【澪標 07】乳母一行、明石に到着 明石の人々、よろこぶ

原文

車にてぞ京のほどは行き離れける。いと親しき人さし添へたまひて、ゆめに漏らすまじく、口がためたまひて遣はす。御佩刀《みはかし》、さるべき物など、ところせきまで思しやらぬ隈《くま》なし。乳母《めのと》にも、あり難うこまやかなる御いたはりのほど浅からず。入道の思ひかしづき思ふらむありさま、思ひやるもほほ笑まれたまふこと多く、またあはれに心苦しうもただこの事の御心にかかるも、浅からぬにこそは。御文にも、おろかにもてなし思ふまじと、かへすがへすいましめたまへり。

いつしかも袖うちかけむをとめ子が世をへてなづる岩のおひさき

津の国までは舟にて、それよりあなたは馬《むま》にて急ぎ行き着きぬ。

入道待ちとり、喜びかしこまりきこゆること限りなし。そなたに向きて拝みきこえて、あり難き御心ばへを思ふに、いよいよいたはしう、恐ろしきまで思ふ。児《ちご》のいとゆゆしきまでうつくしうおはすることたぐひなし。げに、賢き御心にかしづききこえむと思したるは、むべなりけり、と見たてまつるに、あやしき道に出で立ちて、夢の心地しつる嘆きもさめにけり。いとうつくしうらうたうおぼえて、あつかひきこゆ。

子持ちの君も、月ごろものをのみ思ひ沈みて、いとど弱れる心地に、生きたらむともおぼえざりつるを、この御おきての、すこしもの思ひ慰めらるるにぞ、頭《かしら》もたげて、御使にも二なきさまの心ざしを尽くす。「とく参りなむ」と急ぎ苦しがれば、思ふことどもすこし聞こえつづけて、

ひとりしてなづるは袖のほどなきに覆《おほ》るばかりのかげをしぞまつ

と聞こえたり。あやしきまで御心にかかり、ゆかしう思さる。

現代語訳

乳母の一行は車で京の町中を通り過ぎた。源氏の君は、たいそう親しい人々を付き添わせなさって、けして口外しないように、口止めをされて遣わされる。

御佩刀や、しかるべき品物など、置き場もないほどで、ご配慮が行き届かないところがない。

乳母に対しても、めったになく細やかな御いたわりのほどは、浅からぬものがある。

明石の入道が姫君をたいせつに思い可愛がっているだろう様子を思いやるにつけても自然と笑みがおこぼれになることが多く、それにまた、身にしみておいたわしいものとしてただ姫君のことがお気にかかるのも、前世からの浅からぬ宿縁というものであろう。

女君(明石の君)へのお手紙にも、けして姫君を粗雑に扱ってはならぬと、返す返すお戒めになる。

(源氏)いつしかも…

(早く袖をかけて抱きしめたいものだ天女が時代をヘだてて撫でる岩のように、末長い娘の命よ)

摂津の国までは舟で、そこから明石までは馬で急いで進んで到着した。

入道は乳母を待ち迎え、喜んでこの上もなく君に感謝申し上げる。源氏の君がいらっしゃる都の方に向かって拝み申し上げて、普通では考えられないほどの君のご配慮を思うにつけ、姫君がいよいよいたわしく、恐ろしいまでに愛しく思う。

この姫君が実に不吉なまでに可愛くていらっしゃることは、たぐいもない。乳母は「なるほど、君の賢い御心にも大切にお育て申そうとお思いになっているのは、当然のことであった」と、そう拝見するにつけ、乳母は、辺鄙な田舎に出てきて、夢のような心地であった嘆きもさめてしまった。乳母は姫君のことを清らかに可愛らしく思って、大切にお世話申し上げる。

子持ちの君(明石の君)も、ここ数ヶ月は物思いに沈んでばかりで、たいそう気持が弱っていて、生きているとも思えなかったのを、源氏の君のこの御はからいに、すこし物思いが慰められるので、床から頭を持ち上げて、都からの御使にも二つとないさまのおもてなしをし尽くす。

御使は「すぐに都に帰参いたします」と急いで、ひきとめるのを遠慮するので、女君(明石の君)は多くの思うことを少し書きつづけて、

(明石)ひとりして…

(一人で姫君の行く末を撫でるには私の袖は狭いので、それを覆い尽くすほどの貴方の広い御袖の陰をお待ちしております)

と申し上げた。源氏の君は、姫君のことが不思議なまでに御心にかかり、早く対面したいとお思いになる。

語句

■御佩刀 貴人の腰に帯びる刀。女子の守として与える。 ■思ひかしづき 「思ひかしづく」は大切に世話をする。 ■浅からぬにこそは 源氏と明石の君との前世からの宿縁が。 ■いつしかも… 大きな岩の上に三年に一度天女が舞い降りて、羽衣で岩をなでる。それで岩がすり減って無くなるまでを一小劫《ごう》とする。「いつしか…む」は早く…したい。「をとめ子」は天女。「岩」は姫君。「君が代は天の羽衣まれに来て撫づとも尽きぬ巌なるらむ」(拾遺・賀 読人しらず)などに通じる趣向。 ■この御おきて 乳母を派遣するなどの処置。 ■ひとりして…

朗読・解説:左大臣光永