【明石 10】源氏、入道の娘に文を送る ぎこちなくも文通はじまる
思ふことかつがつかなひぬる心地して、涼しう思ひゐたるに、またの日の昼つ方、岡辺に御文遣はす。心恥づかしきさまなめるも、なかなかかかるものの隈《くま》にぞ思ひの外《ほか》なることも籠《こも》るベかめると、心づかひしたまひて、高麗《こま》の胡桃《くるみ》色の紙に、えならずひきつくろひて、
「をちこちも知らぬ雲ゐにながめわびかすめし宿の梢をぞとふ
思ふには」とばかりやありけん。入道も、人知れず待ちきこゆとて、かの家に来ゐたりけるもしるければ、御使いとまばゆきまで酔《ゑ》はす。御返りいと久し。
内に入りてそそのかせど、むすめはさらに聞かず。いと恥づかしげなる御文のさまに、さし出でむ手つきも恥づかしうつつましう、人の御ほどわが身のほど思ふにこよなくて、心地あしとて寄り臥しぬ。言ひわびて入道ぞ書く。「いとかしこきは、田舎びてはべる袂に、つつみあまりぬるにや。さらに見たまへも及びはべらぬかしこさになん。さるは、
ながむらん同じ雲ゐをながむるは思ひもおなじ思ひなるらむ
となん見たまふる。いとすきずきしや」と聞こえたり。陸奥国紙《みちのくにがみ》に、いたう古めきたれど、書きざまよしばみたり。げにもすきたるかなと、めざましう見たまふ。御使に、なべてならぬ玉裳《たまも》などかづけたり。
またの日、「宣《せんじ》旨書きは見知らずなん」とて、
「いぶせくも心にものをなやむかなやよやいかにと問ふ人もなみ
言ひがたみ」と、この度《たび》は、いといたうなよびたる薄様《うすやう》に、いとうつくしげに書きたまへり。若き人のめでざらむも、いとあまり埋れいたからむ。めでたしとは見れど、なずらひならぬ身のほどの、いみじうかひなければ、なかなか世にあるものと尋ね知りたまふにつけて、涙ぐまれて、さらに、例の、動《どう》なきを、せめて言はれて、浅からずしめたる紫の紙に、墨つき濃く薄く紛らはして、
思ふらん心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きかなやまむ
手のさま書きたるさまなど、やむごとなき人にいたうおとるまじう上衆《じやうず》めきたり。
京のことおぼえて、をかしと見たまへど、うちしきりて遺はさむも、人目つつましければ、二三日隔てつつ、つれづれなる夕暮、もしはものあはれなる曙などやうに紛らはして、をりをり人も同じ心に見知りぬべきほど推《お》しはかりて、書きかはしたまふに、似げなからず。心深う思ひあがりたる気色も、見ではやまじと思すものから、良清《よしきよ》が領《らう》じて言ひし気色もめざましう、年ごろ心つけてあらむを、目の前に思ひ違《たが》へんもいとほしう思しめぐらされて、人進み参らばさる方にても紛らはしてんと思せど、女はた、なかなかやむごとなき際《きは》の人よりもいたう思ひあがりて、ねたげにもてなしきこえたれば、心くらべにてぞ過ぎける。
京のことを、かく関隔たりては、いよいよおぼつかなく思ひきこえたまひて、いかにせまし、戯《たはぶ》れにくくもあるかな、忍びてや迎へたてまつりてましと、思し弱るをりをりあれど、さりともかくてやは年を重ねんと、今さらに人わろきことをばと、思ししづめたり。
現代語訳
入道は思っていたことが、ともかくも叶った心地がして、さっぱりした思いでいると、翌日の昼ごろ、源氏の君は岡の麓の家に御手紙をお遣わしになる。
気が引けるほどの素晴らしい人であるらしいのも、かえってこうした人目につかぬ田舎にこそ、存外にすばらしいことも隠れているものかもしれないと、お心遣いをなさって、高麗の胡桃色の紙に、なんともいえず素晴らしく体裁をととのえて、
(源氏)「をちこちも…
(遠いとも近いとも知らない空を眺めて物思いに沈んでは、入道が少しほのめかされた宿の梢を、霞のむこうにお訪ねするのです)
気持を抑えようとしておりましたが、思う心の強さがまさってしまいました」とぐらいは書いてあったろうか。
入道も、人知れず源氏の君をお待ち申し上げるつもりで、娘の家に来ていたところ、期待どおりのことになったので、御使を面映いまでに酒をふるまって酔わせる。ご返事はなかなか来ない。
入道は奥に入ってせっつくが、娘はまったく言うことを聞かない。たいそう気恥ずかしくなるほどのお手紙の書きように、返事を出す書き方も恥ずかしく気後れがして、源氏の君のご身分とわが身のご身分とを思うにそれはたいへんな違いであるから、気分が悪いといって物にもたれて横になってしまった。
入道は娘を説得しかねて自分でお返事を書く。(入道)「まことに畏れ多いことでございますが、田舎じみているあの娘には、あまりに幸いすぎるのでしょうか。まったく拝見することもできませぬのが畏れ多いことでございます。そうはいいましても、
ながむらん…
(貴方さまが眺めていらっしゃるとおっしゃる空。それと同じ空を娘が眺めておりますのは、思いが同じだからでしょう)
と見ております。好きごとに傾いたことで」と申し上げる。
陸奥紙に、たいそう古めいているが、書きざまは風情がある。なるほど好いたることよと、源氏の君はあきれてご覧になる。
入道は、御使に、上等な裳などを、肩にかけてやる。
翌日、(源氏)「代筆のお手紙は見たことがありませんよ」といって、
(源氏)「気持が晴れずに思い悩んでいることですよ。どうしたのですかときいてくれる人も私にはいないので
まだ見ぬ人に対しては恋しいとも言い難いので…」と、今回は、たいそうしなやかな薄様の紙に、とても美しげにお書きになっている。若い女がこれを受け取って喜ばないのは、あまりに引っ込み思案がすぎるというものだろう。
娘はそのお手紙をすばらしいものとは見たが、釣り合いが取れない身のほどが、考えてもひどくどうしようもないので、かえって自分のような女を世にある者と知って尋ねてこられるにつけて、自然と涙がこぼれて、やはり、これまで同様、気持は動かなかったが、しいてすすめられるので、香をふかく焚き染めた紫の紙に、墨つきを濃く、あるいは薄く書き紛らわして、
(明石)思ふらん…
(私を思っているという御心のほどは、さあどんなものでしょうか。まだ逢ったこともない人のことを聞いただけで、そんなに悩むものでしょうか)
筆跡や書いてあるようすなど、身分の高い人にひどく劣るまいと思われるほど、高貴な御方の風である。
源氏の君は京のことを思い出されて、おもしろいとご覧になるが、そうたびたび文を遣わすのも、人目が気になるので、ニ三日隔てては、所在のない夕暮れ時、もしくはしみじみと情緒のある明け方などといったふうに紛らわして、折々、娘も同じ心に見たり思ったりしているだろう時を推しはかって、お手紙のやりとりをなさってみると、娘は源氏の君のお相手として不釣り合いではないのである。
思慮深く、気位高い様子も、「すっかり見ないではおくものか」とお思いになるのだが、良清がわが者顔で言っていたようすも気にさわるし、かとていって良清は長年この女と心に決めていたのだろうに、目の前で失望させるのもひどく気の毒だと、いろいろご思案なさって、それなら娘のほうから進んで参ったので、それは仕方がなかったのだということにしてごまかしてしまおうとお思いになるが、女はまた、かえって身分の高い人よりも気位がとても高く、源氏の君がいまいましく思うほどの態度を取るので、意地の張り合いのような形で時が過ぎていった。
源氏の君はまた、京のことを、こうして関のかなたに隔たっていると、いよいよ心配にお思いになって、「どうしたものか、冗談も言っていられないほど恋しいとはこのことだ。秘かに姫君(紫の上)をお迎え申し上げようか」と、気弱になられる折々もあるが、「そうはいっても、まさかこのまま年を重ねることはあるまい」と、「今になってまた外聞の悪いことを重ねるのは控えよう」と、お心をお抑えになる。
語句
