【野分 02】夕霧、六条院に来て紫の上を垣間見る

南の殿《おとど》にも、前栽《せんざい》つくろはせたまひけるをりにしも、かく吹き出でて、もとあらの小萩《こはぎ》はしたなく待ちえたる風のけしきなり。折れ返り、露もとまるまじく吹き散らすを、すこし端《はし》近くて見たまふ。大臣は、姫君の御方におはしますほどに、中将の君参りたまひて、東《ひむがし》の渡殿《わたどの》の小障子《こさうじ》の上より、妻戸《つまど》の開きたる隙《ひま》を何心もなく見入れたまへるに、女房のあまた見ゆれば、立ちとまりて音《おと》もせで見る。御|屏風《びゃうぶ》も、風のいたく吹きければ、押したたみ寄せたるに、見通しあらはなる廂《ひさし》の御座《おまし》にゐたまへる人、ものに紛るべくもあらず、気高《けだか》くきよらに、とにほふ心地して、春の曙《あけぼの》の霞《かすみ》の間《ま》より、おもしろき樺桜《かばざくら》の咲き乱れたるを見る心地す。あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬《あいぎやう》はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。御簾の吹き上げらるるを、人々押ヘて、いかにしたるにかあらむ、うち笑ひたまへる、いといみじく見ゆ。花どもを心苦しがりて、え見棄《みす》てて入りたまはず。御前なる人々も、さまざまにものきよげなる姿どもは見わたさるれど、目移るベくもあらず。大臣のいとけ遠く遙《はる》かにもてなしたまヘるは、かく、見る人ただにはえ思ふまじき御ありさまを、至《いた》り深き御心にて、もしかかることもやと思すなりけり、と思ふに、けはひ恐ろしうて、立ち去るにぞ、西の御方より、内の御障子《みさうじ》ひき開けて渡りたまふ。

「いとうたて、あわたたしき風なめり。御格子おろしてよ。男《をのこ》どもあるらむを、あらはにもこそあれ」と聞こえたまふを、また寄りて見れば、もの聞こえて、大臣もほほ笑みて、見たてまつりたまふ。親ともおぼえず、若くきよげになまめきて、いみじき御|容貌《かたち》のさかりなり。女もねびととのひ、飽かぬことなき御さまどもなるを身にしむばかりおぼゆれど、この渡殿の格子も吹き放ちて、立てる所のあらはになれば、恐ろしうて立ち退きぬ。今参れるやうにうち声《こわ》づくりて、簀子《すのこ》の方に歩み出でたまへれば、「さればよ。あらはなりつらむ」とて、かの妻戸の開きたりけるよ、と今ぞ見とがめたまふ。「年ごろかかる事のつゆなかりつるを。風こそげに巌《いはほ》も吹き上げつべきものなりけれ。さばかりの御心どもを騒がして、めづらしくうれしき目を見つるかな」とおぼゆ。

人々参りて、「いといかめしう吹きぬべき風にはべり。艮《うしとら》の方より吹きはべれば、この御前はのどけきなり。馬場殿《むまばどの》、南の釣殿《つりどの》などは、あやふげになむ」とて、とかく事行ひののしる。「中将はいづこよりものしつるぞ」「三条宮《さんでうのみや》にはべりつるを、風いたく吹きぬべし、と人々の申しつれば、おぼつかなさに参りはべりつる。がしこにはまして心細く、風の音《おと》をも、今はかへりて、稚《わか》き子のやうに怖ぢたまふめれば、心苦しさにまかではべりなむ」と申したまへば「げに、はや参うでたまひね。老いもていきて、また稚《わか》うなること、世にあるまじきことなれど、げにさのみこそあれ」などあはれがりきこえたまひて、「かく騒がしげにはベめるを、この朝臣《あそむ》さぶらへば、と思ひたまへ譲《ゆづ》りてなむ」と御|消息《せうそこ》聞こえたまふ。

