【常夏 06】内大臣、雲居雁の昼寝を咎める
とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく軽《かろ》らかにはひ渡りたまへり。少将も御供に参りたまふ。姫君は昼寝したまへるほどなり。羅《うすもの》の単衣《ひとへ》を着たまひて臥《ふ》したまへるさま、暑かはしくは見えず、いとらうたげにささやかなり。透《す》きたまへる肌つきなど、いとうつくし。をかしげなる手つきして、扇《あふぎ》を持たまへりけるながら、腕《かいな》を枕にて、うちやられたる御髪《みぐし》のほど、いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末《すゑ》つきなり。人人物の背後《うしろ》に寄り臥しつつうち休みたれば、ふともおどろいたまはず。扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへるまみ、らうたげにて、頻《つら》つき赤めるも、親の御目にはうつくしくのみ見ゆ。「うたた寝はいさめきこゆるものを、などか、いとものはかなきさまにては大殿籠《おほとのごも》りける。人々も近くさぶらはで、あやしや。女は、身を常に心づかひして守りたらむなんよかるべき。心やすくうち棄《す》てざまにもてなしたる、品《しな》なきことなり。さりとて、いとさかしく身固めて、不動《ふどう》の陀羅尼誦《だらによ》みて、印つくりてゐたらむも憎し。現《うつつ》の人にもあまりけ遠く、もの隔てがましきなど、気《け》高きやうとても、人憎く心うつくしくはあらぬわざなり。太政大臣《おほきおとど》の后《きさき》がねの姫君ならはしたまふなる教へは、よろづの事に通はしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめく事もあらじと、ぬるらかにこそ掟《おき》てたまふなれ。げにさもあることなれど、人として、心にも、するわざにも、立ててなびく方《かた》は方とあるものなれば、生《お》ひ出でたまふさまあらむかし。この君の人となり、宮仕《みやづかへ》に出だし立てたまはむ世の気色こそ、いとゆかしけれ」などのたまひて、「思ふやうに見たてまつらむと思ひし筋は難《かた》うなりにたる御身なれど、いかで人笑はれならずしなしたてまつらむとなむ、人の上のさまざまなるを聞くごとに、思ひ乱れはべる。試《こころ》み事にねむごろがらむ人のねぎ言に、なしばしなびきたまひそ。思ふさまはべり」など、いとらうたしと思ひつつ聞こえたまふ。「昔は何ごとも、深くも思ひ知らで、なかなか、さし当りていとほしかりし事の騒ぎにも、面《おも》なくて見えたてまつりけるよ」と、今ぞ、思ひ出づるに、胸ふたがりていみじく恥づかしき。大宮よりも、常に、おぼつかなきことを恨みきこえたまへど、かくのたまふがつつましくて、え渡り見たてまつりたまはず。
現代語訳
あれこれ思いめぐらすままに、ふいと身軽に姫君(雲居雁)のもとにおいでになられた。弁少将もお供でいらっしゃる。姫君は昼寝なさっている時であった。羅《うすもの》の単衣《ひとえ》をお召しになって横になっていらっしゃるさまは、暑苦しくは見えず、たいそう可愛らしくこじんまりして見える。透けてお見えになる肌つきなど、とても可愛らしい。美しい手つきで、扇をお持ちになっていらっしゃったが、そのまま腕を枕にして、投げ出された御髪の具合が、それほど長く多すぎることはないが、切りそろえた髪の末が、とても美しい。女房たちがあちこちで几帳などの後ろに寄りかかって休んでいるので、姫君はすぐにはお目覚めにならない。内大臣が扇をお鳴らしになると、無邪気にお見上げなるお目元は、可愛らしく、頬が赤らんでいるのも、親の御目にはひたすらからいらしく見える。
