【澪標 08】源氏、紫の上に明石の君のことを話す 紫の上、すねる

【古典・歴史】メールマガジンはこちら

原文

女君には、言《こと》にあらはしてをさをさ聞こえたまはぬを、聞きあはせたまふこともこそと思して、「さこそあなれ。あやしうねぢけたるわざなりや。さもおはせなむと思ふあたりには心もとなくて、思ひの外《ほか》に口惜しくなん。女にてあなれば、いとこそものしけれ。尋ね知らでもありぬべき事なれど、さはえ思ひ棄《す》つまじきわざなりけり。呼びにやりて見せたてまつらむ。憎みたまふなよ」と聞こえたまへば、面《おもて》うち赤みて、「あやしう、常にかやうなる筋のたまひつくる心のほどこそ、我ながらうとましけれ。もの憎みはいつならふべきにか」と怨《ゑ》じたまへば、いとよくうち笑みて、「そよ、誰《た》がならはしにかあらむ。思はずにぞ見えたまふや。人の心より外《ほか》なる思ひやりごとして、もの怨《ゑ》じなどしたまふよ。思へば悲し」とて、はてはては涙ぐみたまふ。年ごろ飽かず恋しと思ひきこえたまひし御心の中《うち》ども、をりをりの御文の通ひなど思し出づるには、よろづの事すさびにこそあれと、思ひ消《け》たれたまふ。

「この人をかうまで思ひやり言《こと》とふは、なほ思ふやうのはべるぞ。まだきに聞こえば、またひが心得たまふべければ」とのたまひさして、「人柄のをかしかりしも、所がらにや、めづらしうおぼえきかし」など語りきこえたまふ。あはれなりしタ《ゆうべ》の煙《けぶり》、言ひしことなど、まほならねどその夜の容貌《かたち》ほの見し、琴《こと》の音《ね》のなまめきたりしも、すべて御心とまれるさまにのたまひ出づるにも、我はまたなくこそ悲しと思ひ嘆きしか、すさびにても心を分けたまひけむよ、とただならず思ひつづけたまひて、我は我と、うち背きながめて、「あはれなりし世のありさまかな」と、独り言のやうにうち嘆きて、

思ふどちなびく方にはあらずともわれぞけぶりにさきだちなまし

「何とか。心憂や。

誰により世をうみやまに行きめぐり絶えぬ涙にうきしづむ身ぞ

いでや、いかでか見えたてまつらむ。命こそかひ難かべいものなめれ。はかなき事にて人に心おかれじと思ふも、ただひとつゆゑぞや」とて、箏の御琴引き寄せて、掻き合はせすさびたまひて、そそのかしきこえたまへど、かのすぐれたりけむもねたきにや、手も触れたまはず。いとおほどかに、うつくしうたをやぎたまへるものから、さすがに執念きところつきて、もの怨じしたまへるが、なかなか愛敬づきて腹立ちなしたまふを、をかしう見どころありと思す。

現代語訳

源氏の君は、女君(紫の上)には、言葉に出してはっきりとは明石の君のことをお話していらっしゃらなかったので、女君がよそからお聞きおよびになっても誤解をまねくとお思いになって、(源氏)「…と、そのような次第だそうです。妙にうまくいかないことですね。生まれてほしいと思う御方には、じれったくその兆しもなく、意外なことで残念です。その上女子ですから、ひどくつまらないことですよ。放っておいてもかまわないような事ですが、そうは思い棄てることもできかねることですよ。今に呼びにやって貴女にお見せいたしましょう。お憎みになりますな」と申し上げなさると、女君は顔をぱっと赤くして、(紫の上)「妙ですこと。いつも私がそうした嫉妬深い性分であるかのように貴方はおっしゃいますが、私はこういう自分の心の持ちようが、我ながら嫌で仕方ないのですからね。でも、他人を憎むということはいつ身につくものでしょうか(貴方の行いによってこそ、私はこうした嫉妬深い性分が身についたのです)」と恨み言をおっしゃると、源氏の君はにっこりお笑いになり、(源氏)「それ、それですよ。誰が貴女に嫉妬深い性分を身に着けさせましたか(それは誰のせいでもない、貴女自身から出たものです)。思わぬご様子をなさるものですよ。私が思いもよらなかった勝手な思い込みをして、恨み言などおっしゃる。そう思うと悲しいです」といって、最後には涙ぐまれる。

女君は、ここ数年、たまらなく恋しいと思い申し上げなさったお互いの御心のうちや、折々のお手紙のやり取りなどを思い出されるにつけ、君の自分以外との女性関係はすべて、気まぐれであったのだと、お恨みの思いも自然とお消えになる。

(源氏)「この人をここまで思いやり便りを送るのは、やはり思うところがあるからなのです。それをこんなに早く貴女にお話すれば、また誤解なさるに違いございませんので」と途中に言うのをおやめになって、(源氏)「人柄がすぐれていたのも、場所が場所だからでしょうか、滅多にないことと思えましたよ」などお話申し上げなさる。

