【明石 18】源氏、明石の浦を去る 入道はじめ人々、名残を惜しみ、明石の君の行末を案ずる

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原文

立ちたまふ暁は、夜深《よぶか》く出でたまひて、御迎への人々も騒がしければ、心も空なれど、人間《ひとま》をはからひて、

うちすててたつも悲しき浦波のなごりいかにと思ひやるかな

御返り、

年へつる苫屋《とまや》も荒れてうき波のかへるかたにや身をたぐへまし

とうち思ひけるままなるを見たまふに、忍びたまへど、ほろほろとこぼれぬ。心知らぬ人々は、なほかかる御住まひなれど、年ごろといふばかり馴れたまへるを、今はと思すはさもあることぞかし、など見たてまつる。良清などは、おろかならず思すなむめりかしと、憎くぞ思ふ。

うれしきにも、げに今日を限りにこの渚を別るることなどあはれがりて、口々しほたれ言ひあへることどもあめり。されと何かはとてなむ。

入道、今日の御|設《まう》け、いと厳《いかめ》しう仕うまつれり。人々、下《しも》の品まで、旅の装束《さうぞく》めづらしきさまなり。いつの間にかしあヘけむと見えたり。御よそひは言ふべくもあらず、御衣櫃《みぞびつ》あまた荷《かけ》さぶらはす。まことの都のつとにしつべき御贈物ども、ゆゑづきて、思ひ寄らぬ隈《くま》なし。今日奉るべき狩の御装束に、

寄る波にたちかさねたる旅ごろもしほどけしとや人のいとはむ

とあるを御覧じつけて、騒がしけれど、

かたみにぞかふべかりける逢ふことの日数へだてん中のころもを

とて、「心ざしあるを」とて、奉りかふ。御身に馴れたるどもを遣はす。げに今ひとへ忍ばれたまふべきことを添ふる形見なめり。えならぬ御|衣《ぞ》に匂ひの移りたるを、いかが人の心にもしめざらむ。入道、「今はと世を離れはべりにし身なれども、今日の御送りに仕うまつらぬこと」など申して、かひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし。

「世をうみにここらしほじむ身となりてなほこの岸をえこそ離れね

心の闇はいとどまどひぬべくはべれば、境までだに」と聞こえて、「すきずきしきさまなれど、思し出でさせたまふをりはべらば」など、御気色たまはる。いみじうものをあはれと思して、所どころうち赤みたまへる御まみのわたりなど、言はむ方なく見えたまふ。「思ひ棄てがたき筋もあめれば。いまいととく見なほしたまひてむ。ただこの住み処《か》こそ見棄てがたけれ。いかがすべき」とて、

都出でし春のなげきにおとらめや年ふる浦をわかれぬる秋

とて、おし拭《のご》ひたまへるに、いとどものおぼえず、しほたれまさる。起居《たちゐ》もあさましうよろぼふ。

正身《さうじみ》の心地たとふべき方なくて、かうしも人に見えじと思ひしづむれど、身のうきをもとにて、わりなきことなれど、うち棄てたまへる恨みのやる方なきに、面影そひて忘れがたきに、たけきこととはただ涙に沈めり。母君も慰めわびて、「何にかく心づくしなることを思ひそめけむ。すべてひがひがしき人に従ひける心の怠りぞ」と言ふ。「あなかまや。思し棄つまじきこともものしたまふめれば、さりとも思すところあらむ。思ひ慰めて、御湯などをだに参れ。あなゆゆしや」とて、片隅に寄りゐたり。乳母《めのと》、母君など、ひがめる心を言ひあはせつつ、「いつしか、いかで思ふさまにて見たてまつらむと、年月を頼み過ぐし、今や思ひかなふとこそ頼みきこえつれ、心苦しきことをも、もののはじめにみるかな」と嘆くを見るにも、いとほしければ、いとどほけられて、昼は日一日《ひひとひ》寝《い》をのみ寝《ね》暮らし、夜はすくよかに起きゐて、「数珠《ずず》の行く方《へ》も知らずなりにけり」とて、手をおしすりて仰ぎゐたり。弟子どもにあはめられて、月夜に出でて行道《ぎやうだう》するものは、遣水に倒《たふ》れ入りにけり。よしある岩の片そばに、腰もつきそこなひて、病み臥したるほどになん、すこしもの紛れける。

現代語訳

ご出発になる早朝は、夜深いうちに宿を出られて、京からの御迎えの人々もさわがしかったので、心もひどく落ち着かないが、人目のない折を見計らって、

(源氏)うちすてて…

(貴女を残してこの浦を出発するのも悲しくて、その後貴女はどうなるかと思いやられることですよ)

ご返事は、

(明石)年へつる…

(貴方が去った後は長年経った苫屋も荒れて悲しいことでしょう。うき波が返っていく方へこの身を添えるように、貴方が帰っていく都の方に、海に身を投げてしまいたい)

