【若菜下 15】源氏、女三の宮に琴について語る

院の御賀、まづおほやけよりせさせたまふ事どもいとこちたきに、さしあひては便《びん》なく思されて、すこしほど過ごしたまふ。二月十余目と定めたまひて、楽人《がくにん》、舞人《まひびと》など参りつつ、御遊び絶えず。「この対に常にゆかしくする御|琴《こと》の音《ね》、いかでかの人々の箏《さう》、琵琶《びは》の音《ね》も合はせて、女楽《をむながく》試《こころ》みさせむ。ただ今の物の上手《じやうず》どもこそ、さらにこのわたりの人々の御心しらひどもにまさらね。はかばかしく伝へとりたることはをさをさなけれど、何ごともいかで心に知らぬことあらじとなむ幼きほどに思ひしかば、世にある物の師といふかぎり、また高き家々のさるべき人の伝へどもをも、残さず試みし中に、いと深く恥づかしきかなとおぼゆる際《きは》の人なむなかりし。その昔《かみ》よりも、また、このごろの若き人々のざれよしめき過ぐすに、はた、浅くなりにたるべし。琴《きん》、はた、まして、さらにまねぶ人なくなりにたりとか。この御琴の音ばかりだに伝へたる人をさをさあらじ」とのたまへば、何心なくうち笑みて、うれしく、かくゆるしたまふほどになりにける、と思す。二十一二ばかりになりたまへど、なほいといみじく片なりにきびはなる心地して、細くあえかにうつくしくのみ見えたまふ。「院にも見えたてまつりたまはで年|経《へ》ぬるを、ねびまさりたまひにけり、と御覧ずばかり、用意加へて見えたてまつりたまへ」と事にふれて教へきこえたまふ。げに、かかる御後見なくては、ましていはけなくおはします御ありさま隠れなからまし、と人々も見たてまつる。

現代語訳

朱雀院の御賀は、はじめに帝が開催なさる多くの盛大な行事があるので、それとぶつかっては不都合と院(源氏)はお考えになって、すこし時期をおずらしなさる、二月二十日すぎごろとお決めになられて、それまで楽人や舞人が参っては、管弦や舞の御遊びが絶えず行なわれる。(源氏)「この東の対で常に聞きたがっている御琴の音を、どうにかして、あの人々の箏、琵琶の音も合わせて、女楽を試みさせたいものです。今の世の物の上手どもは、まったくここ六条院の人々の深いお嗜みには、及ばないのです。私は、それぞれの道の極意をしっかりと学び修めたことは滅多にありませんでしたが、何事も、どうにかしてわが心に知らないことがないようにしようと、幼い頃に思ったので、世にある物の上手というものはすべて、また格式高い家々のしかるべき人々の、さまざまな伝えも、残さず試みました。しかしその中に、まことに深く、こちらが気後れするほど素晴らしいと思えるほどの人はまったくありませでした。その当時よりも、また、最近の若い人々が洒落て気取りすぎているのは、これまたいっそう浅はかなものになっているようです。琴は、また、他の諸道にもまして、まったく会得する人がなくなったとか。貴女の御琴の音ぐらいにも、会得している人は滅多にいないでしょう」とおっしゃると、
宮(女三の宮)は、無邪気にほほえんで、うれしく、こんなふうに殿がお認めになるまでに自分の腕は上達したのか、とお思いになる。

二十一ニ歳ほどにおなりだが、やはりまだたいそう幼く子供っぽい感じがして、細くきゃしゃで可愛らしいとばかりお見えになる。(源氏)「院(朱雀院)にも拝見なさらないまま何年も経ってしまいましたので、ご成長なさったと御覧に入れることだけを、いっそう注意してお逢い申し上げください」と、なにかにつけて教え申し上げなさる。なるほど、こうした殿(源氏)の御後見がなければ、やはり幼くいらっしゃる御様子を隠すことがおできにならないだろう、と女房たちも拝見する。

語句

■まづおほやけより朱雀院の実子である今上帝がまず御賀を開催される。■さしあひては前に「若菜など調じてや」と正月の開催を計画していたが、帝による御賀と重なるので、時期をずらす。■二月十余日中春中旬。春たけなわの時期。■この対今は女三の宮のもとにいるのに東の対を「この」と言っている点に、源氏の意識があらわれている。■女楽女だけによる合奏。■琴一条朝にはすでに琴は過去のものとなっており、習い伝えている者がいなかったらしい。■何心なく女三の宮の子供っぽい態度。

朗読・解説:左大臣光永

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