【関屋 03】空蝉、夫と死別 義子の好き心を避けて出家

かかるほどに、この常陸守《ひたちのかみ》、老いのつもりにや、悩ましくのみして、もの心細かりければ、子どもに、ただこの君の御ことをのみ言ひおきて、「よろづの事、ただこの御心にのみまかせて、ありつる世に変らで仕うまつれ」とのみ、明け暮れ言ひけり。女君、心うき宿世《すくせ》ありて、この人にさへ後れて、いかなるさまにはふれまどふべきにかあらん、と思ひ嘆きたまふを見るに、「命の限りあるものなれば、惜しみとどむべき方もなし。いかでか、この人の御ために残しおく魂《たましひ》もがな。わが子どもの心も知らぬを」とうしろめたう悲しきことに言ひ思へど、心にえとどめぬものにて、亡せぬ。

しばしこそ、さのたまひしものをなど、情づくれど、うはべこそあれ、つらき事多かり。とあるもかかるも世の道理《ことわり》なれば、身ひとつのうきことにて嘆き明かし暮らす。ただこの河内《かうちのかみ》守のみぞ、昔よりすき心ありてすこし情がりける。「あはれにのたまひおきし、数ならずとも、思し疎《うと》までのたまはせよ」など追従《ついそう》し寄りて、いとあさましき心の見えければ、うき宿世《すくせ》ある身にて、かく生きとまりて、はてはてはめづらしきことどもを聞き添《そ》ふるかなと、人知れず思ひ知りて、人にさなむとも知らせで、尼になりにけり。ある人々、いふかひなしと思ひ嘆く。守《かみ》もいとつらう、「おのれを厭《いと》ひたまふほどに、残りの御|齢《よはひ》は多くものしたまふらむ、いかでか過ぐしたまふべき」などぞ。あいなのさかしらや、などぞはべるめる。

現代語訳

こうしている内に、この常陸守は、老いがつもったせいだろうか、病気がちにばかりなって、何となく心細かったので、子供たちに、ただこの女君(空蝉)の御ことだけを遺言て、「万事、ただこの御方の御心にのみまかせて、私が生きていた時と変わらずお仕え申し上げよ」とだけ、明けても暮れても言っていた。

女君(空蝉)は、「自分には残念な運命があって、この人にまで先立たれては、どんなありさまで放り出されて戸惑うことになるのだろうか」と、女君が思い悩まれるのを見るにつけ、常陸守は、「命には限りがあるものだから、どんなに惜しんでもとどめる方法がない。どうにかして、この人の御ためにわが魂を残しておくことができないのか。わが子供たちもその心は将来どうなるかわからないのだから」とそれが気がかりで、悲しいことだと言い、また思うけれど、自分の意思では命はとどめることはできないもので、ついに亡くなった。

当面の間こそ、子供らは父君がそうご遺言したのだからと女君に対して情け深くふるまっていたが、うわべはどうあれ、女君はその実、つらい事が多いのだ。

それもこれも世の道理なので、わが身ひとつの辛いこととして嘆いて明かし暮らしている。ただこの河内守一人が、昔から色好みの心があって、すこし親切なそぶりを見せるのだった。(河内守)「父君がしみじみ心深くご遺言なさったことですから、私など物の数ではないといっても、心隔てをなさいますな」など女君にへつらい寄って、ひどく呆れた下心が見えたので、女君は、「辛い宿世の身の上で、こうして生き残って、最後にはとんでもなく酷いさまざまなことまでも聞かされることだ」と、人知れず決心して、人にそうとも知らせずに、尼になってしまった。

仕える女房たちは、言っても仕方ないことになってしまったと思い嘆く。河内守もたいそう辛く、「私をお嫌いになってご出家されたにしても、残りの御寿命は長くていらっしゃるだろうに、どうやって暮らしていかれるのだろう」などと言っていた。いらぬ世話だ、などと人々の評判であるようだ。

語句

■常陸守 正確には常陸介だが、常陸は親王任国であり、常陸介が現地に赴任して介と同等の業務をおこなう。ために常陸介のことを俗に て常陸守とよぶ。 ■子どもに 河内守や右近将監に。 ■ありつる世 完了の「つる」を使っているのは死が近いことを予感しているため。 ■この人にさへ後れて 親にも早くに死別し、身分低い地方官の妻となって、さらにその上…といった文脈。 ■はふれまどふ 「はふる」は放り出されること。 ■思ひ嘆きたまふ 常陸介より空蝉の身分出自が高いことにより敬語を用いる。 ■めづらしきことごも 義子が義母に懸想するといったこと。 ■あいなの 「あいなし」は不釣り合いだ。常陸守の心配が余計な世話であり方向違いであること。

朗読・解説:左大臣光永

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