(内大臣)「うたた寝はよしなさいと申し上げておりますのに、どうして、そんな不用意な恰好でお休みになっていらっしゃるのですか。女房たちも近くにお控えもせずに、妙なことですよ。女は、自分の身を常に心づかいして守っているのがよいのです。気軽に投げやりにふるまうのは、下品なことです。だからといって、ひどく小賢しく身を固めて、不動尊が陀羅尼を誦んで印をむすんで座っているようなのも憎たらしい。現実の人からあまりにかけ離れていて、ひどく人を遠ざけがちなのなどは、気高いようすだといっても、人に憎まれる可愛げのないやり方です。太政大臣(源氏)が、将来后に立てようとしていらっしゃる姫君にいつも教えていらっしゃることは、万事に通い融通がきくようにして、特に目立った才芸は身に着けず、といって不案内でおぼつかない思いもさせないようにしようと、ゆったり余裕をもってお躾けになられるとか。なるほどそれももっともだけれど、人としては、性格にも、行いにも、ある一方に傾くことは、それはそれとしてあるものだから、どんなに中庸を重んじたところでご成長になられた先の個性というものは違ってまいりましょう。この姫君が成人して、宮仕えにお出しなさる頃のようすこそ、まことに見てみたいものですよ」などとおっしゃって、(内大臣)「私の願いどおりに出世させてあげたいと思っていた筋のことは難しくなってしまった貴女の御身ですが、どうにかして人に笑われないようにしてあげたいと、いろいろな人の身の上の話を聞くたびに、いつも思い悩んでおります。物の試していどの気持ちから親密めいた提案をしてくる人の言葉に、ほんの一時でも従ってはなりませんよ。私に考えがあるのです」など、内大臣は姫君のことをとても可愛いと思いつつ申し上げなさる。
(雲居雁)「昔は何事も、深くもわからないで、あの時の、かの人(夕霧)を愛しいと思った例の騒ぎの時も、かえって平気で、父上にお目にかかっていたことだ」と今になって思い出されてくるので、胸がいっぱいになり、ひどく恥ずかしく思われる。大宮からも、いつも、訪問が少ないことに恨み言を言ってこられるが、このように父大臣がおっしゃることに遠慮して、大宮のもとにおいでになることも、お会いになることも、おできにならない。
語句
■とかく 雲居雁の将来について。 ■軽らかに それほど多くの供を連れずに。 ■はひ渡りたまへり 内大臣の居所から雲居雁の居所は同じ二条邸内で近いので「這う」という。 ■羅 薄い絹布。薄絹(うすぎぬ)。薄物(うすもの)。 ■透きたまへる 羅の衣の下から肌が透けて見える。 ■扇 蝙蝠。夏扇。 ■うちやられたる 髪の毛を頭の上に投げ出すようにまとめてある。 ■末つき 切りそろえた髪の裾が扇状に美しく広がっている。 ■物の背後 几帳や屏風・障子の後ろ。 ■扇を鳴らしたまへる 人を呼ぶ動作。 ■うたた寝はいさめきこゆる 参考「たらちねの親のいさめしうたたねは物思ふ時のわざにぞありける」(拾遺・恋四 読人しらず。古今六帖では第五句「わざにざりける」)。 ■いとものはかなきさまにて 不用心に人目につきやすいように寝ていること。 ■不動の陀羅尼誦みて、印つくりて 「不動」は不動尊。五大尊の一。右手に降魔の剣、左手に捕縛の縄を持ち、炎を背負う厳しい姿。邪悪な者を降伏させるという。「陀羅尼」は梵語の呪文。「印」は仏の悟りや請願を手の指をさまざまな形にむすんであらわしたもの。 ■后がねの姫君 明石の姫君。 ■よろづの事に… 源氏の教育方針は中庸にあり、極端な一方向に傾けさせない。 ■げにさもあることなれど 源氏の中庸を重んじる教育方針に内大臣は内心反発しており、個性をのばす教育方針もあってよいはずだと思っている。 ■立ててなびく方 興味や嗜好の方向性。どんなに中庸に育てても、必ず個性というものは出てくると内大臣はいう。 ■いとゆかしけれ どんなに源氏の教育方針と違う極端に個性的な姫君になるだろうと、皮肉っている。 ■思ふやうに見たてまつらむ 雲居雁を天皇の后に、次に東宮の后にしようとしたこと。いずれもだめになった。 ■難うなりにたる 夕霧との一件によって。 ■試み事にねむごろがらむ人 夕霧をさす。 ■ねぎ言 頼み事。夕霧が雲居雁に「私と一緒になってくれ」と言ってくることをさす。 ■さし当たりて 内大臣が、雲居雁と夕霧の間を引き裂いた一件をさす。 ■面なくて見えたてまつりけるよ 当時は父がそこまで自分のことを思ってくれていることに気づかず、ろくに感謝の念もなしに顔を合わせていたことだの意。 ■大宮 内大臣の母。雲居雁を幼少の頃から養育した。 ■おぼつかなきこと 雲居雁に会えないこと。 ■かくのたまふが 「かく」は直前の「試み事に…なびきたまひそ」をさす。 ■え渡り見たてまつらず 大宮邸に行けば夕霧と顔をあわせるかもしれないから。