■かつがつ 十分ではないが、どうにかこうにか。ともかくも。まあまあ。 ■岡辺 入道の娘のすまい。 ■なかなかかかるものの隈にぞ 都ではなく、こうした人目につかない田舎にこそかえっての意。 ■思いの外なること 存外の美女。意外な場所に美女を見出す楽しさは、「雨夜の品定め」(【帚木 02】)以来、繰り返し描かれている。 ■高麗の胡桃色の紙 高麗産の黄色に赤みがかった紙。 ■をちこちも… 「雲ゐ」は空。「かすむ」はほのめかす。入道が娘のことをほんの少しだけ話したことをさす。「霞」をかける。 ■思ふには 「思ふには忍ぶることぞ負けにける色には出でじと思ひしものを」(古今・恋一 読人しらず)。 ■しるければ 「著《しる》し」は思い通りに実現すること。 ■まばゆきまで 「まばゆし」は目をそむけたいほど程度がはなはだしい。ここでは入道の使者に対する接待があまりに丁重なので、使者が恐縮しているさまをいう。 ■そそのかせど 「そそのかす」はせきたてる。すすめる。現代語のような悪い意味はない。 ■手つき 文面・文字の形などふくめた手紙の書きよう。 ■言ひわびて 説得しかねて。説得を断念して。 ■田舎びてはべる袂に 「うれしきを何に包まむ唐衣袂ゆたかにたてと言はましを」(古今・雑上 読人しらず)。歌意は、うれしい気持を何で包みんで持って帰ろう、着物の袂にしまえるように、袂を広く仕立ててくれと言っておくんだったなあ。 ■いとすきずきしや 出家の身で、娘の気持をおしはかって返歌などする好色さを言い訳している。 ■陸奥紙 陸奥産の紙。白く厚く皺がある。懸想文に使うのは古風。 ■よしばみたり 「よしばむ」は風情がある。 ■めざましう 「めざまし」は目が覚めるほどだ。よい意味と悪い意味の両方がある。 ■玉裳 「玉」は美称。「裳」に「藻」をかける。 ■宣旨書き 代筆のこと。天皇に代わって右筆が代書したものが宣旨だから。 ■いぶせくも… 「いぶせし」は気分が晴れない。「やよ」は呼びかけの言葉。 ■言ひがたみ 「恋しともまだ見ぬ人の言い難み心にもののむつかしきかな」(弄花抄 一条院御製)。 ■なよびたる 「なよぶ」はしなやかである。 ■薄様 薄い鳥の子紙。よく恋文に用いる。 ■埋れいたからむ 「埋れ甚し」は、引っ込み思案がすぎる。 ■動なきを 気持は動かないが。 ■濃く薄く紛らはして あるいは濃く、あるいは薄く書くことによって筆跡のまずさをごまかそうとして。 ■思ふらん… 前述の一条院御製による。 ■京のことおぼえて 娘との文通により、さまざまの女と文通に忙しかった京での暮らしが思い出されるのである。 ■人目つつましければ 自分より身分の低い女に執心しているようで外聞が悪い。 ■紛らわして 恋文ではなく風流を分かち合う手紙のようによそおって。 ■似げなからず 知識・教養・品格などにおいて娘は源氏と不釣り合いではない。 ■良清が領して言ひし気色 若紫巻で良清は自分が求婚している娘のことを源氏に語った(【若紫 03】)。 ■めざましう 娘が義清ごとき身分低い者に求婚されていることが源氏には不快。 ■人進み参らばさる方にて 娘のほうからこっちに参ったので、自然そういう関係になってしまったの意。 ■ねたげに 「ねたげ」は源氏から見ていまいましい娘の態度。 ■かく関隔たりては 「関」は須磨の関。『枕草子』や、「旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風」(続古今・羇旅 在原行平)、「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」(小倉百人一首78番)に知られる。 ■戯れにくくもあるかな 「ありぬやとこころみがてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき」(古今・雑躰・俳諧歌 読人しらず)。 ■思し弱るをりをりあれど 源氏は以前も紫の上を須磨に迎えようと考えては断念している。「なほ世に赦されがたうて年月を経《へ》ば、厳《いはほ》の中にも迎へたてまつらむ」(【須磨 03】)、「いみじう口惜しう、夜昼面影におぼえて、たへがたう思ひ出でられたまへば、なほ忍びてや迎へましと思す」(【須磨 13】)。