【澪標 09】源氏、姫君の五十日の祝の使を明石に遣わす

五月五日にぞ、五十日《いか》にはあたるらむと、人知れず数へたまひて、ゆかしうあはれに思しやる。「何ごとも、いかにかひあるさまにもてなし。うれしからまし。口惜しのわざや。さる所にしも、心苦しきさまにて出で来たるよ」と思す。男君ならましかばかうしも御心にかけたまふまじきを、かたじけなういとほしう、わが御宿世も、この御事につけてぞかたほなりけり、と思さるる。御使出だし立てたまふ。「必ずその日違《たが》へずまかり着け」とのたまへば、五日に行き着きぬ。思しやることも、あり難うめでたきさまにて、まめまめしき御とぶらひもあり。

「海松《うみまつ》や時ぞともなきかげにゐて何のあやめもいかにわくらむ

心のあくがるるまでなむ。なほかくてはえ過ぐすまじきを、思ひ立ちたまひね。さりともうしろめたきことは、よも」と書いたまへり。入道、例の、喜び泣きしてゐたり。かかるをりは、生けるかひもつくり出でたる、ことわりなりと見ゆ。

ここにも、よろづところせきまで思ひ設《まう》けたりけれど、この御使なくは、闇の夜にてこそ暮れぬべかりけれ。乳母《めのと》も、この女君のあはれに思ふやうなるを語らひ人にて、世の慰めにしけり。をさをさ劣らぬ人も、類にふれて迎へ取りてあらすれど、こよなく衰へたる宮仕人《みやづかへびと》などの、巌《いはほ》の中尋ぬるが落ちとまれるなどこそあれ、これはこよなうこめき思ひあがれり。聞きどころある世の物語などして、大臣《おとど》の君の御ありさま、世にかしづかれたまへる御おぼえのほども、女心地にまかせて限りなく語り尽くせば、げにかく思し出づばかりのなごりとどめたる身も、いとたけくやうやう思ひなりけり。御文ももろともに見て、心の中《うち》に、「あはれ、かうこそ思ひの外《ほか》にめでたき宿世《すくせ》はありけれ。うきものはわが身こそありけれ」と思ひつづけらるれど、「乳母のことはいかに」など、こまかにとぶらはせたまへるもかたじけなく、何ごとも慰めけり。

御返りには、

「数ならぬみ島がくれに鳴く鶴《たづ》を今日もいかにととふ人ぞなき

よろづに思うたまへむすぼほるるありさまを、かくたまさかの御慰めにかけはべる命のほども、はかなくなむ。げにうしろやすく思うたまへおくわざもがな」と、まめやかに聞こたり。

うち返し見たまひつつ、「あはれ」と長やかに独りごちたまふを、女君、後目《しりめ》に見おこせて、「浦よりをちに漕ぐ舟の」と、忍びやかに独りごちながめたまふを、「まことはかくまでとりなしたまふよ。こはただかばかりのあはれぞや。所のさまなどうち思ひやる時々、来《き》し方のこと忘れがたき独り言を、ようこそ聞きすぐいたまはね」など、恨みきこえたまひて、上包《うはづつみ》ばかりを見せたてまつらせたまふ。手などのいとゆゑづきて、やむごとなき人苦しげなるを、かかればなめりと思す。

現代語訳

源氏の君は、五月五日は姫君の五十日にあたるはずだと、人知れずお数えになって、逢いたく、しみじみ胸打たれて思いやられる。(源氏)「都にいれば、どんなにかいのあるさまに処遇したろう。そうなれば嬉しいことであろうに。口惜しいことよ。よりによってあのような所に、気の毒なさまで生まれ出たことよ」とお思いになる。

もし男君であったら、ここまでは御心におかけにならないだろうが、畏れ多く、愛しく、ご自身の宿縁も、姫君のご誕生のために、災いもあったのだと、お思いになる。御使をお立てになる。(源氏)「必ずその日を違えず到着しろ」とおっしゃるので、五日に到着した。

源氏の君がご配慮なさることも並々でなく立派なようすで、生活実用上の贈り物もある。

(源氏)「海松や…

(いつも変わらず海松が岩陰に潜んでいるように、姫君はいつも寂しい海辺に暮らしていますが、それでは何の道理が立つでしょうか。五十日の祝の、しかもあやめの節句の今日を、いかに他の日と区別して祝ってもらっておりましょうか)

心が明石まで飛んでいきそうです。やはりこのままではお過ごしになれませんから、上洛をご決断ください。まさか心配なことは、させませんから」とお書きになっている。

入道は、例によって、喜び泣きしている。このような折は、生きているかいもあると、口をへの字にしているのも、もっともなことと思われる。

ここ明石でも、万事所狭いまでに祝い事の準備をしていたが、この御使がなくては、闇夜の錦というもので、人知れずその日も暮れてしまっていただろう。

乳母も、この女君(明石の君)がやさしく、思っていたとおりの人であったのを話し相手として、日々の慰めにしていた。

この乳母とくらべてもまったく劣らない女房も、縁故をもとめて京から迎えて付き添わせているが、それらは以前宮仕えをしていたがひどく落ちぶれた者などが、世をはかなんで巌の中まで住処を探し求めたようなのが、たまたまここに身を寄せている者などであるのだが、この乳母はそうした連中とは違い、たいそうおっとりして素直で、気位を高く保っている。

