【夕霧 05】夕霧、落葉の宮に文を贈る 宮、これを拒絶

かやうの歩《あり》きならひたまはぬ心地に、をかしうも心づくしにもおぼえつつ、殿《との》におはせば、女君のかかる濡《ぬ》れをあやしと咎《とが》めたまひぬべければ、六条院の東《ひむがし》の殿《おとど》に参うでたまひぬ。まだ朝霧もはれず、ましてかしこにはいかにと思しやる。「例《れい》ならぬ御歩きありけり」と人々はささめく。しばしうち休みたまひて、御|衣《ぞ》脱ぎかへたまふ。常に夏冬といときよらにしおきたまへれば、香《かう》の御|唐櫃《からびつ》より取《と》う出《で》て奉りたまふ。御|粥《かゆ》などまゐりて、御前に参りたまふ。

かしこに御文奉りたまへれど、御覧じも入れず。にはかにあさましかりしありさま、めざましうも恥づかしうも思すに心づきなくて、御息所の漏り聞きたまはむこともいと恥づかしう、またかかることや、とかけて知りたまはざらむに、ただならぬふしにても見つけたまひ、人のもの言ひ隠れなき世なれば、おのづから聞きあはせて、隔てけると思さむがいと苦しければ、人々ありしままに聞こえ漏らさなむ、うしと思すともいかがはせむ、と思す。親子の御仲と聞こゆる中にも、つゆ隔てずぞ思ひかはしたまへる。よその人は漏り聞けども親に隠すたぐひこそは昔の物語にもあめれど、さはた思されず。人々は、「何かは、ほのかに聞きたまひて、事しもあり顔に、とかく思し乱れむ。まだきに心苦し」など言ひあはせて、いかならむと思ふどち、この御消息のゆかしきを、ひきも開《あ》けさせたまはねば心もとなくて、「なほ、むげに聞こえさせたまはざらむも、おぼつかなく若々しきやうにぞはべらむ」など聞こえてひろげたれば、「あやしう何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過《あやま》ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも慰めがたくなむ。え見ずとを言へ」と、事の外《ほか》にて寄り臥《ふ》させたまひぬ。さるは、憎げもなく、いと心深う書いたまうて、

「たましひをつれなき袖にとどめおきてわが心からまどはるるかな

外《ほか》なるものはとか、昔もたぐひありけりと思《おも》たまへなすにも、さらに行く方《かた》知らずのみなむ」などいと多かめれど、人はえまほにも見ず。例の気色なる今朝《けさ》の御文にもあらざめれど、なほえ思ひはるけず。人々は御気色もいとほしきを、嘆かしう見たてまつりつつ、「いかなる御事にかはあらむ。何ごとにつけてもあり難うあはれなる御心ざまはほど経《へ》ぬれど、かかる方に頼みきこえては見劣りやしたまはむ、と思ふもあやふく」など、睦《むつ》ましうさぶらふかぎりは、おのがどち思ひ乱る。御息所もかけて知りたまはず。

現代語訳

大将(夕霧)は、こうした浮ついた夜歩きは馴れていらっしゃらないので、風情があるとも、物思いを尽くすようにも思いながら、ご自邸にお帰りになれば、女君(雲居雁)がこうして朝露に濡れていることをあやしいとお見咎めなさるにちがいないので、六条院の東の殿に参られた。まだまだ朝霧も晴れないので、ましてあちらの山里(落葉の宮方)はどんなであろうと思いをお馳せになる。「めずらしいお忍び歩きですこと」と女房たちはひそひそ言う。大将(夕霧)は、しばらくお休みになって、御衣をお着替えになる。東の御方(花散里)は、いつも夏も冬もまことにきれいにご準備していらっしゃったので、香の唐櫃から取り出してお差し上げになる。大将は御粥など召し上がって、殿(源氏)の御前にお参りになる。

大将はあちら(落葉の宮)に御文をお送りなさったが、宮はご覧にもならない。突然ああした心外なふるまいをなさったことが、不愉快なことにも恥ずかしいことにもお思いになって、大将がうとましくて、御息所のお耳に入ることもひどく恥ずかしくて、またこうしたことがあったのだろうかと、御息所は少しもご存知ではなかろうに、自分が普段とちがう様子を見てお気づきになり、人の言うことも口さがなくて何事も隠し通せない世の中であるので、自然と聞きあわせて、他人行儀に距離を置いていると御息所がお思いになるだろうことがひどく心苦しいので、「女房たちがあったことをそのままお話申し上げてくれたらいいが。たとえ御息所が、情けないこととお思いになったからといって、何ができよう」とお思いになる。親子のご関係と申し上げる中にも、この母娘は、まったく隔てを置かず思いを交わあっていらっしゃるのだ。他人に対しては打ち明け話をするが親には隠す例は昔物語にもあるようだけれど、宮は、そういうふうになさろうとは全くお考えにならない。女房たちは、「何の、御息所がほんの少しお耳にされたからといって、いかにも事実があったかのように、あれこれお思い乱れることがございましょうか。何もなかったのに取り越し苦労は痛々しいことで」など言い合わせて、お二人がどうなるのだろうと思っている者たちは、この大将(夕霧)からのお手紙を見たく思うけれども、宮(落葉の宮)がお開かせようともなさらないのがもどかしくて、(女房)「やはり、まるでお返事を差し上げないのも、あやふやで、大人げない態度でございましょう」など申し上げてお手紙を広げるので、(落葉の宮)「妙に浅はかな態度で、あの御方にあの程度にせよ顔を見せてしまった軽薄さは、私自身の過失と思うようにしますが、あの御方の思いやりのなかったことも心外で、気持ちがおさまらないのです。『拝見しかねる』とおっしゃい」と、返事などはもってのほかというご様子で、物に寄りかかって横になってしまわれた。とはいえ大将(夕霧)の御文は、そう悪い感じでもなく、たいそう情をこめてお書きになって、

