【明石 13】八月十三夜 源氏、入道の娘と逢う

忍びてよろしき日みて、母君のとかく思ひわづらふを聞きいれず、弟子どもなどにだに知らせず、心ひとつに立ちゐ、輝くばかりしつらひて、十三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ「あたら夜の」と聞こえたり。君はすきのさまやと思せど、御|直衣《なほし》奉《たてまつ》りひきつくろひて夜ふかして出でたまふ。御車は二なく作りたれど、ところせしとて御|馬《むま》にて出でたまふ。惟光《これみつ》などばかりをさぶらはせたまふ。やや遠く入る所なりけり。道のほども四方《よも》の浦々見わたしたまひて、思ふどち見まほしき入江の月影にも、まづ恋しき人の御ことを思ひ出で聞こえたまふに、やがて馬引き過ぎて赴《おもむ》きぬべく思す。

秋の夜のつきげの駒よわが恋ふる雲ゐをかけれ時のまも見ん

とうち独りごたれたまふ。

造れるさま木《こ》深く、いたき所まさりて見どころある住まひなり。海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住みたるさま、ここにゐて思ひのこすことはあらじと思しやらるるに、ものあはれなり。三味堂《さんまいだう》近くて、鐘の声松風に響きあひてもの悲しう、巌《いは》に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり。前栽《せんざい》どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。むすめ住ませたる方は、心ことに磨きて、月入れたる真木《まき》の戸口けしきばかりおし開《あ》けたり。

うちやすらひ何かとのたまふにも、かうまでは見えたてまつらじという思ふに、もの嘆かしうて、うちとけぬ心ざまを、「こよなうも人めきたるかな。さしもあるまじき際《きは》の人だに、かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるにあなづらはしきにや」と、ねたうさまざまに思しなやめり。「情なうおし立たむも、事のさまに違《たが》へり。心くらべに負けんこそ人わろけれ」など、乱れ恨みたまふさま、げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ。近き几帳《きちやう》の紐に、箏《さう》の琴《こと》のひき鳴らされるも、けはひしどけなく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしければ、「この聞きならしたる琴をさへや」など、よろづにのたまふ。

むつごとを語りあはせむ人もがなうき世の夢もなかばさむやと

明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ

ほのかなるけはひ、伊勢の御息所《みやすどころ》にいとようおぼえたり。何心もなくうちとけてゐたりけるを、かうものおぼえぬに、いとわりなくて、近かりける曹司《ざうし》の内に入りて、いかで固めけるにかいと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。されどさのみもいかでかあらむ。人ざまいとあてにそびえて、心恥づかしきけはひぞしたる。かうあながちなりける契りを思すにも、浅からずあはれなり。御心ざしの近まさりするなるべし、常は厭《いと》はしき夜の長さも、とく明けぬる心地すれば、人に知られじと思すも、心あわたたしうて、こまかに語らひおきて出でたまひぬ。

御文いと忍びてぞ今日はある。あいなき御心の鬼なりや。ここにも、かかる事いかで漏らさじとつつみて、御使ことごとしうももてなさぬを、胸いたく思へり。かくて後は、忍びつつ時々おはす。ほどもすこし離れたるに、おのづからもの言ひさがなき海人《あま》の子もや立ちまじらんと思し憚《はばか》るほどを、さればよと思ひ嘆きたるを、げに、いかならむと、入道も極楽の願ひをば忘れて、ただこの御気色を待つことにはす。今さらに心を乱るも、いといとほしげなり。

現代語訳

入道はこっそりと吉日を見て、母君があれこれ思い悩むのを聞き入れず、弟子たちなどにさえ知らせず、自分の判断ひとつでばたばたと事を運び、娘の部屋を輝くばかりにととのえて、十三日の月のはなやかにさし出ている頃、ただ「あたら夜の」と源氏の君にご連絡をさしあげる。

君は風流ぶったことだとお思いになるが、御直衣をお召になって身だしなみを整えて夜更けになってからご出発になる。

御車は比類なく作りととのえてあったが、仰々しいということで、御馬でご出発になる。惟光などばかりをお供にお連れになる。

岡辺の宿は、海辺からかなり山のほうに遠く入る所なのであった。道中も四方の浦々をお見渡しになって、古歌にある「思ふどち」と見に行きたくなる入江の月影をご覧になるにつけても、まっさきに恋しい人(紫の上)の御ことを思い出されて、そのまま馬を引いてここを通り過ぎて都へ赴きたいようなお気持になられる。

