【若菜下 39】柏木、心地乱れて親元に帰る

心地かき乱りてたへがたければ、まだ事もはてぬにまかでたまひぬるままに、いといたくまどひて、「例の、いとおどろおどうしき酔《ゑひ》にもあらぬを、いかなればかかるならむ。つつましとものを思ひつるに、気《け》ののぼりぬるにや、いとさいふばかり、臆《おく》すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるかな」とみづから思ひ知らる。しばしの酔のまどひにもあらざりけり。やがて、いといたくわづらひたまふ。大臣《おとど》、母北の方思し騒ぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、殿《との》に渡したてまつりたまふを、女宮の思したるさま、またいと心苦し。
事なくて過ぐすべき日ごろは心のどかにあいな頼《だの》みして、いとしもあらぬ御心ざしなれど、今は、と別れたてまつるべき門出《かどで》にやと思ふは、あはれに悲しく、後《おく》れて思し嘆かむことのかたじけなきをいみじと思ふ。母御息所《ははみやすどころ》も、いといみじく嘆きたまひて、「世の事として、親をばなほさるものにおきたてまつりて、かかる御仲らひは、とあるをりもかかるをりも、離れたまはぬこそ例のことなれ、かくひき別れて、たひらかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが心づくしなるべきことを。しばしここにてかくて試みたまへ」と、御かたはらに御|几帳《きちやう》ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。

「ことわりや。数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひになまじひにゆるされたてまつりてさぶらふしるしには、長く世にはべりて、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思うたまへつれ、いといみじくかくさへなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じはてられずやなりはべりなむ、と思うたまふるになん、とまりがたき心地にも、え行きやるまじく思ひたまへらるる」など、かたみに泣きたまひて、とみにもえ渡りたまはねば、また、母北の方うしろめたく思して、「などか、まづ見えむとは思ひたまふまじき。我は、心地もすこし例ならず心細き時は、あまたの中にまづとりわきて、ゆかしくも頼もしくもこそおぼえたまへ。かく、いとおぼつかなきこと」と恨みきこえたまふも、また、いとことわりなり。「人より先なりけるけぢめにや、とり分きて思ひ馴らひたるを、今になほかなしくしたまひて、しばしも見えぬをば苦しきものにしたまへば、心地のかく限りにおぼゆるをりしも見えたてまつらざらむ、罪深くいぶせかるべし。今は、と頼みなく聞かせたまはば、いと忍びて渡りたまひて御覧ぜよ。必ずまた対面《たいめん》たまはらむ。あやしくたゆく愚かなる本性《ほんじやう》にて、事にふれておろかに思さるることもありつらむこそ、悔《くや》しくはべれ。かかる命のほどを知らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」と、泣く泣く渡りたまひぬ。宮は、とまりたまひて、言ふ方なく思しこがれたり。

大殿に待ちうけきこえたまひて、よろづに騒ぎたまふ。さるは、たちまちにおどろおどうしき御心地のさまにもあらず、月ごろ物などをさらにまゐらざりけるに、いとどはかなき柑子《かうじ》などをだに触れたまはず、ただ、やうやう物に引き入るるやうにぞ見えたまふ。さる時の有職《いうそく》のかくものしたまへば、世の中惜しみあたらしがりて、御とぶらひに参りたまはぬ人なし。内裏《うち》よりも、院よりも、御とぶらひしばしば聞こえつつ、いみじく惜しみ思しめしたるにも、いとどしき親たちの御心のみまどふ。六条院にも、いと口惜しきわざなりと思しおどろきて、御とぶらひに、たびたび、ねむごろに父|大臣《おとど》にも聞こえたまふ。大将は、ましていとよき御仲なれば、け近くものしたまひつつ、いみじく嘆き歩きたまふ。

現代語訳

衛門督(柏木)は気分がかき乱れて我慢ができなかったので、まだ宴も終わらないうちに退出なさったが、そのままとてもひどく困惑して、(柏木)「いつものように悪酔いしたわけでもないのに、どうしてこんなに気分が悪いのだろう。気後れしていたので、のぼせてしまったのだろうか。そんなにまで臆するような気弱さだとは思わないのに、ふがいないことであったよ」と我ながら実感される。一時的に酔が回っているわけでもなかったのだ。そのまま、まことにひどくお患いになる。大臣と、母北の方が心配して騒いで、離れ離れでは心配だということで、邸にお移し申し上げなさるのだが、それを女宮(落葉の宮)がご心配されているさまは、またひどく心苦しい。

衛門督(柏木)は、日頃、何事もなく過ごせると思っていた時は、北の方(落葉の宮)に対して、のんびりと、度を越した期待をして、それほど御愛情が深いわけでもなかったが、これが最期とお別れ申し上げねばならぬ門出になるのではないかと思うにつけ、しみじみと悲しく、ご自分に先立たれた後、北の方が思い嘆かれることがもったいなくて、辛いと思う。

宮の母御息所も、まことにひどくお嘆きになられて、(御息所)「世間一般の事として、親のことは、やはりしっかりとお立て申し上げておいて、こうしたご夫婦仲は、どんな時も、ご一緒にいらっしゃることこそが普通のことで、こんなふうに離れ離れになって、体調がよくおなりになられるまで、あちらでお過ごしになられることは、きっと不安で仕方ないでしょうに。しばらくここで、今のままでお過ごしになってみてください」と、お側に御几帳だけを隔てて衛門督(柏木)を看病してさしあげなさる。