聞きがいのある世間話などして、大臣の君(源氏の君)の御ようす、世に大切にされていらっしゃるご声望の高さも、女心にまかせて限りなく語り尽くせば、女君(明石の君)も、なるほどこうして源氏の君が思い出してくださる形見たる姫君を産んだわが身も、たいそう立派なものだと次第に思うようになってきた。

乳母はお手紙も女君と一緒に見て、心の中に、(乳母)「ああ、こんなにも思いの外にすばらしい宿縁があったものだ。それにしても悲しいのはわが身のことであるよ」と自然と思いつづけてしまうが、「乳母はどうしている」など、こまかに源氏の君がお手紙の中でお尋ねになるのも畏れ多く、何事も慰められるのだった。

ご返事には、

(明石)数ならぬ…

(物の数でもない島陰に隠れて鳴く鶴…取るに足らない私に庇護されている姫君を、五十日の祝の今日すら、いかにと尋ねる人もございません)

万事思いつめふさぎ込んでおりますわが身を、こうしてたまさかにいただく御文の御慰めに命をつないでおりますが、それもはかないものです。本当に、姫君の身が安泰になるような処置を取り決めておきたいものです」と真剣に申し上げる。

源氏の君は明石の女君からのお手紙を何度もご覧になりつつ、「ああ」と長々とひとりため息をついていらっしゃるのを、女君(紫の上)は、流し目に見やって、(紫の上)「浦よりをちに漕ぐ舟の」と忍びやかに独り言を言って物思いに沈んでいらっしゃるのを、(源氏)「ほんとうに、こうまで邪推なさるのですね。これはただこれだけの気持ですよ。あの場所のようすなど思いやる時々や、過去のことが忘れがたくてつい漏れてしまう独り言を、よくもお聞き逃しにならないものですね」など、恨み言をおっしゃって、お手紙の上包だけをお見せになる。筆跡などがとても風情があり、高貴な人も引け目を感じそうなのを、「これだから君もかの女君(明石の君)にご執心なのだ」と女君(紫の上)はお思いになる。

語句

■五十日 生後五十日の祝。この日は父や外祖父が赤子に餅を食べさせるまねをするなどの儀式がある。姫君誕生は三月十六日(【澪標 05】)。『紫式部日記』にある敦成親王(後一条天皇)生誕五の五十日の祝のようすも念頭にあったか。 ■いかにかひあるさまにもてなし 「いか」に「五十日」をかけたか。 ■さる所に 田舎である明石に。 ■男君ならましかば… 女子を後宮に入れることが立身出世の手段だったから男子より女子が重んじられた。まして源氏は「御子が后に立つ」という予言を受けている。 ■かたじけなう 姫君が将来、后に立つという予言を念頭に置いた表現。 ■わが御宿世も… 須磨に下向し明石に移るという放浪をしたのも、すべて姫君誕生という喜びのためだったのだ。すべて前世から定められていたことなのだという理解。 ■かたほなりけり 「かたほ」は不十分だ、未熟だ。ここでは災いにあったこと不幸な目にあったことを言うか。 ■まめまめしき御とぶらひ 生活必需品など、実用的な品。風流向きのおみやげでなく。 ■海松や… 「海松」は海藻。姫君をさす。「あやめわく」は物事の筋道を立てる。「あやめ」に五月五日の「菖蒲」をかけ、「いかに」に「五十日」をかける。 ■え過ぐすまじきを 主語を明石母娘と取るが、源氏ととる説も。 ■よも 下に「させまい」の意を補う。 ■生けるかひもつくり出でたる 「生けるかひ《効》」に「かひをつくる」をかける。「かひをつくる」は口をへの字にすること。喜び泣きによって顔をいびつに変形させるさま。明石巻に、源氏帰京の折に入道が「かひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし」とある(【明石 18】)。 ■闇の夜にて 「富貴ニシテ故郷ニ帰ラザルハ繍ヲ衣テ夜行クガ如シ 誰カ之ヲ知ル者ゾ」(史記・項羽本紀)による。「見る人もなくて散りぬる奥山のもみぢは夜の錦なりけり」(古今・秋下 貫之)。 ■類にふれて 縁故を求めて。 ■巌の中尋ぬる 出家隠遁を考えた人。「いかならむ巌のなかに住まばかは世の憂きことの聞えこざらむ」(古今・雑下 読人しらず)。 ■などこそあれ 「などにこそあれ(などであるのだが)」の意。 ■こめき 「子めく」はおっとりして素直であること。 ■思ひあがれり 気位を高く持っている。源氏から直々に乳母に指名されたことも自負心につながっている。 ■なごり 姫君のこと。 ■数ならぬ… 「島」は明石の君。「鶴」は姫君。「数ならぬみ島」に「数ならぬ身」をかける。「いかに」に「五十日」をかける。 ■げに 源氏の手紙の「なほかくてはえ過ぐすまじきを…よも」を受ける。 ■思うたまへおく 「思ひ置く」は心に決めておく。姫君をどうするか源氏との間で取り決めておきたいの意。 ■浦よりをちに漕ぐ舟の 「み熊野の浦より遠《をち》に漕ぐ船のわれをばよそに隔てつるかな」(古今六帖三 伊勢)。暗に「私をのけものにして」とすねている。 ■かばかりのあはれ 「か」の内容は「所のさま…忘れがたき」。 ■上包 手紙を礼紙《らいし》で包み、その上から上包で包んで宛名を書く。 ■手などのいとゆゑづきて 「手のさま書きたるさまなど、やむごとなき人にいたうおとるまじう上衆めきたり」(【明石 13】)。 ■

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル