【明石 17】源氏と明石の君、琴を和して別れを惜しむ

明後日《あさて》ばかりになりて、例のやうにいたくもふかさで渡りたまへり。さやかにもまだ見たまはぬ容貌《かたち》など、いとよしよししう気高きさまして、めざましうもありけるかなと、見棄てがたく口惜しうおぼさる。さるべきさまにして迎へむと思しなりぬ。さやうにぞ語らひ慰めたまふ。男の御|容貌《かたち》ありさま、はたさらにも言はず、年ごろの御行ひにいたく面痩《おもや》せたまへるしも、言ふ方《かた》なくめでたき御ありさまにて、心苦しげなる気色にうち涙ぐみつつ、あはれ深く契りたまへるは、ただかばかりを幸ひにても、などかやまざらむとまでぞ見ゆめれど、めでたきにしも、わが身のほどを思ふも尽きせず。波の声、秋の風にはなほ響きことなり。塩焼く煙《けぶり》かすかにたなびきて、とり集めたる所のさまなり。

このたびは立ちわかるとも藻塩《もしほ》やくけぶりは同じかたになびかむ

とのたまへば、

かきつめてあまのたく藻の思ひにも今はかひなきうらみだにせじ

あはれにうち泣きて、言《こと》少ななるものから、さるべきふしの御|答《いら》へなど浅からず聞こゆ。この常にゆかしがりたまふ物の音《ね》などさらに聞かせたてまつらざりつるを、いみじう恨みたまふ。「さらば、形見にも忍ぶばかりの一ことをだに」とのたまひて、京より持ておはしたりし琴《きん》の御|琴《こと》取りに遣はして、心ことなる調べをほのかに掻き鳴らしたまへる、深き夜の、澄めるはたとへん方なし。入道、えたへで箏《さう》の琴《こと》取りてさし入れたり。みづからもいとど涙さへそそのかされて、とどむべき方なきに、さそはるるなるべし、忍びやかに調べたるほどいと上衆《じやうず》めきたり。入道の宮の御|琴《こと》の音《ね》をただ今のまたなきものに思ひきこえたるは、今めかしう、あなめでたと、聞く人の心ゆきて、容貌《かたち》さへ思ひやらるることは、げにいと限りなき御琴の音《ね》なり。これは、あくまで弾き澄まし、心にくくねたき音ぞまされる。この御心にだにはじめてあはれになつかしう、まだ耳馴れたまはぬ手など心やましきほどに弾きさしつつ、飽かず思さるるにも、月ごろ、など強ひても聞きならさざりつらむ、と悔しう思さる。心の限り行く先の契りをのみしたまふ。「琴《きん》はまた掻き合はするまでの形見に」とのたまふ。女、

なほざりに頼めおくめる一ことをつきせぬ音《ね》にやかけてしのばん

言ふともなき口ずさびを恨みたまひて、

「逢ふまでのかたみに契る中の緒《を》のしらべはことに変らざらなむ

この音《ね》違《たが》はぬさきに必ずあひ見む」と頼めたまふめり。されど、ただ別れむほどのわりなさを思ひむせたるも、いとことわりなり。

現代語訳

明後日にはご出発という日になって、源氏の君は、いつものように夜が更けてからでなく早いうちに女君のもとにおいでになった。

まだはっきりとはご覧になったことのなかった女君の姿など、実に優雅で気高いようすで、「案外にすばらしい方であったのだな」と、見棄てがたく、別れなければならないことを残念にお思いになる。いつかしかるべき処遇で京に迎えようとご決心なさる。そのように女君に語らってお慰めになる。

男のお顔立ちやお姿は、また今さら言うまでもなくすばらしく、ここ数年の勤行でひどく痩せていらっしゃるのも、言いようもなく美しいご様子で、心苦しそうなようすで涙ぐみつつ、しみじみと情愛深くお約束になられるのは、女君としては、ただこれだけのことを幸いとして、君との関係を終わりにしてしまわないのかとまで見えようが、女君は、源氏の君のすばらしさを拝見するにつけ、わが身のほどを思って物思いが尽きない。

波の音が、秋の風に乗って、やはり格別の響きである。塩焼く煙がかすかにたなびいて、さまざな風情をとり集めた、この場所の風情である。

(源氏)このたびは…

(今回はお別れになってしまいますが、藻塩焼く煙が同じ方向にたなびくように私たちもいずれいっしょになれましょう)

とおっしゃると、

(明石)かきつめて…

(かきあつめて海人が焚く藻塩火のように物思いが尽きないのですが、今はかいのないことですから、お恨みすらいたしません)

しみじみと泣いて、言葉は少ないのだが、しかるべきご返事などは心浅からず申し上げる。この、いつもお聞きになりたがっていらした琴の音などを少しもお聞かせ申し上げなかったことを、源氏の君はひどくお恨みになる。