現代語訳

南の御殿でも、植え込みを手入れなさっていたまさにその折も折、こうして野分が吹き出して、株のまばらな小萩が露を吹き飛ばすため待ち迎えた風としては、あまりに激しすぎる風の勢いである。あちこちで萩がしなって、露の一滴も残さぬほど吹き散らすのを、女君(紫の上)は廂の間のすこし端近くで外を御覧になっていらっしゃる。

源氏の大臣は姫君(明石の姫君)のお部屋にいらっしゃっているが、その時、中将の君(夕霧)がおいでになって、東の渡殿の小さい衝立の上から、妻戸が開いている間を、何という気もなくお覗きになったところ、女房が多く見えたので、立ち止まって音も立てずに見る。

御屏風も、風がひどく吹いているので、押したたんで端に寄せていたので、奥まで見通せる廂の御座所に座っていらっしゃる人が、他の物の紛れるはずもなく、気高く清らかに、ぱっと映えるような感じがして、春の曙の霞の間から、美しい樺桜が咲き乱れているのを見るような気がする。

どうにも情けないほど、拝見しているわが顔にもふりかかってくるように、その色づく魅力が散りかかってきて、またとなくすばらしいその人のご様子である。御簾が風で吹き上げられるのを、女房たちが押して、その時どうかしたのだろうか、にっこりお笑いになっていらっしゃる、その御姿が、とても美しく見える。多くの花が散ってしまうのを心苦しがって、見捨てて部屋の中にお入りになることもおできにならない。おそばにお仕えしている女房たちも、さまざまに見渡すかぎり美しげな姿ではあるのだが、この御方から目が移す気にはなれない。父大臣が自分をここからひどく遠ざけて、お近づけにならないのは、このように、見る人が並々ならぬ思いを抱くだろう女君のご容姿を、周到に用心なさって、もしこのようなことがあってはとご警戒されていらっしゃったからであったのだ、と思うにつけ、中将はなんとなく恐ろしくなって、立ち去る。ちょうどその折も折、大臣が、西のお部屋から内の御襖を引き開けてお戻りになられる。

(源氏)「ああひどい。慌ただしい風のようだ。御格子をおろしてくれ。男たちもいるだろうに、丸見えになってしまう」と女君(紫の上)に申し上げなさるのを、中将(夕霧)は、また近づいて見ると、何事か話しているのが聞こえて、大臣(源氏)も微笑んで、女君(紫の上)を御覧になっていらっしゃる。これが自分の親とも思えないほど、若く清らかで美しく、ご立派な今を盛りのお姿である。女も女盛りに整い、欠けたところのない、お二人のご容姿であるのを、中将(夕霧)は身にしみるほどの覚えるが、風が、この渡殿の格子をも吹き開けて、自分が立っているところが見通しになってしまうと考えると、それが恐ろしくて立ち去った。中将(夕霧)は今参上したように咳払いをして、簀子の方に歩み出ておいでになると、(源氏)「それごらんなさい。丸見えだったのだろう」といって、例の妻戸が開いていたことよ、と今になって中将が紫の上を目にしただろうとお疑いになる。中将は「この年頃、このような事はまったくなかったのに。なるほど風というものは、巌までも吹き上げてしまうものなのだな。あれほど用心深い方々であるのにその御心を騒がせて、珍しくもうれしい目を見たことだ」と思う。

人々がお見舞いに参上して、「まことに大変な嵐になりそうな風でございます。艮(東北)の方角から吹いていますので、こちらの御座所は静かでいらっしゃいます。馬場殿、南の釣殿などは、あぶなそうでございます」といって、あれこれ嵐の準備をして大騒ぎである。(源氏)「中将はどこから参ったのか」(夕霧)「三条宮にございましたが、風がひどく吹きそうだ、と人々が申しましたので、こちらが心配で見舞いに参ったのでございます。あちらは、こちらよりもいっそう心細い有様で、大宮は、風の音をも、今は昔に立ち返って、幼い子のように怖がっていらっしゃるようですので、気の毒なのでおいとまさせていただきます」と申し上げなさると、(源氏)「まことに、はやくそちらにお見舞いに参りなさい。年を取ってくると、幼子にもどったようになることは、まさかあるまいと思うけれど、実際、そういうものです」など、おいたわりになって申し上げなさって、(源氏)「このように騒がしげな有様ではございますが、この朝臣(夕霧)がおそばについておりましたら、と思いまして、そちらにお送りいたします」と、大宮へのお手紙をことづけなさる。