(源氏)秋の夜の…

(秋の夜の月の下、月毛の馬よ、私の恋慕っている都の空を駆けてくれ。ほんのしばらくの間でも恋しい人に逢いたいのだ)

と独りつぶやかれる。

岡辺の宿の作りざまは、木々がうっそうとして、感心する所が多く、見どころのあるすまいである。

海辺の邸はごてごてと趣向をこらしてあるが、こちらの邸は、心細く住んでいるさまが、ここにいたらあらゆる物思いをし尽くすだろうとご想像されるにつけ、しみじみと御胸をお打たれになる。

三昧堂が近いので、鐘の音が松風と響きあってもの悲しく、岩に生えた松の根の延びているのも風情あるさまである。

方々の植え込みには虫の声が一面に鳴きしきっている。源氏の君は、あちこちの風情をご覧になる。娘を住ませている所は、特に念入りに美しくこしらえてあって、月の光がさしこんだ木戸口を少しばかりおし開けてある。

源氏の君がためらいながらも、あれこれおっしゃるにつけても、娘はこんなに近しくはお逢いするまいと深く思っているので、なんとなく悲しくて、うちとけない気構えを、(源氏)「たいそう一人前ぶったことであるな。たいそう近づきがたい身分の人でさえ、これほど言い寄ったら、心強く断ることもできないのが今までの常であったのに、こうして私がひどく落ちぶれているのを、侮っているのだろうか」と、いまいましく、さまざまに思い悩んでいらっしゃる。

(源氏)「情けもなく無理強いするのも、今の場合ふさわしくないし。かといって意地のはりあいに負けるのは人聞きが悪い」など、思い乱れ恨み言をおっしゃっているごようすは、なるほど、ものの風情を知る人に見せたいものであった。

近くの几帳の紐に、箏の琴が当たって音が鳴ったのも、ゆったりしたようすで、くつろいで琴をもてあそんでいた女の様子が察せられておもしろいので、(源氏)「いつも父君のお話に聞き慣れている琴までも(私には聞かせてくださらぬのか)」など、万事思いを訴えられる。

(源氏)むつごとを…

(親しい言葉を語り合う相手がほしいのです。うき世のつらい夢もなかば覚めるのではないかと思いまして)

(明石)明けぬ夜に…

(けして明けない無明長夜の闇にそのまま迷っている私の心には、何が夢で何が現か、区別して語ることができましょうか)

かすかに感じられる娘の気配は、伊勢の御息所にとてもよく似ている。無心でくつろいでいたところに、こうして不意の来訪を受けたことに、わけがわからなくなって、近くの部屋に入って、どうやって固めたのかたいそう強く戸を閉ざしているのを、源氏の君は無理やりにはお入りにならないご様子である。しかしそうばかりもいっておられようか。

娘の人柄はたいそう上品で、背が高く、こっちが恥ずかしくなるほど優れた雰囲気がある。

源氏の君は、こんな無理やりの契りを思うにつけても、前世からの縁が浅からぬことに、しみじみと感慨をもよおされる。

娘とお近づきになられたことによって、以前よりも情が深く感じられるのだろう、いつもは夜が長くて嫌に感じられるが、今夜は、はやく夜が明けてしまう気がするので、人に知られず立ち去ろう思うにつけても、お気持ちがせいて、こまやかな言葉を言い残してお帰りになった。

御文は、たいそうこっそりと今日は届けられる。源氏の君は、わけもなく御心がとがめられたのだろうか。

こちらでも昨夜の事はなんとか外に漏らすまいとつつみ隠して、御使を大げさにもてなせないことを、入道は残念に思っている。

こういうことがあって後は、源氏の君は忍びつつ時々娘のもとにいらした。

距離もすこし離れているので、自然と口さがない海人の子もうろちょろしているだろうと気兼ねをなさって、通わない夜が続くと、娘は「案の定」と思って嘆いているのを、「お前の嘆きはもっともだ。それで源氏の君のお気持ちはどうなのだろう」と、入道も極楽の願いを忘れて、ただ源氏の君のご来訪を待ってばかりいる。

今さらに出家の心を乱すのも、たいそう愛おしげなのである。

語句

■弟子ども 召使いたちのこと。出家しているので弟子とよぶ。 ■立ちゐ 「立ち居」。立ったり座ったりばたばたすること。 ■あたら夜の 「月のおもしろかりける夜、桜の花を見侍りて/あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや」(後撰・春下 源信明)。歌意は、せっかくの素晴らしい夜の月を、同じことなら情緒を解する人にお見せしたい。 ■ひきつくろひて 「ひきつくろふ」は身だしなみをととのえる。 ■ニなく この上なく。比類なく。 ■ところせし 仰々しい。度を超えている。 ■やや遠く入る 「やや」はかなり。海辺から山のほうへ。 ■なりけり たった今気づいたの意。 ■思ふどち 「思ふどちいざ見にゆかん玉津島入江の底に沈む月影」(源氏釈、異本第四句「入江の海に」)。歌意は、気心の知れた仲間たちよ、さあ見に行こうよ、玉津島の入江の底に沈む月を。 ■恋しき人 紫の上。 ■秋の夜の… 「秋の夜の」は「つき」の序詞。「つきげ」は「月」と「月毛」をかける。「月毛」は栗色や栃栗色の馬。「雲ゐ」は空の意と都の意をかける。 ■いたき所 「甚《いた》し」は感心するほどすぐれている。 ■海のつらはいかめしう… 源氏の住む海辺の邸と娘のすむ岡辺の邸を比較する。 ■思ひのこすことはあらじ 思い残すことがないほど、物思いをし尽くす。徹底してとことんな物思いをする。 ■三昧堂 法華三昧を行う堂。 ■月入れたる真木の戸口 源氏物語随一の表現と藤原定家が絶賛したという。 ■けしきばかりおし開けたり 「ここからお入りください」ということで入道がわざと開けておいたのである。 ■何かとのたまふ 娘に対する求婚の言葉を。 ■見えたてまつらじ 「見ゆ」は男女が関係を持つ。 ■人めく 一人前に見える。 ■さしもあるまじき際の人 さう簡単には近づけない身分の高い女性。 ■事のさまに違へり 源氏は入道から、娘と関係を持つことについて許可を得ている。だからといって無理強いというのも源氏の流儀に反する。 ■げにもの思ひ知らむ人にこそ 前の入道の台詞「あたら夜の」と、その引用元の歌を受けて、「なるほど、物の情緒を知る人に見せたいものだ」とつながる。 ■几帳の紐 几帳の帳の一幅ごとに垂れている紐。野筋。 ■琴をさへや 下に「聞かせたまはぬ」などが省略。 ■ほのかなるけはひ 暗闇の中に感じられる娘の存在感。 ■伊勢の御息所 六条御息所。「心にくくよしある人(優美で教養深い人)」と描写された御息所に、この娘は通じるところがある。 ■何心もなくうちとけて 入道は今夜源氏が来るとは娘に教えていない。 ■わりなくて 「わりなし」は判断が立たない。わけがわからない。 ■固めける 「固める」は掛け金をかけたりして戸を内側から閉じる。 ■さのみもいかでかあらむ そうばかりもどうして言っていられよう。源氏はついに部屋の中に侵入。 ■近まさり 近しい関係になったことによって、以前よりすばらしく思えること。 ■御文 後朝の文。 ■忍びて 世間の目をはばかって。また紫の上に知られることをはばかって。 ■あいなき 紫の上に知られることを憚る必要はないのに、どうしたわけか源氏は気にしているという作者の感想。 ■御心の鬼 「心の鬼」は後ろめたさ。明石の君と関係を持ったことによる、紫の上に対する罪悪感。 ■御使 後朝の文を持参した源氏の使者。 ■胸いたく 後朝の文を持参した使者を、本来ならば丁重にもてなしたい。しかし今は人目を避けねばならないので、そうもいかない。それが入道には心苦しい。 ■ほどもすこし離れたるに 源氏のすむ海辺の邸から、娘のすむ岡辺の家まで。 ■さればよ 案の定。娘はすぐに源氏が通ってこなくなると予想していたが、予想が的中した。 ■待つことにはす 「…ことにはす」はひたすら…する。もっぱら…する。 ■今さらに 出家して俗世のこととは縁を切っているのに、今さら娘の結婚のことであれこれ気を病むのは。

朗読・解説:左大臣光永

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