【松風 02】明石の君、上京の誘いにとまどう 入道、大堰邸を手配 惟光、大堰邸を偵察し源氏に報告

明石には御|消息《せうそこ》絶えず、今はなほ上《のぼ》りぬべきことをばのたまへど、女はなほわが身のほどを思ひ知るに、「こよなくやむごとなき際《きは》の人々だに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれなきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして何ばかりのおぼえなりとてかさし出でまじらはむ。この若君の御|面伏《おもてぶ》せに、数ならぬ身のほどこそあらはれめ。たまさかに這《は》ひ渡りたまふついでを待つことにて、人わらへにはしたなきこといかにあらむ」と思ひ乱れても、また、さりとて、かかる所に生ひ出で、数まへられたまはざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにもえ恨み背かず。親たちもげにことわりと思ひ嘆くに、なかなか心も尽きはてぬ。

昔、母君の御|祖父《おほぢ》、中務《なかつかさの》宮と聞こえけるが領《らう》じたまひける所、大堰《おほゐ》川のわたりにありけるを、その御|後《のち》はかばかしう相継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを思ひ出でて、かの時より伝はりて宿守《やどもり》のやうにてある人を呼びとりて語らふ。「世の中を今はと思ひはてて、かかる住まひに沈みそめしかども、末の世に思ひかけぬ事出で来てなん、さらに都の住み処《か》求むるを、にはかにまばゆき人中《ひとなか》いとはしたなく、田舎びにける心地も静かなるまじきを、古き所尋ねてとなむ思ひよる。さるべき物は上げ渡さむ。修理《すり》などして、形《かた》のごと、人住みぬべくは繕《つくろ》ひなされなむや」と言ふ。預り、「この年ごろ、領《らう》ずる人もものしたまはず、あやしき藪《やぶ》になりてはベれば、下屋《しもや》にぞ繕ひて宿りはべるを、この春のころより、内の大殿《おほとの》の造らせたまふ御堂《みだう》近くて、かのわたりなむ、いとけ騒がしうなりにてはべる。いかめしき御堂ども建てて、多くの人なむ造り営みはべるめる。静かなる御|本意《ほい》ならば、それや違《たが》ひはべらむ」、「何か。それも、かの殿の御陰にかたかけて、と思ふことありて。おのづからおひおひに内のことどもはしてむ。まづ急ぎておほかたの事どもをものせよ」と言ふ。「みづから領ずる所にはべらねど、また知り伝へたまふ人もなければ、かごかなるならひにて、年ごろ隠ろへはベりつるなり。御庄《みさう》の田畠《たはたけ》などいふことのいたづらに荒れはべりしかば、故|民部大輔《みんぶのたいふ》の君に申し賜はりて、さるべき物など奉りてなん、領じ作りはべる」など、そのあたりの貯《たくは》ヘのことどもをあやふげに思ひて、髭《ひげ》がちにつなし憎き顔を、鼻などうち赤めつつはちぶき言へば、「さらにその田などやうのことはここに知るまじ。ただ年ごろのやうに思ひてものせよ。券などはここになむあれど、すべて世の中を棄てたる身にて、年ごろともかくも尋ね知らぬを、そのこともいま詳しくしたためむ」など言ふにも、大殿のけはひをかくれば、わづらはしくて、その後《のち》、物など多く受け取りてなん急ぎ造りける。

かやうに思ひ寄るらんとも知りたまはで、上《のぼ》らむことをものうがるも心得ず思し、若君のさてつくづくとものしたまふを、後の世に人の言ひ伝へん、いま一際《ひときは》人わろき瑕《きず》にや、と思ほすに、造り出でてぞ、「しかじかの所をなむ思ひ出でたる」と聞こえさせける。人にまじらはむことを、苦しげにのみものするは、かく思ふなりけり、と心得たまふ。口惜しからぬ心の用意かなと、思《おぼ》しなりぬ。

惟光朝臣《これみつのあそむ》、例の忍ぶる道は、いつとなくいろひ仕うまつる人なれば遣はして、さるべきさまに、ここかしこの用意などせさせたまひけり。「あたりをかしうて、海づらに通ひたる所のさまになむはべりける」と聞こゆれば、さやうの住まひによしなからずはありぬべし、と思す。造らせたまふ御堂《みだう》は、大覚寺の南に当りて、滝殿《たきどの》の心ばへなど劣らずおもしろき寺なり。これは川づらに、えもいはぬ松蔭に、何のいたはりもなく建てたる寝殿のことそぎたるさまも、おのづから山里のあはれを見せたり。内のしつらひなどまで思しよる。

