【真木柱 04】源氏、玉鬘を訪ね歌を詠みあい、思いを語る
大将のおはせぬ昼つ方渡りたまへり。女君、あやしう悩ましげにのみもてないたまひて、すくよかなるをりもなくしほれたまへるを、かく渡りたまへれば、すこし起き上りたまひて、御几帳《みきちやう》に、はた、隠れておはす。殿も、用意ことに、すこしけけしきさまにもてないたまひて、おほかたの事どもなど聞こえたまふ。すくよかなる世の常の人にならひては、まして言ふ方なき御けはひありさまを見知りたまふにも、思ひのほかなる身の置き所なく恥づかしきにも、涙ぞこぼれける。やうやう、こまやかなる御物語になりて、近き御|脇息《けうそく》に寄りかかりて、すこしのぞきつつ聞こえたまふ。いとをかしげに、面痩《おもや》せたまへるさまの、見まほしう、らうたいことの添ひたまへるにつけても、よそに見放つもあまりなる心のすさびぞかし、と口惜し。
「おりたちて汲みはみねども渡り川人のせとはた契らざりしを
思ひのほかなりや」とて、鼻うちかみたまふけはひ、なつかしうあはれなり。女は顔を隠して、
みつせ川わたらぬさきにいかでなほ涙のみをのあわと消えなん
「心幼《こころをさな》の御消え所や。さても、かの瀬は避《よ》き道なかなるを、御手の先ばかりは、引き助けきこえてんや」と、ほほ笑みたまひて、「まめやかには、思し知ることもあらむかし。世になきしれじれしさも、またうしろやすさも、この世にたぐひなきほどを、さりともとなん頼もしき」と聞こえたまふを、いとわりなう聞き苦しと思いたれば、いとほしうて、のたまひ紛らはしつつ、「内裏《うち》にのたまはすることなむいとほしきを、なほあからさまに参らせたてまつらん。おのがものと領《りやう》じはてては、さやうの御まじらひも難《かた》げなめる世なめり。思ひそめきこえし心は違《たが》ふさまなめれど、二条の大臣は心ゆきたまふなれば、心やすくなむ」など、こまかに聞こえたまふ、あはれにも恥づかしくも聞きたまふこと多かれど、ただ涙にまつはれておはす。いとかう思したるさまの心苦しければ、思すさまにも乱れたまはず、ただあるべきやう、御心づかひを教へきこえたまふ。かしこに渡りたまはんことを、とみにも許しきこえたまふまじき御気色なり。
現代語訳
源氏の殿は、大将(鬚黒)のいらっしゃらない昼ごろ、姫君(玉鬘)のもとにおいでになった。女君(玉鬘)は、不思議なほど気分を悪くばかりしていらして、さわやかな折もなくふさぎこんでいらっしゃったのだが、こうして源氏の殿がおいでになると、すこし起き上がりなさって、御几帳に、それでもやはり、隠れていらっしゃる。殿も、あらたまった態度で、すこし他人行儀なさまにおふるまいになって、並ひととおりの世間話などを申し上げなさる。姫君(玉鬘)は、おもしろみのない世間一般の人(髭黒)を見馴れていらしたので、まして言いようもない殿のご気配、ありさまを御几帳ごしにお感じになるが、予想もしなかったわが身の境遇に、身の置き所がなく、恥ずかしいのにつけても、涙がこぼれた。しだいにうちとけたお話になって、殿は、近くの脇息に寄りかかって、すこし御几帳の中をのぞいてはお話申し上げなさる。姫君は、まことに美しげに、面痩せしていらっしゃるようすが、見映えがして、可憐なさまが加わっていらっしゃるのにつけても、この姫君を他人に渡してしまうのは、あまりといえばあまりな物好きではないか、と残念なお気持ちである。
(源氏)「おりたちて……
(貴女とは夫婦にはならなかったが、三途の川を他人と渡るようには約束しなかったのに)
思いもよらぬことでしたよ」といって、鼻をおかみになるご様子は、しみじみと心惹かれ情深いものである。女は顔を隠して、
(玉鬘)みつせ川……