語句

■南の殿 紫の上の春の御殿。「秋の前栽をばむらむらほのかにまぜたり」(【少女 33】)。 ■もとあらの小萩 「宮城野の本《もと》あらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て」(古今・恋四 読人しらず)による。歌意は、宮城野の株のまばらな小萩が露が重いのでそれを吹き散らす風を待っている、まさにそのように、私はあなたを待っています。ここでは萩の露を吹き飛ばす風としては、この風は過剰であるというのである。 ■露もとまるまじく 萩の縁語の「露」に、「少しも」の意をかける。 ■東の渡殿 寝殿と東の対との間をつなぐ渡殿。 ■小障子 小さい衝立。 ■妻戸の開きたる 野分のために妻戸が開いていた。 ■曙 夜がしだいに明るくなる時。 ■樺桜 山桜の一種。 ■大臣のいとけ遠く 「中将の君を、こなた(紫の上のところ)にはけ遠くもてなしきこえたまへれど」(【蛍 11】)。源氏は自分が父桐壺院の后である藤壺と密通した事実があるので、夕霧と紫の上との間にそういう間違いが起こらないかと警戒している。■もしかかること 誰かが(夕霧が)紫の上を垣間見て心を動かすこと。 ■西の御方より 西の明石の姫君の部屋から、内部の襖を開けて、紫の上の部屋へ。 ■男どもあるらむを 源氏は、男たちが紫の上の姿を目にすることを恐れる。 ■この渡殿 夕霧がいる渡殿。 ■恐ろうて 禁忌に触れたような気がして恐ろしい。 ■今参れるやうにうち声づくりて、簀子の方に歩み出でたまへば 主語は夕霧。渡殿の端から簀子のほうに歩き、今はじめてまいったように咳払いで合図をした。ういうところの読みにくさはすべて、「主語を書かない」という筆者のかたくななまでの方針による。後世の読者はどれほど悩まされたことか。 ■さればよ 前の「御格子おろしてよ…あらはにもこそあれ」を受ける。 ■今ぞ 夕霧が紫の上を垣間見た今になって。 ■かかる事 紫の上を見ること。 ■見とがめたまふ この時、源氏の目の前に夕霧の姿がある。 ■風こそげに 「げに」とあるので言葉の出典があるらしいが不明。『河海抄』は「是ニ於テ大風西北ヨリ起ツテ、木ヲ折リ屋を発《ひら》ク。沙石ヲ揚ゲ、窈メイトシテ昼晦シ」(史記・項羽本紀)ほかを挙げる。 ■さばかりの御心ども 源氏と紫の上の、注意深い心。 ■めづらしくうれしき目 紫の上を垣間見れたこと。 ■人々 家司たち。 ■吹きぬべき風 この後ひどい嵐になりそうな風。今はまだそうでもない風だが、これから激しく吹きそうだというのである。 ■馬場殿 花散里方の東北の一角(【少女 33】)。 ■南の釣殿 花散里方の南の釣殿。あるいは紫の上方の南の釣殿。 ■事行い 嵐に対する備え。防風処置。 ■いづこよりものしつるぞ 夕霧はもっとも激しい風が予想される花散里方に住んでいるのに、そちらで嵐の準備をせず、なぜここに来ているのかと不審に思う。 ■三条宮 夕霧の祖母大宮の御邸。夕霧は毎日三条宮を訪ねている。 ■かへりて 年を取るのと逆に。幼児退行していると。 ■まかではべりなむ こちら(六条院)の安全は確認できたので、すぐに三条宮にもどりますの意。 ■朝臣さぶらへば 下に「安心です」の意を補って読む。

朗読・解説:左大臣光永

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