【若菜上 16】源氏、女三の宮に歌を贈る 返歌の幼稚さに失望

よろづいにしへのことを思し出でつつ、とけがたき御気色を恨みきこえたまひて、その日は暮らしたまへれば、え渡りたまはで、寝殿には御|消息《せうそこ》を聞こえたまふ。「今朝の雪に心地あやまりて、いと悩ましくはべれば、心やすき方にためらひはべり」とあり。御乳母、「さ聞こえさせはべりぬ」とばかり、言葉に聞こえたり。ことなることなの御返りやと思す。「院に聞こしめさむこともいとほし、このころばかりつくろはん」と思せど、えさもあらぬを、「さは思ひしことぞかし。あな苦し」とみづから思ひつづけたまふ。女君も、思ひやりなき御心かな、と苦しがりたまふ。

今朝は、例のやうに大殿籠《おほとのごも》り起きさせたまひて、宮の御方に御文奉れたまふ。ことに恥づかしげもなき御さまなれど、御筆などひきつくろひて、白き紙に、

中道《なかみち》をへだつるほどはなけれども心みだるるけさのあは雪

梅《むめ》につけたまへり。人召して、「西の渡殿《わたどの》より奉らせよ」とのたまふ。やがて見出だして、端近《はしちか》くおはします。白き御|衣《ぞ》どもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、友待つ雪のほのかに残れる上に、うち散りそふ空をながめたまへり。鶯《うぐひす》の若やかに、近き紅梅《こうばい》の末にうち鳴きたるを、「袖こそ匂《にほ》へ」と花をひき隠して、御簾《みす》おし上げてながめたまへるさま、ゆめにもかかる人の親にて重き位と見えたまはず、若うなまめかしき御さまなり。

御返り、すこしほど経《ふ》る心地すれば、入りたまひて、女君に花見せたてまつりたまふ。「花といはば、かくこそ匂はまほしけれな。桜に移してば、また塵《ちり》ばかりも心わくる方なくやあらまし」などのたまふ。「これも、あまたうつろはぬほど、目とまるにやあらむ。花の盛りに並べて見ばや」などのたまふに、御返りあり。

紅《くれなゐ》の薄様《うすやう》に、あざやかにおし包《つつ》まれたるを、胸つぶれて、「御手のいと若きを、しばし見せたてまつらであらばや、隔つとはなけれど、あはあはしきやうならんは、人のほどかたじけなし、と思すに、ひき隠したまはむも心おきたまふべければ、かたそば広げたまへるを、後目《しりめ》に見おこせて添《そ》ひ臥《ふ》したまへり。

はかなくてうはの空にぞ消えぬべき風にただよふ春のあは雪

御手、げにいと若く幼げなり。さばかりのほどになりぬる人はいとかくはおはせぬものを、と目とまれど、見ぬやうに紛《まぎ》らはしてやみたまひぬ。他人《ことひと》の上《うへ》ならば、さこそあれなどは、忍びて聞こえたまふべけれど、いとほしくて、ただ、「心やすくを思ひなしたまへ」とのみ聞こえたまふ。

今日は、宮の御方に昼渡りたまふ。心ことにうち化粧《けさう》じたまへる御ありさま、今見たてまつる女房などは、まして見るかひあり、と思ひきこゆらんかし。御|乳母《めのと》などやうの老いしらへる人々ぞ、「いでや。この御ありさま一《ひと》ところこそめでたけれ、めざましき事はありなむかし」とうちまぜて思ふもありけり。

