【夕霧 06】律師、昨夜夕霧、落葉の宮のもとに滞在と御息所に報告
物《もの》の怪《け》にわづらひたまふ人は、重しと見れど、さはやぎたまふ隙《ひま》もありてなむものおぼえたまふ。昼、日中《にっちゅう》の御|加持《かぢ》はてて、阿闍梨《あざり》一人《ひとり》とどまりてなほ陀羅尼《だらに》読みたまふ。よろしうおはしますよろこびて、「大日如来|虚言《そらごと》したまはずは。などてか、かくなにがしが心をいたして仕うまつる御|修法《ずほふ》に験《しるし》なきやうはあらむ。悪霊《あくりやう》は執念《しふね》きやうなれど、業障《ごふしやう》にまとはれたるはかなものなり」と、声は嗄《か》れて怒《いか》りたまふ。いと聖《ひじり》だちすくすくしき律師《りし》にて、ゆくりもなく、「そよや。この大将は、いつよりここには参り通ひたまふぞ」と問ひ申したまふ。御息所、「さる事もはべらず。故大納言のいとよき仲にて、語らひつけたまへる心|違《たが》へじと、この年ごろ、さるべき事につけて、いとあやしくなむ語らひものしたまふも、かくふりはへ、わづらふをとぶらひにとて立ち寄りたまへりければ、かたじけなく聞きはべりし」と聞こえたまふ。「いで、あなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝《けさ》、後夜《ごや》に参《ま》う上《のぼ》りつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男《をとこ》の出でたまへるを、霧深くて、なにがしはえ見分《みわ》いたてまつらざりつるを、この法師ばらなむ、大将殿の出でたまふなりけりと、昨夜《よべ》も御車も帰してとまりたまひにけると口々申しつる。げにいとかうばしき香《か》の満ちて頭《かしら》痛きまでありつれば、げにさなりけりと思ひあはせはべりぬる。常にいとかうばしうものしたまふ君なり。この事いと切《せち》にもあらぬことなり。人はいと有職《いうそく》にものしたまふ。なにがしらも、童《わらは》にものしたまうし時より、かの君の御ためのことは、修法《ずほふ》をなん、故大宮ののたまひつけたりしかば、一向《いかう》にさるべきこと、今に承《たけたまは》るところなれど、いと益《やく》なし。本妻《ほんさい》強くものしたまふ。さる時にあへる族類《ぞうるい》にて、いとやむごとなし。若君たちは七八人になりたまひぬ。え皇女《みこ》の君おしたまはじ。また女人《によにん》のあしき身を受け、長夜《ちやうや》の闇《やみ》にまどふは、ただかやうの罪によりなむ、さるいみじき報《むくい》をも受くるものなる。人の御怒り出できなば、長き絆《ほだし》となりなむ。もはら承《う》け引かず」と、頭《かしら》ふりて、ただ言ひに言ひ放てば、「いとあやしきことなり。さらにさる気色にも見えたまはぬ人なり。よろづ心地《ここち》のまどひにしかば、うち休みて対面《たいめ》せむとてなむしばし立ちとまりたまへると、ここなる御達《ごたち》言ひしを、さやうにてとまりたまへるにやあらむ。おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふ人を」とおぼめいたまひながら、心の中《うち》に、さる事もやありけむ。ただならぬ御気色はをりをり見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人の譏《そし》りあらむことははぶき棄てうるはしだちたまへるに、たはやすく心ゆるされぬ事はあらじとうちとけたるぞかし。人少なにておはする気色を見て、はひ入りもやしたまひけむ」と思す。
現代語訳
物の怪をわずらっていらした方(御息所)は、容態は重く見えても、少しよくなられる隙もあって、そういう時はいくら体調がお悪いとはいってもやはり正気になられる。昼の日中の御祈祷が終わって、阿闍梨一人がお堂に残って、なおも陀羅尼を読んでいらっしゃる。御息所のご容態がよろしくていらっしゃることを阿闍梨は喜んで、(律師)「大日如来は嘘は仰せになりません。どうして、こうやって私めが心を尽くしてお仕え申し上げる御祈祷に効果のないことがございましょう。悪霊はしつこいようですが、悪業障にとりつかれた取るに足らないものです」と、声を嗄らしてお怒らせになる。いかにも聖めいた生真面目な律師で、いきなり、(律師)「そうそう、あの大将(夕霧)は、いつからここに通っていらっしゃるのですか」とご質問申し上げなさる。御息所、「そういう事でもございません。故大納言(柏木)とまことに仲がよくていらして、お約束になられた心にそむくまいと、ここ数年、しかるべき用事のたびに、まことに奇妙なまでに親切におっしゃってお世話してくださるのですが、このように老いさらばえて、患っている私などを見舞いにとお立ち寄りくださいましたで、ありがたいことだと存じておりました」と申し上げなさる。(律師)「さあ、これは聞き苦しい。拙僧にお隠しになるものではございません。