しみじみと心打たれた夕べの煙、女君(明石の君)が詠んだ歌、はっきりとではないがその夜の女君の姿をちらりと見たこと、琴の音が優美に見事であったことも、すべて今だに女君からお気持ちが離れないようすで仰せ出しなさるにつけても、女君(紫の上)は、「私は都でまたとなく悲しく思い嘆いていたのに、君は一時の気まぐれとしても別のお方に情けをお分けになっておられたのか」と、ただならず思いつづけられて、「私は私」と、顔を背けてうち沈んで、(紫の上)「しみじみ愛しかった貴方との仲でしたのに」と、独り言のようにため息をお漏らしになって、

(紫の上)思ふどち…

(相思相愛の貴方達がなびいていく方向には寄り添えなくても、私は一人煙となって先立ってしまいましょう)

(源氏)「何ということを。残念ですよ。

誰により…

(誰のためにこの辛い世を海や山にさまよい、絶えぬ涙に浮き沈みした私の身だったのでしょう)

いやもう、どうにかして私の本当の気持をお見せいたしましょう。命は心のままになり難いもののようですが。些細なことで人に非難されまいと思うのも、ただ貴女一人のためなのですからね」といって、箏の御琴を引き寄せて、調子合わせに軽くお弾きなさって、女君におすすめ申し上げなさるが、かの明石の女君は御琴を弾くのにすぐれているらしいのも妬ましいからであろうか、手もお触れにならない。

たいそうおっとりと、可愛らしくものやわらかでいらっしゃるものの、そうはいってもやはり強情なところがあって、物恨みをしていらっしゃるのが、かえって魅力的で、むきになって怒っていらっしゃるのを、おもしろく相手にしがいがあるとお思いになる。

語句

■さこそあなれ 「さ」は明石の君に姫君が誕生したこと。 ■さもおはせなむと思ふあたり 出産してほしいと思われるお方。紫の上をさす。 ■心もとなくて じれったくも紫の上になかなか子が授からないこと。 ■女にてあなれば、いとこそものしけれ 紫の上を前にしてのポーズ。源氏は実はうれしいと思っている。 ■憎みたまふなよ 明石の君と姫君を。 ■かようなる筋 紫の上の嫉妬深い性分のこと。 ■のたまひつくる 源氏が紫の上の嫉妬深い性分について指摘すること。 ■もの憎みはいつならふべきにか 「か」は反語。他人を憎いという感情はいつ身につくものでしょうか、それは自然に身につくものではない、貴方が原因で私はこんなにも嫉妬深い性格になったのですの意。 ■誰がならはしにかあらむ 「か」は反語。誰があなたを嫉妬深い気性にさせたのですか、それは誰でもない、貴女自身から出たことですの意。 ■御心の中ども 源氏と紫の上のそれぞれの心中。 ■よろづの事 自分以外の女性関係すべて。 ■言とふ 言葉をかけること。 ■思ふやう 源氏には、姫君が后に立つという予言の言葉が念頭にある。しかし今はまだ紫の上には誤解される怖れがあるので言わないのである。 ■所がらにや 明石の君はたしかに素晴らしい方ではあったが鄙びた田舎のことだから他に人らしい人もいないからこそ良く思えたのだろう。貴女とは比べようもないと、紫の上を持ち上げている。 ■あはれなりし夕の煙 帰京二日前、明石の君としみじみ別れを惜しみ、歌を贈答した夕べ(【明石 17】)。 ■言ひしこと 源氏の歌に対する明石の君の返歌「かきつめてあまのたく藻の思ひにも今はかひなきうらみだにせじ」。 ■その夜の容貌 その夜まで源氏は明石の君の容貌をはっきり見たことはなかった。「さやかにもまだ見たまはぬ容貌など…」(【明石 17】)。 ■世のありさま 「世」は男女の仲。 ■思ふどち 源氏が明石に送った歌「このたびは立ちわかるとも藻塩《もしほ》やくけぶりは同じかたになびかむ」をふまえる(【明石 17】)。貴方たち二人は相思相愛で仲良く一方向になびいていますけど、私は一人煙となって死んでしまいますとすねている歌。 ■誰により… 「世をうみ」に「海山」をかける。「海山」の縁語で「うきしづむ」を導く。 ■命こそ 「命だに心にかなふものならば何か別れの悲しからまし」(古今・離別 白女)を引くか。歌意はせめて命が思いどおりになるならどうして別れが悲しいということがあろうか=命は思い通りにならないので、いつ生別が死別となるかわからない、だからこそ悲しいのだ。 ■掻き合はせ 調子合わせのためにちょっとした一節を弾くこと。 ■すさびたまひて 「すさぶ」は軽く弾く。 ■かのすぐれたりけむもねたきにや 「かの」は明石の君。前の「琴の音のなまめきたりしも」による。 ■執念きところつきて 意地っ張りなところも備わって。 ■なかなか愛敬づきて 源氏は紫の上の嫉妬を可愛らしく好ましいものに思う。帚木巻「雨夜の品定め」にもほどよい嫉妬の効用について説かれていた。「すべて、よろづのこと、なだらかに、怨《ゑん》ずべきことをば、見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも、憎からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし」(【帚木 04】)。

朗読・解説:左大臣光永

【古典・歴史】メールマガジンはこちら