と思っていたそのままを詠んだのをご覧になるにつけ、源氏の君は、こらえていらしたが、ほろほろと涙がこぼれてしまう。

事情を知らない人々は、やはりこんな御すまいではあっても、何年というほど住み馴れていらっしゃるのを、今はこれまでとお思いになると、悲しまれるのは当然だろう、などとお察し申し上げる。良清などは、「並々ならぬご執心であるよと」、憎く思う。

人々は、うれしい中にも、「なるほど今日を最後にこの渚と別れることだ」などと悲しんで、口々に涙を流しさまざまなことを言い合っているようだ。しかしそれをいちいち書くわけにもいくまい。

入道は、今日の御準備を、たいそう立派にととのえてさしあげた。人々は、身分の低い者にまで、旅の装束がめずらしいありさまに仕立てられている。

いつの間にしおおせたのだろうと思われる。源氏の君の御装束は言うまでもなく素晴らしく、御衣櫃をお供の人々に幾荷も背負わてお供させる。ほんとうに都の土産にできるような多くの御贈物は、優雅で、すみずみまで配慮が行きとどいている。

女君が、源氏の君が今日お召になることになっている狩衣の御装束に、

(明石)寄る波に…

(裁ち重ねているこの旅衣が涙に濡れているからといって、貴方のことを嫌いになるわけがございません)

と書いてあるのを見つけられて、忙しいところであったが、

(源氏)かたみにぞ…

(お互いに、形見として取り替えるべきですね。日数を隔てて逢えなくしている中の衣を)

とおっしゃって、(源氏)「せっかくのご厚意ですから」といって、お召し替えになる。御身に着ていらしたお召し物を遣わす。なるほどまた一つ思い出すよすがを添える形見の品であるようだ。言いようもなくすばらしいお召し物に香の匂いが移っているのを、どうして女君は深く心にしみて感じずにおれようか。

入道、「今はこれまでと、俗世を離れました身ですが、今日の御送りに付き添い申し上げられぬことが残念です」など申して、口をへの字形にして泣き顔を作るのも気の毒であるが、若い人が見たら笑ってしまうだろう。

(入道)「世をうみに…

(世間が嫌であるために、この海辺で何年も塩に濡れる身となっておりますが、やはりこの岸(俗世)を離れることができません)

「子を思う親の心の闇」というもので、今後はいっそう取り乱してしまいそうですから、せめて国境まで…」と申し上げて、(入道)「色めいた言い方ですが、娘のことをお思い出しになられる折がございましたら…」など、源氏の君のお気持をうかがう。

君はたいそうしみじみと胸にしみる思いにおなりで、所々赤らんでいらっしゃる御目元のあたりなど、言いようもなく美しく拝見される。

(源氏)「忘れがたい筋もあるでしょうから。今にたいそう早く私の真意もわかっていただけるでしょう。ただこの住処を見捨てるのが辛いことです。どうすればよろしいでのでしょうか」といって、

(源氏)都出でし…

(都を出発した時の、春の嘆きに劣るだろうか。今、何年もすごしたこの明石の浦を別れて、年老いた貴方と別れるこの秋は)

といって、涙を拭っていらっしゃると、入道はひどく正気を失うばかりで、いっそう涙にくれる。立つのも座るのも、あきれるくらい、よろめく。

女君本人の気持はたとえようもなくて、こんなに悲しんでいるのを人に見せまいと自分を抑えるのだが、わが身の運のつたなさがそもそもの原因なのだから、どうしようもないことながら、源氏の君が自分をお見捨てになることに対する恨みの持って行きどころがなく、君の面影がぴったりと寄り添って忘れがたく、ただ涙に沈むことしかできない。母君もどう慰めていいか途方にくれて、(母君)「どうしてこんな心配ごとに苦労し始めることになったのでしょう。すべて偏屈なあの人に私が従ってきた心の怠りですよ」と言う。

(入道)「ああうるさい。お見棄てになろうとてなれない事情もおありのようだから、いくらなんでもお考えがおありなのだろう。娘よ、お前は安心して、せめて御薬などをいただきなさい。ああ縁起でもない」といって、部屋の片隅に寄って座っている。

乳母、母君などは、入道の偏屈な気性のことを心をあわせてそしりあいながら、「いつか、どうにかして、女君を望み通りの身の上にしてあげようと、長い年月をあてにして過ごしてきましたが、今や思いがかなうと期待させていただいたのに、心苦しいことを、そのはじめに見ることですよ」と嘆くを見るにも、入道は娘が気の毒で、いよいよ放心の体で、昼は一日中寝てばかりいて、夜はしっかりと起きていて、「数珠がどこに行ったかわからなくなってしまった」といって、手をすって御仏を仰いでいる。弟子たちに疎んじられて、月夜に外に出て行道したところが、よりによって遣水の中にころげ落ちてしまった。