(源氏)「それならば、形見に忍ぶような一節だけでもせめて…」とおっしゃって、京から持っていらしていた琴の御琴を取りに人を遣わして、格別におもしろい一曲をほのかに掻き鳴らしていらっしゃる、夜深くにその音が澄んでいることは、たとえようもない。

入道はじっとしていられず、箏の琴を取って御簾の内にさし入れる。

当人(女君)も、たいそう涙さえ誘われてきて、とどめようがないので、自然とそうした気分になるのだろう、忍びやかに琴を弾き鳴らすようすはたいそう気品が感じられる。

源氏の君は、入道の宮(藤壺)の御琴の音を当世に比類ないものとお思いお申し上げているが、あちらは、華やかに今めいて、ああすばらしいと、聞く人が満足し、弾いている人の姿までも自然と想像されることにおいては、なるほど、実にこの上ない琴の音である。

こちらは、どこまでもつかえることなく弾き通して、奥ゆかしく、ねたましいまでに音色がすぐれている。

音楽に通じた源氏の君のお心にさえ、珍しく、しみじみと心惹かれ、まだ耳になさったことのない曲などを、もどかしいまでに、弾いては止め弾いては止めるので、もっと聴きたいとお思いになるにつけても、幾月も、どうして無理にでもたびたび聞かせてもらわなかったのだろうと、悔しくお思いになる。源氏の君は真心の限り、固く将来の約束をなさる。

(源氏)「琴はふたたび掻き合わせるまでの形見に」とおっしゃる。女、

(明石)なほざりに…

(あなたがいい加減にお約束くださったと思われる一言を、私はいつまでも声をあげて泣きながら、心にかけて貴方をしのびましょう。尽きぬ形見の琴を頼りにして)

言うともなく口ずさむのを源氏の君はお恨みになって、

(源氏)逢ふまでの…

(ふたたび逢うまでの形見にしようとお互いに誓った中の緒のしらべは、けして変わらないでしょう。私たちの仲も)

この音色が変わらぬ先に必ずお逢いしましょう」とご自身を頼みにさせなさるようだ。しかし女君は、ただ別れ際のやり場のない辛さを思って涙にむせているのも、しごく当然のことである。

語句

■例のやうに 源氏はいつも明石の君のもとに夜が更けて訪問した。 ■めざましうも 案外のことに驚くさま。明石の君の身分が低いのでそれほどの容貌ではあるまいと思っていたが、今目の前にすると、案外によいので驚いている。 ■さるべきさまにして 都で明石の君に対するしかるべき処遇をととのえてから迎えようというのである。 ■男の御容貌 男女が関係を持つ場面では「男」「女」と呼称する。 ■塩焼く煙 海藻を燃やして塩を生成する時に立つ煙。参考「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」(小倉百人一首九十七番 権中納言定家)。 ■とり集めたる 波・風・煙など風情をもよおすものを集めた。 ■このたびは… 「このたび」に「旅」をかける。「立ち」は「けぶり」の縁語。参考「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」(小倉百人一首七十七番 崇徳院)。 ■かきつめて… 「かきつむ」は「かき集む」の約。「藻の思ひ」に「物思ひ」を、「思ひ」の「ひ」に「火」を、「かひ《効》なき」に「貝なき」を、「うらみ」に「浦」をかける。 ■さるべきふしの 当然答えなければならない場合の。しかるべき。 ■一ことをだに 「こと」に「言」と「琴」をかける。 ■京より持ておはしたりし… 「さるべき書ども、文集など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ」(【須磨 05】)。 ■上衆めきたり 「上衆めく」は貴人めく。貴人らしく見える。気品があること。 ■今めかしう 「今めかし」は現代風で華やかであること。 ■この御心にだに 音楽に堪能な源氏の心にさえ。 ■心やましきほどに 「心病まし」はもどかしい。 ■弾きさし 「さす」は動詞について、その動作を途中でやめること。 ■形見に 下に「残し置かん」などが省略。 ■なほざりに… 「頼め」は頼みに思わせる。「こと《言》」に「琴」をかける。「こと」と「音」は縁語。「音」に「音に泣く」をかける。「かく」は「音にかく」=声に出す、「かけてしのぶ」=~によって思い出すの意をかける。 ■恨みたまひて 源氏はまごころからの言葉を「なほざり」よばわりされたことを恨んだ。 ■逢ふまでの… 「かたみ」は「形見」と「互み」を、「中の緒」の「中」に「仲」を、「こと《殊》に」に「琴に」をかける。「中の緒」の詳細は不明。 ■ただ別れむほどのわりなさ ただ目の前の別れ際のどうしようもない悲しさ。

朗読・解説:左大臣光永

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