女宮は、いとらうたげに幼きさまにて、御しつらひなどのことごとしく、よだけく、うるはしきに、みづからは何心もなくものはかなき御ほどにて、いと御|衣《ぞ》がちに、身もなくあえかなり。ことに恥ぢなどもしたまはず、ただ児《ちご》の面嫌《おもぎら》ひせぬ心地して、心やすくうつくしきさましたまへり。院の帝は、男《を》々しくすくよかなる方の御|才《ざえ》などこそ、心もとなくおはしますと世人《よひと》思ひためれ、をかしき筋になまめき、ゆゑゆゑしき方《かた》は人にまさりたまへるを、などてかくおいらかに生《お》ほしたてたまひけむ。さるは、いと御心とどめたまへる皇女《みこ》と聞きしを」と思ふもなま口惜しけれど、憎からず見たてまつりたまふ。ただ聞こえたまふままに、なよなよとなびきたまひて、御|答《いら》へなどをも、おぼえたまひけることは、いはけなくうちのたまひ出でて、え見放たず見えたまふ。昔の心ならましかば、うたて心おとりせましを、今は、世の中を、みなさまざまに思ひなだらめて、「とあるもかかるも、際《きは》離るることは難《かた》きものなりけり。とりどりにこそ多うはありけれ、《。》よその思ひはいとあらまほしきほどなりかし」と思すに、さし並び目|離《か》れず見たてまつりたまへる年ごろよりも、対《たい》の上《うへ》の御ありさまぞなほあり難く、我ながらも生《お》ほしたてけり、と思す。一夜《ひとよ》のほど、朝《あした》の間《ま》も恋しくおぼつかなく、いとどしき御心ざしのまさるを、などかくおぼゆらん、とゆゆしきまでなむ。

現代語訳

院(源氏)は、あれこれ昔の事をお思い出しになられては、上(紫の上)のご機嫌がなかなかお治りにならないのをお恨み申しあげなさって、その日はお過ごしになられるので、女宮(女三の宮)のもとへはおいでにならず、寝殿にはお手紙だけをお差しあげなさる。(源氏)「今朝の雪に気分が悪くなりまして、ひどく苦しゅうございますので、落ち着ける所で休んでおります」とある。御乳母は、「そのように申しあげました」とだけ、口頭で申しあげた。「素っ気ない御返事だな」と、院(源氏)はお思いになる。「朱雀院のお耳に入ることもおいたわしい。せめて新婚当初だけは取り繕おう」とお思いになるが、それもできないので、「こうなることは予想していたことではないか。ああ困った」と、独りいつまでもご思案にくれていらっしゃる。女君(紫の上)も、「思いやりのない御心ですこと」と、迷惑がりなさる。

今朝は、いつものようにこちらでお目覚めになり、宮(女三の宮)の御方にお手紙を差し上げなさる。別段心遣いするようなこともない宮のご様子であるが、御筆などにも気を配って、白い紙に、

(源氏)中道を……

(私と貴女との間の道を隔てるほどではないですが、それでも気がかりな今朝の淡雪ですよ)

これを白梅の枝におつけになられた。使いの者をお呼びになって、「西の渡殿から差し上げよ」と仰せになる。院(源氏)は、そのまま外の景色をながめて、お部屋の端近くですわっていらっしゃる。白い御衣を何枚も重ね着なさって、梅の花をおもてあそびになりながら、「友待つ雪」が淡く残っている上に、加えて雪を散らす空をながめていらっしゃった。鶯が近くの紅梅の梢にとまって、ういういしく鳴いているのを、(源氏)「袖こそ匂へ」と、花を引き隠しなさって、御簾を押し上げてながめていらっしゃるさまは、まさかこのような、人の親で、重い位についている人とはお見えにならず、若くつややかな御様子である。

ご返事は、すこし時間がかかる気がするので、部屋にお入りになって、女君(紫の上)に花をお見せ申しあげなさる。(源氏)「花といえば、この白梅のように匂ってほしいものですね。このよい香を桜に移したら、他の花は、まるきり見向きもされなくなるでしょう」などとおっしゃる。(源氏)「しかしこの梅の花も、多くの花に目移りしない時期だからこそ、目を引くのかもしれまん。桜の花盛りに並べてみたいものです」などおっしゃるうちに、宮から御返事がある。

紅の薄様の紙に、目にもあざやかに包まれているので、胸がどきりとして、(源氏)「御手跡がひどく幼いのを、今しばらく上(紫の上)にはお見せ申しあげないようにせねば。心隔てするわけではないが、浮ついた書きぶりであったりすれば、女宮のご身分を考えると、畏れ多いことだから」とお思いになるが、いきなり手紙をお隠しになるのも女君(紫の上)が気まずく思うだろうから、端のほうをお広げていらっしゃると、女君(紫の上)はそれを横目に見やって、物に寄りかかって横になっていらっしゃる。

(女三の宮)はかなくて……

(風にただよう春の淡雪のように、私ははかなく中空に消えてしまいそうです。貴方の訪れがないので)

