙がとても近くで時々立ち上るのを、これぞ海人が塩焼きをしているのだろうとずっと思っていらしたのは、お住まいの裏手の山で、柴というものをいぶらせているのだった。めずらしいので、

(源氏)山がつの…

(山賤の庵で柴を焚いているように、しばしば便りを寄せてほしい、恋しい故郷の人たちよ)

冬になって雪がひどく降るころ、空模様も特別寂しいのをお眺めになって、琴を思いのままにお弾きになって、良清に歌を歌わせ、大補が横笛を吹いて合奏なさる。

源氏の君が心をこめてしみじみした感じの曲をお弾きになると、他の楽器は音を止めて、涙を拭い合っている。

昔故の国に遣わした女をお思いやりになって、「ましてその時の帝のお気持はどうだったろう、この世で自分が恋しく思い申している人をそのように放ちやるような時は」など想像するにつけても、今に実際にそういうことが起こるような不吉な感じがして、(源氏)「霜の後の夢」とお口ずさみになる。

月がたいそう明るくさし込んできて、粗末な旅の御座所は奥まで隈なく月の光で照らされる。

床の上に、夜深くの空も見える。入方の月影が寂しげに見えるので、(源氏)「ただ是れ西へ行くなり」と、独り言を口ずさみなさって、

(源氏)いづかたの…

(どこの雲路に私も迷うのだろう。月が見ているだろうことも恥ずかしいことだ)

と独り言をつぶやかれて、いつものようにまどろむこともできない暁の空に、千鳥がたいそうしみじみした感じで鳴く。

(源氏)友千鳥…

(友千鳥が声を合わせていっしょに鳴いている暁には、ひとり寝の寝ざめの床もたのもしいと思える)

源氏の君のほか起きている人もいないので、返す返す独り言を口ずさみなさって横になっていらつしゃる。

夜深く御手水出で御手を清め、御念仏などをなさるのも、人々にはめずらしい事のようで、ひたすら尊くお見えになるので、この君をお見捨てすることができず、自分の家に一時的にでも帰ることができずにいるのだった。

語句

■え念じ過ぐすまじう 一人暮らしの侘しさに耐えきれなくなって、紫の上を呼び寄せようかと源氏は考える。 ■つきなからむ 須磨の寂しげな景色に紫の上の華やかな姿はいかにも似つかわしくない。 ■見たまへしらぬ 「見知らぬ」の謙譲語。源氏に対する理解などまったくないの意。 ■めざましう 「めざまし」は心外だ。これまで源氏はほとんどの人から大切にかしづかれてきた。しかしここには源氏のことなど意にも介さない身分の低い者たちがいるのである。そのことが源氏には意外な発見であった。 ■かたじけなう 高貴な身分でありながらこのような身分低い者たちと接するのが、我ながら勿体ないと思う。 ■ふすぶる いぶらせる。くゆり立っている。 ■山がつの… 「山がつのいほりに焚けるしば」が「しば」を導く序詞。「しばしば」は「柴柴」と頻度が多いの意の「しばしば」をかける。「里人」は「山里の人」の意と「故郷の人」の意をかける。 ■大輔 民部大輔。惟光。 ■故の国 古代中国の北方異民族の国。匈奴の国。 ■女 王昭君。匈奴王呼韓邪単于(こかんやぜんう)は、漢王朝との結びつきを強めようと、皇帝・元帝に後宮の女を下してほしいと頼む。元帝は毎夜の相手を似顔絵を見て選んでいた。女たちは美女に描いてもらおうと似顔絵師に賄賂を贈った。しかし王昭君は自分の美貌に自身があったため賄賂を贈らず、似顔絵師の怒りを買い、醜く描かれた。そこで元帝は似顔絵をみて、これなら惜しくないと思い、匈奴に送ることにした。出発の際、はじめて王将君を見た元帝は、その美しさに驚いたが、今更断れない。泣く泣く王昭君を送り出した。王昭君の悲劇は四世紀の小説『西京雑記』に描かれて以来、詩や演劇で、繰り返し語られる。 ■霜の後の夢 翠黛紅顔錦繍ノ粧ヒ 泣く泣く沙塞ヲ尋ネテ家郷ヲ出ヅ 辺風吹キ断ツ秋ノ心ノ緒 隴水流レ添フ夜ノ涙ノ行 故角一声霜ノ後ノ夢 漢宮万里月ノ前ノ腸 昭君若シ黄金ノ賄ヲ贈ラマシカバ 定メテ是身ヲ終ルマデ帝王ニ奉《つか》マツラマシ」(和漢朗詠集・王昭君 大江朝綱)。 ■月いと明かうさし入りて 前の王昭君の詩の「漢宮万里月ノ前ノ腸」から月を連想した。 ■床の上に、夜深き空も見ゆ 「暁ニナンナムトシテ簾ノ頭《ほとり》ニ白露ヲ生ス 終宵床ノ底《もと》ニ青天ヲ見ル」(和漢朗詠集・故宮付破宅 三善善宗)。 ■ただ是西に行くなり 「蓂発シ桂芳シク半バ円ヲ具ス 三千世界一周ノ天 天迫逈カニシテ玄鑒《げんかん》ノ雲将ニ霽《は》レントス 唯ダ是レ西ニ行クナリ左遷ニアラズ」(菅家後集・代月答)。菅原道真が左遷されるにあたってただ西に行くのみ左遷ではないと答えたもの。 ■たまて 「たまひて」とする本も。 ■御手水 潔斎のため手を洗う水。 ■めづらしき事のやうに 源氏は都では滅多にそんなことはしなかったから。 ■おぼえたまへば 「たまふ」は源氏に対する尊敬語。 ■家にあからさまにもえ出でざりける 源氏のありさまを見ていると供人たちは一時的にでも京の家にもどれず、ずっと源氏のそばにお仕えしていたいと思うのである。

朗読・解説:左大臣光永

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