【梅枝 07】源氏、草子を書く 兵部卿宮、草子を持参

例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。花ざかり過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古き言《こと》どもなど思ひすましたまひて、御心のゆくかぎり、草《さう》のもただのも、女手《をむなで》も、いみじう書きつくしたまふ。御前《おまへ》に人|繁《しげ》からず。女房二三人ばかり、墨などすらせたまひて、ゆゑある古き集《しふ》の歌など、いかにぞやなど選《え》り出でたまふに、口惜しからぬかぎりさぶらふ。御簾《みす》あげわたして、脇息《けうそく》の上に草子うち置き、端《はし》近くうち乱れて、しりくはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なくめでたし。白き赤きなど、掲焉《けちえん》なる枚《ひら》は、筆とり直し、用意したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御ありさまなり。

兵部卿宮渡りたまふ、と聞こゆれば、驚きて御|直衣《なほし》奉り、御|褥《しとね》まゐり添へさせたまひて、やがて待ちとり入れたてまつりたまふ。この宮もいときよげにて、御階《みはし》さまよく歩みのぼりたまふほど、内にも人々のぞきて見たてまつる。うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。「つれづれに籠《こも》りはべるも、苦しきまで思うたまへらるるころののどけさに、をりよく渡らせたまへる」とよろこびきこえたまふ。かの御草子持たせて渡りたまへるなりけり。

現代語訳

大臣(源氏)は、例によって、寝殿にお一人でいらっしゃって、草子をお書きになる。花盛りの頃はすぎて、浅緑の空がうららかである中、古い数々の歌などをお心をすまして思いうかべになり、ご存分に、草書のも、普通の字も、仮名文字も、上手に書き尽くしなさる。御前に仕える女房は少ない。大臣(源氏)が墨などをお摺らせになって、由緒ある古い歌集の歌など、「どうだろうか」などお選び出されるのに対して、適切に応じることができる者だけが、お仕えしている。御簾をぜんぶ上げて、脇息の上に草子を置いて、部屋の端近くにくつろいだお姿で、筆の尻をくわえて、思いめぐらしていらっしゃるさまは、いつまで見ていても飽きることもないほどすばらしい。白い紙や赤い紙や、はっきり墨色がわかる紙面は、筆をとり直し、注意してお書きになるさまさえ、見る目のある人なら、なるほど感に堪えないといった、素晴らしいご様子である。

兵部卿宮がおいでになった、と申し上げると、大臣は驚いて御直衣をお召しになり、御褥を一枚取り寄せて、ご自分の褥の横にすえさせなさり、そのまま待っていて宮を迎え入れになる。この宮もたいそう美しげで、御階を見事な所作で歩みのぼってこられる間、御簾の内からも女房たちがのぞいてお姿を拝する。互いにかしこまって、礼儀正しくしていらっしゃるのも、まことに美しげである。(源氏)「所在なく引きこもっておりますのも、つまらなく思っておりましたこの暇な時に、折よくおいでくださいました」と、よろこび申し上げる。宮は、例の御草子を従者にもたせて、おいでになられたのであった。

語句

■寝殿 源氏は精神を集中させるとき寝殿にこもる。 ■花ざかり過ぎて 三月下旬か。 ■ただの 仮名のことだとすると、次の「女手」も仮名なので、どう違うのか不審。 ■口惜しからぬかぎり 源氏の選び出す歌に対して適切な意見を述べるだけの歌の知識がある女房。 ■脇息 脇息はふつう腕を置くがここでは書見台代わりに使っている。 ■掲焉なる枚 字がはっきり見える紙。紙の色が赤や白なので。 ■驚きて 宮がこられたのでくつろいだ服を接客用の直衣に着替えて。 ■御階 前庭から寝殿に上がる階段。 ■かの御草子 先日、源氏が制作依頼していた草子。

朗読・解説:左大臣光永