御手跡は、なるほどとても子供っぽく幼なげである。女君には、あれほどのお年頃の方は実際こうはいらっしゃらないものだが、と目を引かれるが、見なかいふりをしておすませになられた。院(源氏)は、他の人のことであったら、「この程度の人なのですよ」などとこっそり申しあげなさるだろうが、宮(女三の宮)がおいたわしくて、ただ、(源氏)「貴女は、安心していらっしゃればよいのです」とだけ申し上げなさる。

語句

■いにしへの事 紫の上と過ごしてきた日々。須磨下向のことはとくに。 ■寝殿 女三の宮の住まい。 ■心やすき方 住み慣れた部屋。紫の上の住む六条院東の対。 ■御乳母 女三の宮つきの乳母。 ■えさもあらぬ 紫の上のことが気になって女三の宮のもとを早々に退出したことをいう。 ■苦しがりたまふ 源氏が女三の宮を訪ねるのを自分が阻んでいるように女三の宮方から思われるだろうから、それを迷惑がる。 ■今朝は 婚礼五日目の朝。 ■大殿籠り起きさせてまひて 紫の上のもとで。「大殿籠り起く」は「寝起く」の尊敬語。 ■ことに恥づかしげもなき 女三の宮の幼稚さをいう。 ■白き紙 白梅と雪にあわせた。 ■中道を… 「かつ消えて空に乱るる淡雪はもの思ふ人の心なりけり」(後撰・冬 藤原蔭基)による。紫の上と女三の宮の板挟みになって苦しんでいるさまを訴えると同時に、雪で出かけられないことの言い訳をする。 ■梅 白梅。 ■西の渡殿より奉らせよ 西の渡殿に住む女房を介してお手紙を差し上げよの意か。 ■やがて見出して 使者を送り出して、そのまま女三の宮の返事を待つ。 ■花をまさぐりたまひ 「花」は手紙につけた白梅の残りだろう。 ■友待つ雪 「白雪の色わきがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる」(家持集)。 ■袖こそ匂へ 「折りつれば袖こそにほへ梅の花ありやとここに鶯の鳴く」(古今・春上 読人しらず)。 ■花をひき隠して 「梅こそ匂へ」の歌に基づく動作。梅の花そのものではなく、袖についた花の香のほうに鶯の注意をひきつけて鳴かせようと戯れたのである。 ■重き位 准太上天皇。 ■すこしほど経る心地すれば 源氏は女三の宮の幼稚さを知ったので、歌を返すといった高度なことには時間がかかるだろうと予想する。 ■女君に花見せたてまつり 同じ枝についた白梅を女三の宮と紫の上の両方に見せるのは、両方を対等に愛したいあらわれ。 ■かくこそ 白梅のように。 ■桜に移しては 白梅の香を桜に移したら。暗に梅は女三の宮を、桜は紫の上をいう。「梅が香を桜の花ににほはせて柳が枝に咲かせてしがな」(後拾遺・春上 中原到時)。 ■心わくる方なくや 女三の宮に心分けたことの言い訳。 ■これも、あまた… おなじく女三の宮に心分けたことの言い訳。すべて源氏の独り相撲で、紫の上は黙り込んでいる。 ■花の盛りに並べて見ばや 梅=女三の宮と、桜=紫の上を並べてみたい。さぞかし並び立って見事だろうの意。

■薄様 鳥の子紙の薄いもの。鳥の子紙は手漉きの和紙。表面が鳥の卵に似ていることからこう言う。 ■胸つぶれて 恋文めいているので紫の上に見られることを警戒した。 ■人のほどかたじけなし 女三の宮の身分を考えると、幼稚な手跡を紫の上に見られて侮られるのはいたわしいと源氏は考えた。 ■かたそば広げたまへる 紫の上が見るなら見ればよいし、私のせいではないという策。 

■はかなくて… 源氏の訪れがないことを恨む歌。 ■げにいと若く 源氏が「御手のいと若きを」と心配た通り。 ■かくはおはせぬものを 「かく」は「いと若く幼なげ」。 ■他人の上ならば 他の人の事であれば御手跡の幼いことを紫の上に言っただろうの意。 ■さこそあれ こんなにも御手跡が幼いのですよと。 ■心やすくを思ひなしたまへ 女三の宮はこの通り幼稚だから、貴女は何も心配しなくていいの意。

朗読・解説:左大臣光永