現代語訳

明石には源氏の君からのお便りが絶えず届き、今はもう上京すべきことをおっしゃるが、女(明石の君)はやはりわが身のほどを自覚しているので、「たいそう立派なご身分の人々でさえ、なまじ源氏の君の訪れがすっかり途絶えてしまうのではなく、それでいて君の冷淡なお仕打ちを見ては、もの思いがまさるばかりと聞くのに、まして私などはどれほど世間に重んじられているからとしゃしゃり出てその中に入ろうというのだろう。この姫君の御顔汚しになって、人数にも入らない身のほどが露呈するだけだろう。君がごく稀においでいただく機会を待つことになって、世間の人のお笑い草になって、きまりの悪い思いをすることがどんなに多いだろう」と思い乱れるが、また、そうはいっても、姫君がこんな所に生まれ出て、人の数にも入れていただけないのも、ひどく不憫なので、ひたすら源氏の君のお誘いを恨み背くこともできない。

親たちも娘の嘆きをなるほどもっともと思って嘆くので、かえって思案も尽き果ててしまった。

昔、明石の君の母君の御祖父の中務宮と申し上げた方が領有なさっていた土地が、大堰川のあたりにあったのだが、その後は、相続してしっかりと管理する人もいなくて、長年荒れるにまかせていたのを入道は思い出して、その当時からひきつづき管理人のようにしている人を呼び寄せて、相談する。

(入道)「俗世間のことは、今はこれまでと見切りをつけて、こんな田舎の住まいに引きこもったが、晩年に思いもかけぬ事態が出来したので、新しく都の住みかを求めるのだが、急にまばゆいばかりの人中に住むことはひどく居心地が悪く、田舎の生活が染み付いている娘の気持ちも落ち着かないだろうから、古い縁のある所を尋ねてみようと思いついたのだ。必要な物はそちらへ送り渡そう。邸の修理などして、形どおりに、人が住めるようには修繕してくれまいか」と言う。

この預かりの管理人は、「ここ数年、領有する人もいらっしゃいませんので、見すぼらしい藪になってございましたので、私はその下屋を修繕して住んでございましたが、この春のころより、内大臣殿が造営なさっている御堂が近いので、あのあたりが、たいそう騒がしくなってございます。仰々しい御堂を数多く建てて、多くの人が造営にたずさわっているようでございます。静かさを御希望であれば、ご期待には反しましょう」、(入道)「何の問題もない。それも、あの殿の御力に頼ろうと思うことがあってのことだ。後々、内々の修繕はこちらで行うだろう。まずは急いで、だいたいのところを修繕してくれ」と言う。

(預り)「私自身が領有する土地ではございませんが、他に相続なさる人もなかったので、静かであることに住み慣れて、長年ここにひっそり暮らしてまいりました。御荘園の田・畑などというものが、無駄に荒れてございましたので、故民部大輔の君に申し上げてお下げ渡しいただいて、しかるべき代わりの品なども差し上げまして、私が耕作しておりました」など、そのあたりの貯えてある収穫物の権利についてのことなどを心配に思って、髭が多く無愛想な憎たらしい顔を、鼻など赤らめつつ口をとがらせて頬をふくらませて不平を言うので、(入道)「まったくその田などといったことは私はとやかく言うつもりはない。ただこれまで通りにするがよい。土地の証券などはここにあるが、すべて俗世間を捨てた身であるから、長年とやかく詮索しなかったが、そのことも今に詳しく処置しよう」など言う言葉の中にも、内大臣殿の気配を匂わせると、この預かり人は面倒に思って、その後、物など多く入道から受け取って急いで邸を修造させた。

源氏の君は、入道がこのようなことを考えついていようともご存知なく、上京することを嫌がるのも納得いかずお思いになり、若君がああして明石の田舎でさびしくお過ごしになっていらっしゃるのを、後から人が言い伝えて噂すると、いまいっそう外聞の悪い非難の的になるのではないか、とお思いになっていたところ、入道から、件の邸(大堰邸)の修築が終わってから、「しかじかの所を思い出しまして」と申し上げたのだった。「人と交際することを、避けてばかりいるのは、こういう考えがあったからなのだ」と源氏の君はようやく納得される。「悪くない気遣いであるよ」と、お思いになったのである。

