【明石 11】朱雀帝、桐壺院の幻を見て目を病む 太政大臣、亡くなる 朱雀帝の動揺

その年、朝廷《おほやけ》に物のさとししきりて、もの騒がしきこと多かり。三月十三日、雷《かみ》鳴りひらめき雨風騒がしき夜、帝の御夢に、院の帝、御|前《まへ》の御階《みはし》の下《もと》に立たせたまひて、御気色いとあしうて睨みきこえさせたまふを、かしこまりておはします。聞こえさせたまふことども多かり。源氏の御ことなりけんかし。いと恐ろしう、いとほしと思して、后に聞こえさせたまひければ、「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなる事はさぞはべる。軽々《かろがろ》しきやうに、思し驚くまじきこと」と聞こえたまふ。

睨みたまひしに目見あはせたまふと見しけにや、御目わづらひたまひて、たヘ難う悩みたまふ。御つつしみ、内裏《うち》にも宮にも限りなくせさせたまふ。

太政大臣《おほきおとど》亡せたまひぬ。ことわりの御齢《よはひ》なれど、次々におのづから騒がしき事あるに、大宮もそこはかとなうわづらひたまひて、ほど経《ふ》れば弱りたまふやうなる、内裏《うち》に思し嘆くことさまざまなり。「なほこの源氏の君、まことに犯しなきにてかく沈むならば、必ずこの報いありなんとなむおぼえはべる。今はなほもとの位をも賜ひてむ」とたびたび思しのたまふを、「世のもどき軽々《かろがろ》しきやうなるべし。罪に怖《お》ぢて都を去りし人を、三年《さんねん》をだに過ぐさず赦《ゆる》されむことは、世の人もいかが言ひ伝へはべらん」など、后かたく諫めたまふに思し憚《はばか》るほどに、月日重なりて、御悩みどもさまざまに重《おも》りまさらせたまふ。

現代語訳

その年、宮中では不思議な啓示がしきりにあって、なんとなく騒がしいことが多い。

三月十三日、雷が鳴りひらめき雨風が騒がしい夜、帝の御夢に、故桐壺院が、御座所の御前の御階の下にお立ちになり、ご機嫌がひどく悪くてお睨みあそばされるのを、帝は恐縮していらしゃる。院がご注意あそばすことがさまざまに多かった。源氏の君の御ことであったようだ。

帝は、ひどく恐ろしく、また父院が成仏されないことを気の毒にも思われて、母大后(弘徽殿)にご相談あそばされたところ、(大后)「雨など降り、天気が乱れている夜は、こうだと思っていることがそのとおりに見えることがございます。軽率に驚かれるべきではございません」と申し上げなさる。

帝は、夢の中で父院がお睨みあそばされた時に御目をあわせたとご覧になられたからであろうか、御目をおわずらいになって、耐え難いほどにお苦しみあそばす。

御物忌を、宮中でも、大后のお邸でも、手を尽くして行わせなさる。

太政大臣がお亡くなりになった。もう無理もないご年齢であるが、次々に自然と騒がしいことが重なっていたところに、皇太后までもなんとなく具合が悪くなられて、しばらくすると衰弱なさっているようであり、帝はさまざまにお嘆きになる。

(帝)「やはりあの源氏の君が、無実の罪によって、こうして逆境に立たされているなら、必ずその報いがあるだろうと思われます。今はやはりもとの位を授けましょう」とたびたびお考えを仰せになるが、(大后)「そんなことをしては、世間からあまりに軽率だと非難を受けるでしょう。罪を怖れて都を去った人を、三年もたたないのにお赦しになることは、世の人もどんなふうに言い伝えましょう」など、大后がかたくお諌めになることに遠慮していらっしゃるうちに、月日が重なって、御病気はさまざまに重くおなりあそばす。

語句

■三月十三日 須磨で暴風雨があった日(【須磨 22】)。 ■御前の御階 清涼殿東庭の階段。 ■聞こうさせたまふこと 前に桐壺院は源氏の夢枕に立った。その時の言葉と通じる(【明石 03】)。 ■后 弘徽殿大后。朱雀帝の母宮。 ■思ひなし 心の中にそうと思っていること。妄想。 ■御目わづらひたまひて 三条天皇が民部卿元方の怨霊によって目を患ったことが元ネタか。 ■太政大臣 弘徽殿大后の父。朱雀帝の外祖父。もとの右大臣。 ■大宮 弘徽殿大后。 ■思し嘆くことさまざまなり 自身の眼病、祖父の死、母の病など。 ■もとの位 源氏の須磨下向前の位は、右大将。 ■もどき 非難。 ■思し憚る 朱雀帝は優柔不断で常に母宮の意見に左右される。『史記』にある呂后と恵帝の関係を思わせる(【賢木 17】)。

朗読・解説:左大臣光永

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