【御法 07】源氏、夕霧に紫の上の落飾を指示

宮も、帰りたまはで、かくて見たてまつりたまへるを、限りなく思す。誰《たれ》も誰も、ことわりの別れにてたぐひあることとも思されず、めづらかにいみじく、明けぐれの夢にまどひたまふほど、さらなりや。さかしき人おはせざりけり。さぶらふ女房なども、あるかぎり、さらにもの覚えたるなし。院は、まして、思ししづめん方《かた》なければ、大将の君近く参りたまへるを御|几帳《きちやう》のもとに呼び寄せたてまつりたまひて、「かく今は限りのさまなめるを。年ごろの本意《ほい》ありて思ひつること、かかるきざみにその思ひ違《たが》へてやみなんがいといとほしきを。御|加持《かぢ》にさぶらふ大徳《だいとこ》たち読経《どきやう》の僧なども、みな声やめて出でぬなるを、さりとも、立ちとまりてものすべきもあらむ。この世にはむなしき心地するを、仏の御しるし、今はかの冥《くら》き途《みち》のとぶらひにだに頼み申すべきを、かしらおろすべきよしものしたまへ。さるべき僧、誰《たれ》かとまりたる」などのたまふ御気色、心強く思しなすべかめれど、御顔の色もあらぬさまに、いみじくたへかね御涙のとまらぬを、ことわりに悲しく見たてまつりたまふ。

「御物の怪《け》などの、これも、人の御心乱らんとて、かくのみものははべめるを、さもやおはしますらん。さらば、とてもかくても、御|本意《ほい》のことはよろしき事にはべなり。 一日一夜《いちにちいちや》忌むことの験《しるし》こそは、むなしからずははべるなれ、まことに言ふかひなくなりはてさせたまひて後《のち》の御髪《みぐし》ばかりをやつさせたまひても、ことなるかの世の御光ともならせたまはざらんものから、目の前の悲しびのみまさるやうにて、いかがはべるべからむ」と申したまひて、御|忌《いみ》に籠《こも》りさぶらふべき心ざしありてまかでぬ僧、その人かの人など召して、さるべき事ども、この君ぞ行ひたまふ。

現代語訳

中宮(明石の中宮)も宮中にお帰りにならならいで、上(紫の上)が亡くなったお姿を拝見したことを、限りなく因縁深いこととお思いになる。誰も誰も、これは自然の摂理にかなった別れで、世の中に多く例のあるふつうのことだとはお思いにならず、滅多にないひどいことで、夜明け方の薄暗い時に見る夢の中にさまよっているような思いであることは、無理もないことである。正気を保っている人はいらっしゃらない。お仕えしている女房なども、その場にいる者は皆、まったく前後不覚のていである。院(源氏)は、女房たちにもまして、お気持ちの鎮めようがなかったので、大将の君(夕霧)が近くに参っていらしたのを御几帳のそばに呼び寄せ申されて、(源氏)「この通り今はご臨終のようである。長年、心から望んでおられたことを、こうした人生の終焉において、その気持ちを叶えられないまま終わってしまったことが気の毒なこと。御加持にお仕えしていた高僧たち、読経の僧なども、みな声を止めて帰っていったというが、そうはいっても、残っている者もあろう。今生の世においては役に立たない気がするが、仏の御利益は、今はせめてあの冥き途を行かれる時におすがり申さねばなるまいから、上(紫の上)の御髪をおろすべき旨を、貴方(夕霧)からおっしゃってください。しかるべき僧は、誰が残っておりますか」などおっしゃるご様子は、気丈に御気を保っておられるようだが、御顔の色もふつうと違う様子で、ひどく耐えかねて、お涙がとまらないのを、大将はそれも当然のことと、悲しくお思いになる。

(夕霧)「御物の怪などが、この件でも、人の御心を乱そうとして、このようなことになるようですから、そんなことでいらっしゃるのかもしれません。そうであれば、とにかく、故人の出家のご希望は、よい事でございましょう。一日一夜なりとも受戒することの功徳は、無駄にはならないと聞いておりますが、実際亡くなられた後で御髪ばかりをおろされても、今生とはちがうあの世の御光とはおなりならないでしょうし、目の前の悲しみだけがまさるようで、いかがなものでございましょう」と申されて、御忌に籠もり申そうという気があって退出した僧を、その人あの人など召して、出家に関してのしかるべき色々な儀式を、この君(夕霧)がお指図なさる。

語句

■帰りたまはで 宮中に帰る直前に紫の上が亡くなったので引き続き二条院に滞在する。 ■ことわりの別れ 生者必滅会者定離と理屈ではわかっていてもいざ身近な人が亡くなると愕然とする。 ■明けぐれの夢 夜明け前の薄暗い中で見る夢。 ■御几帳のもとに 紫の上の亡骸近くの几帳。これまで源氏は夕霧を紫の上に近づけさせようとしなかった。紫の上が亡くなった今、そうしたこだわりは必要なくなった。 ■年ごろの本意ありて思ひつること 長年紫の上が抱いてきた出家の希望。それを阻んでいたのは源氏なのだが。 ■この世にはむなしき心地するを 亡くなってから出家させても病が治るわけでもなし、今生においては意味が無い気がするが。 ■かの冥き途 「冥キヨリ冥キニ入リテ、永ク仏ノ名ヲ聞カズ」(法華経・化城喩品)、「冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」(拾遺・哀傷 和泉式部)。冥途は幽冥界の道。 ■心強く思しなす あえて気丈にふるまって自分を励ましている。 ■御物の怪などの… 夕霧のセリフは「これ」「かく」「さ」と、一文の中に三つも指示代名詞があり、きわめて読みにくい。意味不明・解読不能の怪文書になっている。夕霧の混乱した胸中をあらわすのだろう。 ■さらば 紫の上の身の上に起こったことが物の怪のしわざなら。 ■一日一夜忌むことの験こそは 「モシ衆生アリテ、モシハ一日一夜八斎戒ヲ持(たも)チ、モシハ一日一夜具足戒ヲ持チテ、威儀欠クコトナクバ、此ノ功徳ヲM以ツテ、廻向シテ極楽国ニ生マレンコトヲ願求ス」(観無量寿経・中品中生)による。 ■ことなるかの世 今生とは違う、あの世。 ■御忌 人の死後、穢れを避けるためと死者の供養のため、近親者が引きこもって過ごすこと。 ■さるべき事ども 葬儀に関する用事。 ■行ひたまふ 指示を出すこと。

朗読・解説:左大臣光永