惟光朝臣は、いつものように内密の用事には、いとつなくお助け申し上げる人なので、今回も遣わして、しかるべきさまに、あちこちの用意などをおさせになった。(惟光)「周囲は風情があり、海の景色に通じる所のさまでございました」と申し上げると、(源氏)「明石の君を住まわせる所にふさわしく、きっと風情がある所だろう」とお思いになる。造営なさっている御堂は、大覚寺の南に当って、滝殿の趣向などは大覚寺のそれにも劣らず風情ある寺である。一方こちら(大堰邸)は川に面しており、言いようもなく見事な松の木蔭に、無造作に建てている寝殿の簡素なさまも、自然と山里の風情を見せている。源氏の君は、内部の設備などまでお気を遣われる。

語句

■今はなほ 源氏からの上京の手紙はこれがはじめてでなく何度もとどいていてる。だから「なほ」という言葉が出てくる。 ■わが身のほどを思ひ知るに 明石の君の思考の中心は「身のほど」。それを軸にクドクドうじうじ、悩み言葉が延々と続く。六条御息所とはまた別ベクトルで暗黒宇宙に引きずり込まれそう。 ■この若君 源氏と明石の君の間に生まれた姫君。将来は后になると予言されている(【澪標 05】)。 ■人わらへ これも明石の君の精神の中心をしめるキーワード。人から笑われることを病的なまでに恐れる。 ■母君 明石の君の母君。明石の入道の妻。尼君。 ■中務宮 醍醐天皇の第十市皇子、前中書王兼明親王を準拠とする。中書王は親王でかつ中務卿。兼明親王の山荘は大堰川のほとりにあり小倉宮と号した。現天龍寺か臨川寺(通常非公開)あたり。 ■世の中を今はと思ひはてて 近衛中将を辞して播磨守になったこと。 ■思ひかけぬこと 娘が源氏と関係を持ち姫君が生まれたこと。 ■にはかにまばゆき… 田舎暮らしからいきなり二条院に入るのは居心地が悪いだろうから、まず大堰川のほとりに娘を住まわせ、おいおい都の空気になれてから、ニ条院に移るなら移るでよし、そのまま大堰川のほとりに住み続けるならそれもよしと、入道は娘の進退をそのように考えている。 ■下屋 寝殿造の主殿ではない雑舎。 ■内の大殿の御堂 源氏が造営中の嵯峨の御堂。現清凉寺あたりと見られる。 ■静かなり御本意ならば 入道の「田舎びにける心地も静かなるまじきを」を受け、入道の提案をやんわり断ろうとする。 ■何か 下に「あらむ」などを省略。 ■かたかけて 「片掛く」は片方をかけるが原義で、頼みにすること。 ■かごかなる 「かごか」は四方を囲まれて静かであること。閑静なさま。 ■故民部大輔 兼明親王の次男、従四位上東宮学士民部大輔伊行を準拠とする。 ■さるべきもの 借地料。 ■そのあたりの貯へ 土地から収穫した作物の貯え。 ■あやふげに 入道に土地を奪われると思って心配しているのである。 ■つなし 語義未詳。「つれなし」の略かとも。 ■はちぶき 「はちぶく」は口をとがらせてふくれる。 ■券 土地の権利書。証券。 ■そのこと 土地や建物の所有権の問題。 ■大殿のけはいをかくれば 源氏の大臣に口利きしてもらって話をつけてもいいんだぞ、と匂わせている。 ■かやうに 入道が大堰邸に娘たちを移住させようとしていること。 ■さてつくづくと 明石のような田舎であのように寂しげにしていること。「然《さ》て」はそういう状態で。 ■いま一際人わろき瑕 明石の姫君が身分低い女であるというだけでも外聞が悪いのに、さらに田舎育ちであるという汚点を加えることになると源氏は心配している。 ■しかじかの所 大堰の邸。 ■かく思ふなりけり 「けり」は今はじめて気づいたという感動をこめた助動詞。 ■いろひ仕うまつる 「綺ふ・弄ふ」は世話をする。関わる。 ■さるべきさまに 源氏の通い所としてふさわしいように。 ■造らせたまふ御堂 嵯峨野の御堂。河原左大臣源融が隠棲した栖霞観《せいかかん》」を想定。栖霞観は後に栖霞寺、現清凉寺内。 ■大覚寺 京都市右京区嵯峨大沢町。貞観18年(876)嵯峨天皇の離宮(離宮嵯峨院)を嵯峨天皇皇女で淳和天皇皇后・正子内親王が淳和天皇皇子・恒寂(こうじゃく)親王を開祖として寺としたことに始まる。 ■滝殿 大覚寺大沢池のほとりに滝があったが、藤原公任が訪れた時はすでに枯れており「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」(拾遺・雑上/公任集/小倉百人一首五十五番)とよんだ。

朗読・解説:左大臣光永

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