(夕霧)「たましひを……

(私の魂は冷淡な貴女の袖に残してきたので、自分のせいとはいっても、ぼんやりしてしまいますよ)

思うようにならないのは自分の心とか、昔もこうした例があったと考えて諦めてみましても、まったくこの気持ちはどこへ行くのやら」など、言葉数多く書いていらっしゃるようだが、女房たちでは、十分に読むこともできない。ふつうの後朝の文のような今朝のお手紙でもないようだと、やはり釈然としない。女房たちは宮のふさぎこんだご様子も気の毒なので、嘆かしく拝見しながら、「どんな御事なのだろう。大将は何事につけても滅多になくご親切なお心具合で長年通ってくださったが、このような方(夕霧)を夫としてお頼み申し上げては、大将(夕霧)は、宮(落葉の宮)とご結婚なさって、気が変わってしまわれるのではないか、そう思うと心配になります」など、親しくお仕えしている女房たちは、それぞれ思い悩んでいる。御息所もこの一件はまったくご存知ない。

語句

■殿におはせば 「殿」は三条殿。夕霧の自邸。 ■六条院の東の殿 花散里のすまい。夕霧は子供の頃ここで育った。今も夕霧の部屋がある。 ■ましてかしこには 洛中ですら霧が立っているのだから小野の山里ではいっそう霧が深いだろうの意。 ■常に夏冬と… 花散里は夕霧の後見人として配慮が行き届いている。 ■香の唐櫃 衣類と一緒に香を入れて、香りを染み込ませるための唐櫃。「唐櫃」は衣類などを収める櫃。 ■御粥 ご飯。 ■かしこ 小野の山荘。 ■御覧じも入れず 落葉の宮は。昨夜の夕霧のふるまいが不愉快だったのと後朝の文めいているので。 ■またかかることや 下に「ありけん」を補い読む。 ■ただならぬふしにても見つけたまひ 落葉の宮の態度にふだんと違うところがあると気付き、何かあったなと直感するだろうの意。 ■人々ありしままに 実事はなかったのでそのまま伝達してくれれば助かるのだが。変に曲解して伝えられたらたまらないの意をふくむか。 ■いかがはせむ 実事はなかったのだから自分には恥じるところがない。 ■昔物語 『伊勢物語』『平中物語』などにこうした類の話が見える。 ■さはた思されず 「さ」は親に隠そうとは。 ■まだきに心苦し 実事はなかったのに取り越し苦労はつまらないの意。 ■いかならむと思ふどち 落葉の宮と夕霧が結婚したらよいと考えている女房たち。そうなると自分の立場が安泰になるから。 ■若々しき 「若々し」は大人げない。子供っぽい。 ■あやしう何心もなき… 以下、自分も迂闊だったが大将の思いやりのないふるまいも許せないという内容。 ■え見ずとを言へ 「を」は間投助詞。強意。 ■事の外 返事をすることなどとんでもないの意。 ■たましひを… 「飽かざりし袖のなかにや入りにけむわが魂のなき心地する」(古今・雑下 陸奥)による。 ■外なるもの 「身を捨ててゆきやしにけむ思ふよりほかなるものは心なりけり」(古今・雑 躬恒)による。 ■行く方知らず 「わが恋はむなしき空にみちぬらし思ひやれども行く方もなし」(古今・恋一 読人しらず)による。夕霧はむやみに古今集から引用して、気取っている。 ■なほえ思ひはるけず 女房たちは昨夜何が起こったか知らない。だから宮が塞ぎ込んでいる理由もわからない。 ■かかる方に頼みきこえては見劣りやしたまはむ 夕霧を落葉の宮の夫として頼りにした場合、実際結婚してみると落葉の宮の容姿がそれほどでもなかったことに夕霧ががっかりして扱いが雑になるかもしれない。すると女房たちは自分にとっても生活の危機なので危ぶむのである。柏木が落葉の宮に冷淡だった過去も念頭にある。

朗読・解説:左大臣光永