【若菜上 15】源氏、夢に紫の上を見て、暁に急ぎ帰る

わざとつらしとにはあらねど、かやうに思ひ乱れたまふけにや、かの御夢に見えたまひければ、うちおどろきたまひて、いかにと心騒がしたまふに、鶏《とり》の音《ね》待ち出でたまへれば、夜深きも知らず顔に急ぎ出でたまふ。いといはけなき御ありさまなれば、乳母《めのと》たち近くさぶらひけり。妻戸《つまど》押し開けて出でたまふを、見たてまつり送る。明けぐれの空に、雪の光見えておぼつかなし。なごりまでとまれる御|匂《にほ》ひ、「闇はあやなし」と独りごたる。

雪は所どころ消え残りたるが、いと白き庭の、ふとけぢめ見えわかれぬほどなるに、「猶《なほ》残れる雪」と忍びやかに口ずさみたまひつつ、御格子《みかうし》うち叩《たた》きたまふも、久しくかかることなかりつるならひに、人々も空寝《そらね》をしつつ、やや待たせたてまつりて引き上げたり。「こよなく久しかりつるに、身も冷えにけるは。怖《お》ぢきこゆる心のおろかならぬにこそあめれ。さるは、罪もなしや」とて、御|衣《ぞ》ひきやりなどしたまふに、すこし濡れたる御|単衣《ひとへ》の袖をひき隠して、うらもなくなつかしきものから、うちとけてはたあらぬ御|用意《ようい》など、いと恥づかしげにをかし。限りなき人と聞こゆれど、難《かた》かめる世をと思しくらべらる。

現代語訳

ことさら恨んでいるわけではないが、こうして上(紫の上)が思い乱れていらっしゃるせいだろうか、院(源氏)の御夢にお見えになられたので、院はふと目をお覚ましになって、どうしたことかと胸騒ぎがなさるので、一番鶏の声を待つように外にお出になると、夜がまだ深いのも気づかぬふりで、急いでご出発される。女宮(女三の宮)は、まことに幼いご様子なので、乳母たちが近くにお仕えしていた。院(源氏)が、妻戸を押し開けてお出になるのを、お見送りする。明け方のほの暗い空に、雪の光が見えて、あたりはまだほんのりしている。院がお帰りになった後まで残っている御匂いに、乳母は、「闇はあやなし」と、つい独りつぶやいてしまう。

雪は所どころ消え残っているのが、まことに白い庭だから、一目では雪と区別がつかない時刻であるので、(源氏)「猶残れる雪」とひっそりとお口ずさみになりながら、御格子をお叩きになられるが、長らくこういうことがなかったので、女房たちも寝たふりをしつつ、しばらくお待たせ申しあげてから、御格子をひき上げた。(源氏)「ひどく長い間開けてくれなかったので、体も冷えてしまったよ。こうして帰ってきたのは貴女を怖がる気持ちが一通りでないからです。とはいえ私には何の罪もないのですが」といって、御夜具を引きのけなどなさると、上(紫の上)は、すこし涙に濡れている御単衣の袖をひき隠して、何の隔てもなく心惹かれる態度ではあるが、かといってまたすっかり打解けてもいない御心遣いなど、まことに立派で奥ゆかしい。最高の身分の御方と申しあげても、ここまでの人は滅多にいないものよと、院(源氏)は御心の内に、女宮(女三の宮)を女君(紫の上)とお比べになられる。

語句

■かやうに思ひ乱れたまふけにや 「思い乱る」の主語が源氏か、紫の上か、判定不可能。仮に紫の上と取る。相手のことを思いつつ寝ると、その相手が夢に出てくるという考えがあった。そこからすると主語は源氏と取れる。しかし源氏と取ると「かやうに」が不審である。直前は紫の上の話だったので。 ■鶏の音 男が女のもとで一晩を過ごした後は、一番鶏の鳴いてから、夜が明けぬ前に出発するのが礼儀。 ■夜深きも知らず顔に まだ夜は深いが、一番鶏が鳴いたのでこれ幸いと帰った。 ■妻戸 寝殿造りで、寝殿や対の屋の四隅に設けた、両開きの扉。 ■御匂ひ 源氏の衣に薫きしめた香の匂い。 ■闇はあやなし 「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」(古今・春上 躬恒)。 ■けぢめ見えわかれぬ まだ暗いので白砂と雪の見分けがつかない。 ■猶残れる雪 「独リ朱檻ニ憑《よ》ツテ立チテ晨《あした》ヲ凌グ 山色初メテ明ラカニシテ水色新タナリ 竹霧ハ暁ニ嶺ヲ銜《ふく》メル月ヲ籠メ 蘋風《ひんふう》ハ煖《あたたか》ニシテ江ヲ過グル春ヲ送ル 子城隠レタル処猶残レル雪アリ 衙鼓《がこ》ノ声ノ前未ダ塵有ラズ 三百年来臾楼ノ上 曾テ多少ノ望郷ノ人ヲ経タル」(白氏文集巻十六・臾楼暁望)。 ■かかること 源氏の朝帰り。 ■人々 紫の上つきの女房たち。 ■やや待たせたてまつりて 紫の上を悲しませた源氏を、女房たちはささやかながら懲らしめたのである。 ■ひき上げたり 格子を引き上げて、源氏を中に入れた。格子は上下ニ枚のものでなく一枚のものらしい。

朗読・解説:左大臣光永