【御法 08】夕霧、源氏とともに紫の上の死に顔に見入る

年ごろ何やかやと、おほけなき心はなかりしかど、「いかならん世にありしばかりも見たてまつらん。ほのかにも御声をだに聞かぬこと」など、心にも離れず思ひわたりつるものを、「声はつひに聞かせたまはずなりぬるにこそはあめれ、むなしき御|骸《から》にても、いま一たび見たてまつらんの心ざしかなふべきをりは、ただ今より外《ほか》にいかでかあらむ」と思ふに、つつみもあへず泣かれて、女房のあるかぎり騒ぎまどふを、「あなかま、しばし」としづめ顔にて、御几帳の帷子《かたびら》をもののたまふ紛れに引き上げて見たまへば、ほのぼのと明けゆく光もおぼつかなければ、大殿油《おほとなあぶら》を近くかかげて見たてまつりたまふに、飽かずうつくしげにめでたうきよらに見ゆる御顔のあたらしさに、この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あながちに隠さんの御心も思されぬなめり。

「かく何ごともまだ変らぬけしきながら、限りのさまはしるかりけるこそ」とて、御袖を顔におし当てたまへるほど、大将の君も、涙にくれて目も見えたまはぬを強《し》ひてしぼりあけて見たてまつるに、なかなか飽かず悲しきことたぐひなきに、まことに心まどひもしぬべし。御髪《みぐし》のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、つゆばかり乱れたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。灯のいと明《あ》かきに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛らはすことありし現《うつつ》の御もてなしよりも、言ふかひなきさまに何心なくて臥《ふ》したまへる御ありさまの、飽かぬところなし、と言はんもさらなりや。なのめにだにあらず、たぐひなきを見たてまつるに、死に入る魂《たましひ》のやがてこの御|骸《から》にとまらなむ、と思ほゆるも、わりなきことなりや。

仕うまつり馴れたる女房などのものおぼゆるもなければ、院ぞ、何ごとも思し分かれず思さるる御心地をあながちに静めたまひて、限りの御事どもしたまふ。いにしへも、悲しと思すこともあまた見たまひし御身なれど、いとかうおり立ちてはまだ知りたまはざりけることを、すべて来《き》し方行く先たぐひなき心地したまふ。

現代語訳

大将(夕霧)は、長年、上(紫の上)に対してどうこうしようと、大それたお気持ちを抱くことなかったが、「どういう時に、せめて以前拝見した程度には、御顔を拝見できようか。かすかに御声さえも聞いたことがない」など、ずっと気になって思いつづけてきたのだが、「声はついに聞かずじまいになってしまったようだが、お亡骸ではあっても、もう一度拝見したいという念願がかなうような折は、ただ今よりほかにはあるまい」と思うにつけ、包み隠すこともできずに泣かれて、その場にいるが女房たちが皆、騒ぎ惑うのを、(夕霧)「静かに。しばらくは」となだめ静めるふりをして、御几帳の帷子をものをおっしゃる紛れにひき上げて御覧になれば、院(源氏)は、ほのぼのと明けてゆく朝の光もかすかであったので、燈火を遺骸の近くにかかげて拝見なっていらしたが、どこまでもお可愛らしく、華やかに清らかに見える御顔のもったいなさに、院(源氏)は、この君(夕霧)がこうしてお覗きになるのを見つつも、ことさら隠そうという御心もお思いにならないようであった。

(源氏)「このとおり、何事もまだ変わらぬ様子ではあるが、お亡くなりになったというご様子は、はっきりしているのですよ」とおっしゃって、御袖を顔におし当てなさると、大将の君(夕霧)も、涙にくれて目もお見えにならないのを強いて涙をしぼるように目を開けて拝見されると、なまじ拝見したことで、どこまでも悲しい気持ちになることは比べようもないので、真実、心が乱れてしまいそうである。御髪がそのままにかきやられていらっしゃるご様子は、ふさふさとして、清らかで、ほんの少しも乱れた様子もなく、つやつやと美しいさまは、これ以上のものがあろうか。灯火がとても明るいので、御顔の色はまことに白く光るようで、何かと身づくろいしていらしたご生前の御容姿よりも、今はもうどうもできないようすで、無心に横になっていらっしゃる御様子のほうが、非のうちどころもない、と言うのも今更めいたことである。並ひととおりの美しさでさえない、比較しようもないほど美しい御姿を拝見なさるにつけ、死にゆく魂が、このままこの亡骸に留まってくれないだろうか、とお思いになるのも、それも無理な願いではある。

長年おそばにお仕えしている女房などで、正気を保っている者もなかったので、院(源氏)ご自身が、何ごともご判断がつかず深く沈み込んでいらっしゃるご気分を、無理にお静めになって、葬儀についてのあれこれをご指示なさる。これまでも、悲しいとお思いになる事も多く御覧になられた御身ではあるが、実にこうまで、ご自身で指図するような形では、まだご存知ではなかったことで、すべて過去も未来も比較しようもなく悲しいお気持ちでいらっしゃる。

語句

■おほけなき心 紫の上を手に入れてやろうといった大それた考え。 ■ありしばかりも 夕霧は十五年前の野分の夜、紫の上の姿を見て衝撃を受けた(【野分 02】)。 ■つつみもあへず 夕霧が紫の上の死を悼みすぎることは異常で人目につく。にもかかわらず、夕霧は気持ちを抑えることができない。 ■あながちに隠さんの御心も思されぬ これまで源氏は夕霧が紫の上と直接対面することを避けてきた。源氏自身が父桐壺院の愛妾であった藤壺宮をものにした例があるので、夕霧のことを疑っていたのである。しかし今は亡くなっているし、源氏も冷静な判断力を欠いているので、夕霧に紫の上の死に顔を見せる。 ■限りのさま 亡くなったことを示す徴候。 ■しぼりあけて 涙をしぼるようにして目をあけて。 ■御髪のただうちやられたまへるほど 紫の上の髪が束になって枕の辺に塊をつくっている様子。 ■こちたく 「言痛し」は、ここでは髪の毛の量がおびただしいこと。■けうら 清ら。清らかで美しいさま。 ■御色 紫の上の顔色。 ■とかくうち紛らわす 何のかのと人をあしらっていた生前の紫の上のふるまい。 ■言ふかひなきさま 顔を照らし出されて源氏と夕霧にはっきりと見られているのに、それに対してもはや抵抗しようもない紫の上の様子。 ■死に入る魂 じょじょに死に深入りしていく紫の上の魂。夕霧の魂とみる説も。 ■限りの御事ども 葬儀についての規定どおりのあれこれ。 ■悲しと思すこと 母の桐壺更衣、祖母、夕顔、葵の上、父帝、藤壺、六条御息所などの死に源氏は直面した。 ■おり立ちて これまでも多くの人が亡くなったが、源氏が直接葬儀の手配をするような立場にはなかった。今回はその点、いっそう悲しいのである。

朗読・解説:左大臣光永