風情ある岩の片方のそばに、腰をついて怪我をしてしまって、そのために臥せっているうちに、すこし気分が紛れるのだった。

語句

■夜深く出でたまひて 岡辺の宿を。 ■うちすてて… 「名残」は波が引いた後に残っている波跡。これに自分が立ち去った後のことの意をかける。「たつ」「浦波」「なごり」は縁語。 ■年へつる… 「年へつる苫屋」は明石の君がすむ山辺の家。卑下してこう言う。「苫屋」は苫やチガヤで屋根を葺いた、または壁をしつらえた小屋。「うき」は「悲しい」の意と、「浮波」をかける。「たぐふ」は一緒に行かせる。伴わせる。 ■おろかならず 並々でない。 ■されど何かはとてなむ 草子文。 ■しあへけむ 「敢ふ」は、なしとげる。しおおせる。 ■御衣櫃 衣装を入れる櫃。 ■あまた荷 行荷も。「荷《かけ》」は荷物を数える単位。 ■まことの都のつとに 「をぐろ崎みつの小島の人ならば都の苞《つと》にいざと言はましを」(古今・東歌)。歌意は、をぐろ崎みつの小島がもし人であるならば都へのみやげとして「さあ行こう」と言ってつれて帰るのに。 ■思ひ寄らぬ隈なし この時代は婿の生活上のすべてを妻の実家が世話した。 ■狩の御装束に 狩衣の袖にでも歌を書いてあったのだろう。 ■寄る波に… 「寄る波に」は「たつ」の序詞。「たつ」は「立つ」に「裁つ」をかける。「しほどけし」は「塩解く」の形容詞化。涙に濡れる。 ■かたみにぞ… 「かたみ」は「形見」と「互み」を、「日数へだてん」に二人の間の衣がへだてるの意を、「中」に「仲」をかける。「中のころも」は下着と上着の間に着る衣。 ■奉りかふ お召し替えになる。「奉る」は「着る」の尊敬語。 ■今ひとへ ころもの縁語として「一重」を使った。 ■しめざらむ 「しむ」は香がしみる。 ■仕うまつらぬこと 下に「口惜しく侍り」などが省略。 ■かひをつくる 「貝を作る」は、口をへの字形にして泣き顔を作る。 ■世をうみに… 「うみ」は「憂み」と「海」をかける。「しほじむ」は潮水に濡れるの意と、長年すごして馴れ親しむの意をかける。「この岸」は明石の浦と、煩悩にまみれた俗世。 ■心の闇 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰・雑一 藤原兼輔)。 ■いとど 今後はいっそう。源氏がいなくなった後、娘のことが心配で。もう見棄てられたのではないかと思うので。 ■境までだに 取り乱してしまいそうなので、遠くまでは送れないが、せめて国境まで。下に「見送りたてまつらん」などが省略。 ■思し出でさせたまふをりはべらば 下に「聞こえさせたまへ」などが省略。 ■御気色たまはる 源氏のご意向をうかがう。 ■所々うち赤みたまへる 涙の跡で赤く染まっている。 ■思ひ棄てがたき筋 娘の懐妊のこと。「六月ばかりより心苦しきけしきありて悩みけり」(【明石 16】)。 ■いまいととく見なほしたまひてむ すぐに女君を都にお迎えしますとほのめかす。 ■この住み処 暗に入道をさす。 ■都出でし… 「年ふる」に長年この明石の浦にすんだという意の「年経る」と、年老いた入道をさす「年古る」をかける。 ■わりなきことなれど 「わりなし」は道理にあわない。どうしようもない。以下の「うち棄てたまへる恨み」は自分の側に原因があるから、「わりなし」となる。 ■たけきこととは 「猛きこととは」は、せめてできることは…だけだ。 ■あなかまや 「あな、囂《かま》しや」の約。「囂し」はやかましい。さわがしい。 ■思し棄つまじきこと 娘の懐妊のこと。 ■さりとも いくら都に帰るといっても。 ■思ひ慰めて 「…参れ」まで、入道が娘に当てた台詞。 ■ゆゆしや 母娘が悲しみ嘆くことが。 ■片隅に寄りゐたり 偏屈ではあってもやはり家族が意気消沈していることに一抹の責任を感じいじけている。 ■もののはじめに 結婚のはじめに。 ■ほけられて 「ほける」は放心する。 ■寝をのみ寝暮らし 「寝《い》を寝《ぬ》」で、寝ること。 ■手をおしすりて 数珠がないので手だけをすりすりしている。 ■仰ぎゐたり 仏像などに向かい合っているのであろう。 ■あはめられて 「淡む」はうとんじる。軽く見る。 ■行道 仏像のまわりなどを念仏を唱えながら歩き回ること。ここでは入道が庭を念仏しながら歩いているさまを大げさに言ったもの。 ■するものは …したところ、よりによって…となってしまったの意。 ■よしある岩 遣水のそばに面白い形の岩を配してある。 ■すこしもの紛れける 痛みによって、娘の将来を案ずる気持がすこし紛らされた。

朗読・解説:左大臣光永

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