【行幸 17】内大臣、近江の君をからかう

大臣《おとど》、この望みを聞きたまひて、いと華やかにうち笑ひたまひて、女御の御方に参りたまへるついでに、「いづら、この近江の君、こなたに」と召せば、近江の君「を」と、いとけざやかに聞こえて、出で来たり。「いと、仕へたる御けはひ、公《おほやけ》人にて、げにいかにあひたらむ。尚侍《ないしのかみ》のことは、などかおのれにとくはものせざりし」と、いとまめやかにてのたまへば、いとうれしと思ひて、「さも御気色賜はらまほしうはべりしかど、この女御殿など、おのづから伝へきこえさせたまひてむ、と頼みふくれてなむさぶらひつるを、なるべき人ものしたまふやうに聞きたまふれば、夢に富したる心地しはべりてなむ、胸に手を置きたるやうにはべる」と申したまふ。舌ぶりいとものさはやかなり。笑みたまひぬべきを念じて、「いとあやしうおぼつかなき御|癖《くせ》なりや。さも思しのたまはましかば、まづ人のさきに奏してまし。太政大臣《おほきおとど》の御むすめやむごとなくとも、ここに切《せち》に申さむことは、聞こしめさぬやうあらざらまし。今にても、申文《まうしぶみ》を取りつくりて、美々《びび》しう書き出だされよ。長歌《ながうた》などの心ばヘあらむを御覧ぜむには、棄《す》てさせたまはじ。上《うへ》はその中《うち》に情《なさけ》棄てずおはしませば」など、いとようすかしたまふ。人の親げなくかたはなりや。「やまと歌は、あしあしもつづけはべりなむ。むねむねしき方のことはた、殿より申させたまはば、つま声のやうにて、御徳をも蒙《かうぶ》りはべらむ」とて、手をおし擦《す》りて聞こえゐたり。御|几帳《きちやう》の背後《うしろ》などにて聞く女房、死ぬべくおぼゆ。もの笑ひにたへぬは、すべり出でてなむ慰めける。女御も御|面《おもて》赤みて、わりなう見苦しと思したり。殿も、「ものむつかしきをりは、近江の君見るこそよろづ紛るれ」とて、ただ笑ひぐさにつくりたまへど、世人《よひと》は、「恥ぢがてら、はしたなめたまふ」など、さまざま言ひけり。

現代語訳

内大臣は、姫君(近江の君)のこの望みをおききになって、たいそう華やかにお笑いになって、女御(弘徽殿女御)の御方にお参りになったついでに、「どこにいますか。この近江の君、こちらへ」と召せば、近江の君「はい」と、まことにはっきりとお返事申し上げて、出てきた。「まことに熱心にお仕えになっているご様子、公務にたずさわる者として、いかにもぴったりでしょう。尚侍のことは、どうして私に早く相談してくれなかったのかね」と、ひどくまじめぶっておっしゃると、姫君(近江の君)は、ほんとうに嬉しいと思って、(近江の君)「そうしたご内意をいただきたく存じておりましたが、この女御さまなどご自身からお伝えくださるだろうと、頼みきっておりましたのを、ほかに尚侍になるべき人がいらっしゃるようにお聞きしましたので、夢の中で富を得たようなはかない気持がして、胸に手を置いているような感じでございます」と申し上げなさる。話しぶりはとてもはきはきしている。内大臣はお笑いになりそうなのをおさえて、(内大臣)「ひどく妙な、言いたいことをはっきり言わない貴女のお癖ですね。そのようにお思いだとおっしゃてくださっていたら、まず他の人より先に貴女のことを帝に奏上いたしましたのに。太政大臣の御むすめがいくら高貴なご身分であるといっても、私が熱心に申し上げることは、帝もお聞き入れになられぬはずがございません。今すぐにでも、申文を作って、きちんとお書き出しなさい。長歌などの趣味のいいのを御覧になられたら、帝もお見捨てにはなられぬでしょう。帝はおお心の内にお情けを保っておられるお方ですので」など、とてもうまくおだてなさる。人の親のようでもなく、悪趣味なことである。

(近江の君)「和歌は、うまくはありませんが、それでも続けられましょう。表向きのことはまた、殿からおっしゃってくだされば、私はそれに言葉を添えて、おかげをこうむりましょう」といって、手をすり合わせて申し上げている。御几帳の後ろなどで聞いている女房たちは、おかしさで死ぬような思いをしている。笑いをこらえることができないので、その場をそっとすべり出て、ようやく救われるのだった。女御(弘徽殿女御)もお顔が赤らんで、ひどく見苦しいとお思いになっている。殿(内大臣)も、「物事がややこしい時は、近江の君を見ると、万事気が紛れる」といって、姫君を(近江の君)もっぱら笑いものにしていらっしゃるが、世間の人は、「恥ずかしいから、その照れ隠しで、姫君にあんな酷いことをなさるのだ」など、さまざまに噂をするのだった。

語句

■この望み 近江の君が尚侍になりたいという望み。 ■を 姫君としてふさわしくない、はしたない返事。 ■いとうれしと思ひて 内大臣のからからいを親としての優しさから出たものと勘違いする。内大臣のクズっぷりが冴える。 ■おのづから伝へきこえさせたまひてむ 弘徽殿女御から近江の君に伝えるのか、弘徽殿女御が内大臣を介して近江の君に伝えるのか、文意が不明瞭。 ■頼みふくれて 頼みきることか。近江の君は弘徽殿女御の御目にとまることを夢見て、雑用にもはげんでいたのである。 ■太政大臣の御娘 玉鬘のことか。内大臣は源氏へのうっぷんを近江の君を愚弄することで晴らす。 ■申文 嘆願書。漢文で書く。 ■長歌 漢文のかわりに長歌で代用せよと。 ■すかしたまふ 「すかす」はおだて騙すこと。 ■人の親げなく 筆者の批評。筆者は内大臣の趣味の悪さを肯定しているわけではないことをしめす。 ■やまと歌は 近江の君はちぐはぐな歌をよむ(【常夏 09】)。 ■つま声 他人の言うことに言葉を添えることらしい。『源氏物語』にほかに用例なし。 ■手をおし擦りて 感謝にたえないことをしめす動作。 ■つくりたまへど 内大臣は意識的に近江の君を愚弄し笑いものにすることによって、源氏に翻弄されているわが身をなぐさめるのである。 ■世人は 前述の「人の親げなくかたはなりや」に対応。作者は内大臣の趣味の悪さを肯定しているわけではない。それを再度、世評という形で繰り返す。

朗読・解説:左大臣光永