今朝、後夜の祈祷に参上しましたところ、あの西の妻戸から、たいそうさっぱりした男が出てこられたのですが、霧が深くて、拙僧はどなたとお見分け申し上げることができなかったのを、ここの法師たちが、大将殿が出てこられたようだったと、昨日も御車も帰してお泊りになられたと、口々に申しました。なるほど実に香ばしい香が満ちて頭が痛いまででしたので、なるほどそうであったかと合点がいったのでございます。常にたいそう香ばしい香を漂わせている君なのです。この事はまったく感心できぬことです。あの大将はたいそう学識のある御方ではいらっしゃいます。拙僧どもも、童でいらっしゃった時から、あの君の御ためのことは、加持祈祷を、故大宮が仰せつけになられたので、もっぱら今に到るまで、そうした祈祷は、承っておりますが、このご関係は、まったく益のないことです。本妻(雲居雁)のご威勢が強くていらっしゃいます。そのご実家は、時勢に乗った一族で、とても高貴な御方々です。若君たちは七八人におなりです。皇女の君(落葉の宮)は張り合うことがおできにならないでしょう。また女人が罪深い身を受けて生まれ、死後も無明長夜の闇に迷うのは、ただこうした罪によって、そうしたひどい報いをも受けるものだといいます。ご本妻(雲居雁)のご怒りを買えば、長く往生のさまたげとなりましょう。まったく感心できません」と頭をふって、言いたいことをずけずけ言うので、(御息所)「ひどくおかしなことです。まったくそのような様子にもお見えにならないお方なのです。私が万事、調子を悪くしていたので、しばらく休んでから対面しようといって、しばらくお待ちになっていらっしゃると、ここにいる女房たちが言っておりましたが、そんな事情でお泊りになったのでしょうか。あの大将は大体においてとても誠実で、まじめな方でいらっしゃいますのに」と、おとぼけになりながら、心の中では、「そういう事もあるかもしれない。ただならぬご様子は折々見えたけれど、大将のお人柄がたいそう才気立っていて、人の誹るようなことにはつとめて手を出さないようにして、まじめにふるまっていらっしゃるお方だから、安心して心ゆるせない事はないだろうと、親密な関係になったのにちがいない。宮が、人の少ない中にいらっしゃるようすを見て、そっと忍び入られたのかもしれない」とお思いになる。
語句
■さはやぎたまふ 修法の効果で調子がよくなる。 ■日中 一昼夜を晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六時に分け、それぞれに仏事の勤めをした。 ■阿闍梨 ここでは修法を行う主僧。律師とよばれている僧。 ■大日如来 真言密教の本尊。摩訶毘盧遮那の訳。天台宗の本尊は薬師如来だが、真言密教もさかんに行われていた。 ■ながし 実際にはここで自分の名を言ったのを「なにがし」と伏せてある。 ■執念き 「執念し」は「執念」の形容詞化。 ■業障 悪行の障害。五逆十悪。往生のさまたげとなる。 ■声は枯れて 声も枯れるばかりに怒ったような言い方をする。 ■すくすくしき 生真面目であること。朴訥であること。 ■ゆくりもなく 「ゆくりなし」は突然。急に。思いがけず。 ■この大将は、いつよりここに… 夕霧はいつ落葉の宮と結婚したかの意。 ■さる事もはべらず 二人は結婚などしていませんの意。 ■後夜 後夜の勤行。夜中から暁まで。 ■西の妻戸 僧の詰所が寝殿の外にあったらしい。 ■うるはしき 「うるはし」は端正な固いかんじ。 ■この法師ばら 律師のまわりの僧たち。弟子など。 ■御車 夕霧の乗ってきた牛車。 ■いとかうばしき 律師の言葉には棘がある。夕霧に対して批判的。 ■この事 落葉の宮と夕霧の結婚。 ■切にもあらぬ 感心できない。 ■有職 あらゆる方面の学問や知識に通じていること。 ■故大宮 夕霧の祖母。致仕大臣の実母。 ■一向 僧侶の使う漢語。固めの言葉遣い。 ■さるべきこと 修法。 ■承るところなれど 下に「夕霧の味方になりたいのは山々ながら」の意を補い読む。 ■いと益なし 落葉の宮と夕霧の結婚は。 ■さる時にあへる族類 雲居雁の父は致仕の大臣。 ■若君たち 雲居雁と夕霧の間には複数の子がいる(【夕霧 36】)。 ■女人のあしき身 仏教では女人は罪深いものと考える。 ■長夜の闇 無明長夜の闇。死後流転して往生できないことをここではいう。 ■かようの罪 不倫の関係を持ち、本妻と争うこと。 ■長き絆 未来永劫に成仏できない束縛。 ■もはら承け引かず 律師は落葉の宮と夕霧の結婚に反対だと繰り返し強調する。 ■さる気色 好色なかんじ。 ■ここなる御達 落葉の宮つきの女房たち。 ■人を 言外に夕霧が落葉の宮に好色心をしめすはずかないの意をふくむ。だが律師の話をきいて、御息所の夕霧に対する信頼はうすらぎはじめている。 ■さる事 夕霧が落葉の宮と男女の関係を持つこと。 ■ただならぬ御気色 好色めいた様子。 ■あながちに 下の「うるはしだちたまへる」にかかる。 ■うるはしだち 「うるはしだつ」はまじめすぎる態度を取ること。