【真木柱 20】玉鬘、宮中を退出する 帝と歌の贈答

大将は、かく渡らせたまへるを聞きたまひて、いとど静心《しづごころ》なければ、急ぎまどはしたまふ。みづからも、似《に》げなきことも出で来ぬべき身なりけりと心憂きに、えのどめたまはず、まかでさせたまふべきさま、つきづきしきことつけども作り出でて、父大臣など、賢くたばかりたまひてなん、御|暇《いとま》ゆるされたまひける。「さらば。もの懲《ご》りしてまた出だし立てぬ人もぞある。いとこそからけれ。人より先に進みにし心ざしの、人に後れて、気色《けしき》とり従ふよ。昔のなにがしが例《ためし》もひき出でつべき心地なむする」とて、まことにいと口惜しと思しめしたり。聞こしめししにもこよなき近《ちか》まさりを、はじめよりさる御心なからんにてだにも、御覧じ過ぐすまじきを、まいていとねたう、飽かず思さる。されど、ひたぶるに浅き方に思ひ疎《うと》まれじとて、いみじう心深きさまにのたまひ契りてなつけたまふも、かたじけなう、我は我と思ふものをと思す。

御|輦車《てぐるま》寄せて、こなたかなたの御かしづき人ども心もとながり、大将もいとものむつかしうたち添ひ騒ぎたまふまで、えおはしまし離れず。「かういときびしき近き衛《まも》りこそむつかしけれ」と憎ませたまふ。

九重《ここのへ》にかすみへだてば梅の花ただかばかりも匂ひこじとや

ことことなることなき言《こと》なれども、御ありさまけはひを見たてまつるほどは、をかしくもやありけん。「野をなつかしみ明《あ》かいつべき夜を、惜しむべかめる人も、身をつみて心苦しうなむ。いかでか聞こゆべき」と思し悩むも、いとかたじけなしと見たてまつる。

かばかりは風にもつてよ花の枝《え》に立ちならぶべきにほひなくとも

さすがにかけ離れぬけはひを、あはれと思しつつ、かへり見がちにて渡らせたまひぬ。

現代語訳

大将(髭黒)は、こうして帝が尚侍の君(玉鬘)のもとにおいでになられたことをお聞きになって、ますます落ち着かないので、急いでご退出をおすすめになる。尚侍の君ご自身も、あってはならないことも起こってしまいそうな我が身であることだと情けない気持ちで、落ち着いてはいらしゃれず、ご退出になれそうな都合、もっともらしい口実を多く作り出して、父内大臣などが、上手にご配慮になられて、やっと御暇をいただくことをゆるされなさったのである。(帝)「それならやむを得まい。これに懲りて二度と貴女をお出ししない人があっては困るから。ひどく辛いですよ。人より先んじていた私の貴女への気持ちだが、今や人(髭黒)に遅れて、ご機嫌とりをしてなびいているとは。昔のなにがしの例も引き合いに出したい気持ちがする」とおっしゃって、まことにひどく残念なことにおぼしめしている。

帝は、近しく御覧になってみると話にお聞きになっておられたよりもはるかまさる尚侍の君(玉鬘)の美しさを、はじめからそのようなお気持ちがなかったとしてさえ、お見過ごしにはなれだかったろうが、ましていっそう無念で、いつまでも尚侍の君とご一緒していたいとお思いになる。それでも、まるで思いやりがないと思われて疎まれたくはないということで、まことに奥ゆかしいようすで、後のことをお約束になり、優しくしてくださるも、尚侍の君からすると恐縮で、「私は私自身として、宮中にとどまりたいと思っているのに」とお思いになっている。

御輦車を寄せて、源氏方と内大臣方の双方の供人たちが、早く退出するようにと気をもんで、大将も、ひどくやかましく側に付き添ってお騒ぎなさるまで、帝は尚侍の君のおそばをお離れになることがおできにならない。(帝)「こんなにまで厳重に側で警護しているとは、やかましいことよ」とご立腹なさる。

(帝)九重に……

(幾重にもかすみを隔てることになれば、こうして梅の花の香だけでも、もう匂ってくることはないのでしょうか。貴女は夫のもとに囲まれて、もう私に逢いに来てくれることはないのでしょうか)

とくに何ということもない歌だけれど、帝の御姿、御物腰を拝見していては、しみじみと心打つものに思われただろうか。(帝)「野をなつかしみ、夜を明かしたいところだが、それをいたたまれなく思うだろう人のことも、身につまされて気の毒であるので。これからはどうやってご連絡差し上げればよいだろうか」と思い悩んでおられるのも、ひどく勿体ないと尚侍の君は存じ上げる。

(玉鬘)かばかりは……

(香だけは、風のつてにもおことづけください。花の枝のような宮中のはなやかな御方々と、肩をならべるような美しさは、私にはないとしても)

さすがに取り合わぬわけでもない尚侍の君の態度を、帝はしみじみ胸打たれるものにお思いになりつつ、何度も振り返りながら、お帰りになられた。

語句

■いとど静心なければ 髭黒は玉鬘が帝のお手つきになることを恐れて早期の宮中退去を願う。 ■急ぎまどはし 「急ぎまどはす」は急ぎふためく。 ■もの懲りして このまま宮中に玉鬘を長く閉じ込めておくと髭黒が後悔して二度と出仕させたがらないだろうの意。 ■昔のなにがしが例 平定文(平中)が通っていた女がいたが、権勢家藤原時平にうばわれた話をふまえるという説。 ■近まさり 想像よりすぐれているの意。 ■まいていとねたう はじめから玉鬘に執心していない場合でさえ見過ごすことはできないのに、まして帝ははじめから玉鬘に執心していたのでいっそう…の意。 ■我は我 鬚黒がどういう意向だろうと、自分自身としては宮中にとどまりたいの意。 ■輦車 (牛でなく)人が手で引く屋形車。親王や大臣、女御などが勅許をえて乗る。 ■こなたかなた 源氏方と内大臣方。 ■近き衛り 近衛大将=鬚黒のことをいう。 ■九重に… 「九重」は幾重にもの意と宮中の意を、「かばかり」はこれぐらいの意と「香ばかり」をかける。鬚黒によって自邸深くに玉鬘が囲まれてしまい、もう逢えなくなることを無念がる歌。 ■野をなつかしみ 「春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける」(万葉・1424 赤人)。 ■惜しむべかめる人 鬚黒のこと。 ■身をつみて 自分の身をつねって。自分の経験として実感をもっての意。「つみ」に前の赤人の歌の「すみれ摘み」をかける。 ■かばかりは… 「花の枝」は女御更衣たち。

朗読・解説:左大臣光永