【野分 03】夕霧、三条宮にて紫の上を思う

道すがらいりもみする風なれど、うるはしくものしたまふ君にて、三条宮と六条院とに参りて、御覧ぜられたまはぬ日なし。内裏《うち》の御物忌《おほむものいみ》などにえ避《さ》らず籠《こも》りたまふべき日よりほかは、いそがしき公事《おほやけごと》節会《せちゑ》などの、暇《いとま》いるべく事|繁《しげ》きにあはせても、まづこの院に参り、宮よりぞ出でたまひければ、まして今日、かかる空のけしきにより、風のさきにあくがれ歩《あり》きたまふもあはれに見ゆ。

「宮いとうれしう頼もしと待ちうけたまひて、「ここらの齢《よはひ》に、まだかく騒がしき野分《のわき》にこそあはざりつれ」と、ただわななきにわななきたまふ。大きなる木の枝などの折るる音も、いとうたてあり。殿《おとど》の瓦《かはら》さへ残るまじく吹き散らすに、「かくてものしたまへること」と、かつはのたまふ。そこらところせかりし御|勢《いきほひ》のしづまりて、この君を頼もし人に思したる、常なき世なり。今もおほかたのおぼえの薄らぎたまふことはなけれど、内の大殿《おほとの》の御けはひは、なかなかすこし疎《うと》くぞありける。

中将、夜もすがら荒き風の音にも、すずろにものあはれなり。心にかけて恋しと思ふ人の御事はさしおかれて、ありつる御面影の忘られぬを、「こはいかにおぼゆる心ぞ。あるまじき思ひもこそ添へ。いと恐ろしきこと」とみづから思ひ紛《まぎ》らはし、他事《ことごと》に思ひ移れど、なほふとおぼえつつ、「来《き》し方行く末あり難くもものしたまひけるかな。かかる御仲らひに、いかで東の御方、さるものの数にて立ち並びたまひつらむ。たとしへなかりけりや、あないとほし」とおぼゆ。大臣の御心ばへを、あり難しと思ひ知りたまふ。人柄のいとまめやかなれば、似げなさを思ひ寄らねど、「さやうならむ人をこそ、同じくは見て明かし暮らさめ。限りあらむ命のほども、いますこしは必ず延びなむかし」と思ひつづけらる。

現代語訳

道中、もみあうような風であるが、この中将(夕霧)は、律儀でまじめなお方なので、三条宮と六条院とに参って、祖母宮と父君にお目通りなさらない日はない。宮中の御物忌などでやむをえずご宿直なさらねばならない日のほかは、忙しい公務や節会などの、時間がかかり、忙しい折と重なっても、まずはこの六条院に参り、三条宮から宮中にご出発になったので、まして今日、このようにひどい空模様だから、風より先にとばかりにあちこち歩きまわっていらっしゃるのも、殊勝に見える。

大宮はたいそううれしく頼もしく中将(夕霧)をお待受けになられて、(大宮)「この年まで、まだこんな騒がしい野分にあったことがありませんよ」と、ひたすら震えていらっしゃる。大きな木の枝などの折れる音も、ひどく気味が悪い。御殿の瓦までも残りそうもなく吹き荒れているのに、「よくぞこうしていらしてくださったこと」と、震えながらも、おっしゃる。たいそう盛んであったご権勢もしずまって、この君(夕霧)を頼もしい人とお思いになっていらっしゃるのは、何事も無常な世の中といったところである。大宮は、今も大体においては世間のおぼえが薄らいでいらっしゃるということはないのだが、内大臣の大宮に対するご態度は、かえって中将(夕霧)よりもすこし他人行儀である。

中将は、一晩中、荒い風の音を聞くにつけても、むやみに悲しい気持になる。心にかけて恋しいと思う人(雲居雁)の御事は脇にお置きになって、昼間拝した女君(紫の上)の御面影が忘れられないのを、(夕霧)「これは何を考えているのだ。あってはならない気持が起こってしまう。まことに恐ろしいことだ」とみずから思いを紛らわし、他の事に考えを移すが、やはりたびたび、ふとその面影が思い出され、(夕霧)「前にも先にも、ありえないほどお美しい御方なのだ。あのようなご夫婦仲に、どうして東の御方(花散里)が、対等な奥方の一人として、肩をならべていらっしゃるのだろうか。比較にもならないではないか。ああお気の毒な」と思われる。東の御方のような冴えない奥方までも大切にお扱いになる大臣(源氏)のお心具合を、希少なことだと思い知りなさる。

中将(夕霧)は、まことにまじめな人柄なので、分不相応なことなど思い寄らないが、「あのような美しい人を、同じ事なら、妻として迎えて、明かし暮らしたいものだ。そうすれば限りある命の長さも、もう少しは必ず延びることだろう」と、自然と思いつづけられる。

語句

■道すがら 六条院から三条院までの道中。 ■いりもみする 物を煎るように、また揉むように風が吹くこと。「いりもみつる雷の騒ぎに…」(【明石 03】)。 ■物忌 凶日や穢れを避けるため、一定期間家や宮中に籠もること。 ■そこら たいそう。非常に。大宮の夫は太政大臣にまで至ったが四年前に亡くなっている(【薄雲 09】)。 ■なかなかすこし疎くぞ 内大臣は夕霧と雲居雁の仲を引き裂いた。そのことで大宮はひどく傷ついた(【少女 18】)。 ■すずろにものはあれなり 昼間見た紫の上の姿が忘れられず、夕霧は心かきたてられる。 ■あるまじき思ひもこそ添へ 夕霧は、紫の上への恋慕の気持が起こることが、われながら恐ろしい。 ■かかる御仲らひ 源氏と紫の上との理想的な夫婦関係。 ■東の御方 花散里。夕霧は花散里方の東の対に住んでいる。花散里は夕霧の養育係であり、夕霧と密接。 ■たとしへなかりけりや 紫の上と花散里では比較にもならないの意。 ■大臣の御心ばへ 源氏が花散里のような冴えない女性さえ大切に扱っていることに、夕霧は感じ入る。 ■似げなさ 紫の上を恋い慕うこと。 ■見て ここで「見る」は妻として迎えること。

朗読・解説:左大臣光永

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