【薄雲 14】冷泉帝、思い悩む 譲位したき旨を源氏にほのめかす
上は、夢のやうにいみじき事を聞かせたまひて、色々に思し乱れさせたまふ。故院の御ためもうしろめたく、大臣の、かくただ人《うど》にて世に仕へたまふもあはれにかたじけなかりけること、かたがた思し悩みて、日たくるまで出でさせたまはねば、かくなむと聞きたまひて、大臣も驚きて参りたまへるを御覧ずるにつけても、いとど忍びがたく思しめされて、御涙のこぼれさせたまひぬるを、おほかた故宮の御ことを干《ひ》る世なく思しめしたるころなればなめり、と見たてまつりたまふ。
その日式部卿《しきぶきやう》の親王《みこ》亡《う》せたまひぬるよし奏するに、いよいよ世の中の騒がしきことを嘆き思したり。かかるころなれば、大臣は里にもえまかでたまはで、つとさぶらひたまふ。しめやかなる御物語のついでに、「世は尽きぬるにやあらむ。もの心細く例ならぬ心地なむするを、天の下もかくのどかならぬに、よろづあわたたしくなむ。故宮の思さむところによりてこそ世間のことも思ひ憚りつれ、今は心ゃすきさまにても過ぐさまほしくなむ」と語らひきこえたまふ。「いとあるまじき御事なり。世の静かならぬことは、かならず政の直《なほ》くゆがめるにもよりはべらず。さかしき世にしもなむ、よからぬ事どももはべりける。聖《ひじり》の帝《みかど》の世にも、横さまの乱れ出で来ること、唐土《もろこし》にもはべりける。わが国にもさなむはベる。ましてことわりの齢《よはひ》どもの、時いたりぬるを、思し嘆くべきことにもはべらず」など、すべて多くのことどもを聞こえたまふ。片はしまねぶも、いとかたはらいたしや。常よりも黒き御装ひにやつしたまへる御|容貌《かたち》、違《たが》ふところなし。上も年ごろ御鏡にも思し寄ることなれど、聞こしめししことの後は、またこまかに見たてまつりたまうつつ、ことにいとあはれに思しめさるれば、いかでこのことをかすめ聞こえばやと思せど、さすがにはしたなくも思しぬべきことなれば、若き御心地につつましくて、ふともえうち出できこえたまはぬほどは、ただおほかたのことどもを、常よりことになつかしう聞こえさせたまふ。うちかしこまりたまへるさまにて、いと御気色ことなるを、かしこき人の御目にはあやしと見たてまつりたまへど、いとかくさださだと聞こしめしたらむとは思さざりけり。
現代語訳
帝は、夢のようにとんでもない事をお聞きあそばして、さまざまに思い悩まれる。故院の御ためにも申し訳ないことだし、大臣が、こうして臣下として朝廷にお仕えなさっているのも気の毒でもったいなかったことと、さまざまに思い悩まれて、日が高くなるまで御寝所をお出あそばされないので、その事情をお聞きになって、源氏の大臣も驚いて参内なさるのを御覧になるにつけても、たいそう忍び難くおぼしめされて、御涙のおこぼれになるのを、源氏の大臣は、「大方、故宮(藤壺)の御ことを涙のかわく間もなく悲しくお思いになっている頃だからだろう」と存じ上げなさる。
その日、式部卿宮がお亡くなりになったことを奏上すると、帝はいよいよ世の中が騒がしいことを思い嘆いていらっしゃる。こういう時なので、源氏の大臣はご自邸にご退出なさることもおできにならず、つきっきりで帝お側にお仕えしていらっしゃる。
しんみりしたお話のついでに、(帝)「私の寿命はもう尽きてしまうのでしょうか。なんとなく心細く、異常な気持ちがするのですが、天下もこうして穏やかでないので、万事落ち着きません。故宮がご心配なさるだろうからこそ世の中のことも遠慮して口に出さずにおりましたが、今は落ち着いたようすで余生を過ごしたく思うのです」とご相談あそばす。
(源氏)「まったくとんでもない御事です。世が穏やかでないのは、かならずしも政が正しいとかまがっているということにはよりません。かしこき帝の世でも、よくないさまざまな事はございました。聖帝の世にも、非道な乱れ事が出来することは、唐土にもその例がございました。わが国でも同様でございます。まして無理もない年齢の方々が、時至って亡くなられたことは、思い嘆くようなことでもございません」など、すべて多くの先例を引いてお話申し上げなさる。その一部でもそのまま書き記すのは、ひどく気恥ずかしいことである。
ふだんよりも、黒い喪服で、御身をやつしていらっしゃる帝の御容貌は、源氏の君とそっくりである。
帝も長年の間、御鏡の影であるかのようにお気づきになっていらしたことであるが、あの大事をお聞きにあそばした後は、改めて源氏の君の御顔を、何度もこまかに拝見なさり、格別にたいそうしみじみ心にしみるものとおぼしめさるので、どうにかしてこの事をほのめかし申し上げたいとおぼしめすけれど、さすがに口に出しては源氏の君が決まり悪くお思いになるに決まっていることであるので、お若いお心には気が引けて、急には口に出して申し上げかねていらっしゃるが、ただ世間一般のさまざまの話を、いつもより格別になつかしくお話申し上げあそばす。帝が畏まっていらっしゃるようすで、まるで御様子がいつもと違うのを、賢き人(源氏の君)の御目には妙なことだと御覧になるが、まったくこんなにもはっきりお聞きになっておられようとは、お思い寄りにもなられないのだった。
語句
■故院の御ためもうしろめたく 故桐壺院が、この事のために往生のさまたげがあったのではないかと心配している。 ■出でさせたまはねば 清涼殿の夜御殿《よるのおとど》から。 ■おほかた 大方。一般的なこととして。源氏はこの時点では冷泉帝が出生の秘密を知ったなどとは夢にも思わない。 ■式部卿の親王 桐壺院の弟。桃園の式部卿宮。朝顔の姫君の父。式部卿の親王が亡くなったことにより朝顔の姫君は斎院としての務めを終え、戻ってくる。そして源氏と再会するのである。 ■天の下もかくのどかならぬに 天変地異が続き、貴人が相次いで亡くなっていること。 ■世間のことを思ひ憚りつれ… 譲位の意向を述べている。 ■心やすきさまにて 退位して気軽な立場になりたいという意向。 ■聖の帝 「聖帝」の訳語。中国の堯・舜、本朝の醍醐・村上帝などをさす。 ■横さまの 非道な。 ■わが国にも 聖帝として知られる醍醐天皇の御世に菅原道真が左遷されたことなど。 ■ことわりの齢ども 寿命といってもおかしくない高齢で亡くなったこと。太政大臣や式部卿の宮のこと。 ■片はしまねぶも… 「かたはらいたしや」まで草紙文。当時、女性が政治について語るべきではないとされた。 ■このこと 源氏が実の父であることを知ったこと。 ■ふとも 「ふと」は急に。さっと。 ■うちかしこまりたまへるさま 冷泉帝は源氏が自分の実の父と知り、急に畏まった態度になったのである。それを源氏は目ざとくみつけて「妙だ」と思う。