(柏木)「当然の道理であるよ。物の数でもないわが身にして、及びもつかない御方(落葉の宮)との御縁を、無理にお許しいただきましたことへの感謝のしるしとしては、長生きをしまして、つまらない身のほどながら、少しは人と同等の官位になるところも御覧に入れようかと、存じておりましたが、ひどく残念なことに、このような身に成り果てましたとなれば、せめてもの私の深い愛情を、最後まで御覧いただくこともできなくなった、と思いますにつけ、どうせ長くは生きていられないと思う気持ちの中にも、とてもあの世へ行くことはできないように思われます」など、お互いにお泣きになられて、すぐにもお移りになられないので、また母北の方がご心配されて、(母北の方)「どうして、さっさと親元に顔を出そうとお思いにならないのですか。私は、気分がすこし悪かったり、心細いときは、たくさんの子の中でまっさきに、格別に、貴方に会いたくも頼もしくも思いますのに。こんなことでは、ひどく心配です」と恨み言を申し上げなさるのも、また、まことに道理にかなっている。

(柏木)「私が他の兄弟たちより先に長男として生まれた、その違いのせいでしょうか。親はとりわけ私のことをいつも心配しているのですが、今になってもやはり私をお可愛がりになられて、少しの間でも会えないのをつらくお思いになられるので、こうして命も最期だろうと思える、まさにその折に拝見しないのは、罪深く気が晴れないことでしょう。今はご臨終ですと、頼みないことをお聞きになられましたら、たいそうひっそりと、おいでにらなれて、私を御覧ください。必ずまたご対面いたしましょう。私は本来、妙にのろくて愚かな性質で、なにかにつけて愛情が足りないとお思いになられたこともあったでしょう。そのことが悔やまれます。こんなに短い命だとは知らずに、どこまでも将来が長いものと思っていたことですよ」と、泣く泣くお移りになられた。宮は、御邸にお残りになられて、言いようもなくお思い焦がれていらっしゃる。

大臣の邸では衛門督を待ちに待っていらして、万事にわたって大騒ぎなさる。とはいえ、すぐにどうなるというひどいご気分のようでもなく、ここ幾月かは食物などをまったく召し上がらなかったところに、いよいよちょっとした蜜柑などにさえ、手をお触れにならず、ただ、次第に、何かに引き込まれていくようにお見えになる。このような時代を代表する名士がこうして病にふせっておられるので、世の中は惜しみ、もったいながり、お見舞いにお参りにならない人はない。帝よりも、院(朱雀院)よりも、お見舞いがしばしば届いては、たいそう惜しんでいらっしゃる。それにつけても、ますます親たちの御心は困惑するばかりである。六条院(源氏)も、ひどく残念なことだと驚いきになって、お見舞いを、たびたび、丁重に、父大臣にも申し上げなさる。大将(夕霧)は、他の人にもまして、衛門督(柏木)とはよい御仲なので、近くまでいらっしゃっては、たいそう嘆いて歩きまわっていらっしゃる。

語句

■事もはてぬに 試楽の時の宴も終わらないうちに。 ■例の 柏木はふだんは宴のときは悪酔いしていたらしい。 ■つつまし 柏木は源氏の目を怖れていた。 ■言ふひなくも ふがいない自分を恥じる気持ち。 ■大臣 柏木の父、致仕の大臣。 ■よそよそにて 親と子が別居している状態。 ■いとしもあらぬ御心ざし 柏木はこれまで妻・落葉の宮を軽視していた。女三の宮の姉妹といいながら、母方の血筋が悪いので物足りなかったのである。しかしいざ自分の死が近いことを感じて、妻への憐憫の情が強くなってきた。 ■後れて思し嘆かん 自分の死後、残された妻が嘆き悲しむようすを想像する。 ■世の事として… 世間一般のならいとしては親を立てるべきだが、今回のように病気の場合は夫婦が一緒にすごすことを優先すべきだの意。 ■心づくしなるべきことを 落葉の宮の心細い心情を想像していう。 ■ここにてかくて試みたまへ 自邸で妻の看病を受けることをすすめる。 ■及びがたき御仲らひになまじひにゆるされて… 柏木が、身にすぎた女ニの宮を妻として迎えることを許されたこと。 ■しるし 感謝のしるし。 ■かくさへなりはべれば 「長く世にはべりて」どこか瀕死の状態になっていること。 ■とまりがたき心地 長くは生きられないと実感している。 ■え行きゆるまじく 冥土に旅立つことができないの意。現世への執着が強く残っているから。 ■母北の方 柏木の実母。 ■いとおぼつかなきこと 前に「よそよそにていとおぼつかなし」とあった。 ■人より先なりける 柏木が長男であること。 ■けぢめ 他ののちがい。 ■とり分きて思ひ馴らひたる 母北の方の「まづとり分きて、ゆかしくも頼もしくも」に対応。 ■かく限りにおぼゆる 死を予感している。 ■罪深くいぶせかるべし 親に先立つことは最大の不孝という考え。 ■今は、… 危篤状態のことをいう。 ■騒ぎたまふ 柏木の病気平癒を祈っての加持祈祷に大騒ぎする。 ■物にひき入るるやうに 冥界に引き込まれるように。 ■時の有職 時代を代表する名士。 ■父大臣にも 柏木本人にはもちろん父大臣にも。

朗読・解説:左大臣光永