(三途の川を渡りきってしまう前に、なんとかして涙川の水脈の泡となって消えてしまいましょう)
(源氏)「それが貴女の幼い御心の落とし所なのですね。そうはいっても、かの川は避けようがないというので、貴女の御手の先だけでも、私が引き助けてさしあげましょうか」と、お笑いになって、(源氏)「まじめな話、貴女も思い知っていらっしゃることもあるでしょう。世にたぐいのない私の愚かさも、またそれゆえにいかにご自分か安全だったかも、この世にたぐいないほどであったのを、いくらなんでもおわかりいただけているだろうと思うことが、せめてもの頼みです」と申し上げなさるのを、姫君は、ひどく耐え難く聞き苦しいこととお思いであるので、殿はいじらしくお思いになって、話をおそらしになっては、(源氏)「帝が仰せあそばすことが実においたわしいですから、やはりほんの少しだけ貴女を出仕させ申し上げましょう。大将(鬚黒)が貴女を完全に手に入れてしまってからでは、そうしたご奉公もやりづらくなるらしいのが夫婦仲というものでしょうから。私が最初に考えていた主旨とは違うようですが、二条の内大臣はご満足なさっていらっしゃるようなので、私は安心しているのです」など、こまやかに申し上げなさる。姫君は、しみじみ心打たれて、また恥ずかしい思ってお聞きになることが多いけれど、ただ涙にくれてばかりでいらっしゃる。殿(源氏)は、まことに姫君がこう苦しくお思いになっていらっしゃるようすが気の毒なので、思うままに乱れたふるまいもなさらず、ただ出仕にあたってのあるべき姿、御心づかいを姫君にお教え申し上げなさる。姫君が大将(髭黒)のところにお移りになることを、すぐにはお許しになりそうもない殿のご様子である。
語句
■はた、隠れておはす 玉鬘は今や髭黒の妻となっているので、これまでと同じようには源氏と会えない。 ■すくよかなる 「すくよか」は他人行儀で打ちとけた情に欠けること。 ■まして言ふ方なき 源氏とだけ対してきた以前はもちろんのこと、髭黒というひどい事例を見知っている今となってはなおさら、の意。 ■見知りたまふにも 玉鬘は几帳ごしに源氏の存在を感じる。 ■思ひのほかなる身 髭黒の妻になるという予想もしなかった自分の境遇。源氏のすばらしさを再確認するほどに、現在の悲惨さが身にしみて感じられるてのである。 ■やうやう 「おほかたの事ども」が時間がたつにつれて「こまやかなる御物語」に変化する。 ■おりたちて 「渡り川」は三途の川。女は死んで三途の川を渡るときはじめて契った男に背負われて渡るとする俗信があった。「せ」は「妹背」の意と「瀬」をかける。 ■みつせ川… 「みつせ川」は三途の川。「みを」は水脈。渡らぬ前に三途の川に飲まれて、髭黒との縁は断ち切ってしまいますの意。 ■心幼の御消え所や 源氏は玉鬘の発想が「幼い」と見ている。 ■御手の先ばかりは 夫婦にはならなかったが、そう浅い関係でもなかったから。 ■まめやかには 「心幼の…引き助けてんや」までは冗談事であったが、ここからまじめに話す。 ■しれじれしさ 玉鬘とそれなりの関係になっていながら一線を踏み越えることができなかった愚かさ。それは玉鬘の側からいうと、源氏がいかに安全で無難な男だったか、ということになる。 ■さりとも 下に「思し知るらむ」などを補って読む。 ■なほあからさまに 「なほ」は髭黒と結婚はしたが、それでもやはり当初の話通り、尚侍として出仕なさいの意。 ■おのがものと領じはてては 髭黒が玉鬘を妻として完全に手に入れてしまってからでは。 ■思ひそめきこえし心 源氏は当初、まず出仕させて、それから結婚させようとしていたのだろう。その計画が狂った。 ■二条の大臣 内大臣。ここ一箇所だけの呼称。二条に邸があるため。 ■あるべきやう 尚侍としての心得など。