【野分 04】夕霧、源氏と紫の上の寝所を訪ねる
暁方《あかつきがた》に風すこししめりて、むら雨のやうに降り出づ。「六条院には、離れたる屋《や》ども倒れたり」など人々申す。「風の吹き舞ふほど、広くそこら高き心地する院に、人々、おはします殿のあたりにこそ繁《しげ》けれ、東《ひむがし》の町などは、人少なに思されつらむ」と驚きたまひて、まだほのぼのとするに参りたまふ。道のほど、横さま雨いと冷《ひや》やかに吹き入る。空のけしきもすごきに、あやしくあくがれたる心地して、「何ごとぞや。またわが心に思ひ加はれるよ」と思ひ出づれば、いと似げなきことなりけり。あなもの狂ほしと、とざまかうざまに思ひつつ、東《ひむがし》の御方にまづ参《ま》うでたまへれば、怖《お》ぢ困《こう》じておはしけるに、とかく聞こえ慰めて、人召して所どころ繕《つくろ》はすべきよしなど言ひおきて、南の殿《おとど》に参りたまへれば、まだ御格子《みかうし》も参らず。おはしますに当れる高欄《こうらん》に押しかかりて見わたせば、山の木どもも吹きなびかして、枝ども多く折れ伏したり。草むらはさらにも言はず、檜皮《ひはだ》瓦《かはら》、所どころの立蔀《たてじとみ》透垣《すいがい》などやうのもの乱りがはし。日のわづかにさし出でたるに、愁《うけ》へ顔なる庭の露きらきらとして、空はいとすごく霧《き》りわたれるに、そこはかとなく涙の落つるをおし拭《のご》ひ隠して、うちしはぶきたまへれば、「中将の声《こわ》づくるにぞあなる。夜はまだ深からむは」とて、起きたまふなり。何ごとにかあらん、聞こえたまふ声はせで、大臣うち笑ひたまひて、「いにしへだに知らせたてまつらずなりにし暁の別れよ。今ならひたまはむに、心苦しからむ」とて、とばかり語らひきこえたまふけはひども、いとをかし。女の御|答《いら》へは聞こえねど、ほのぼの、かやうに聞こえ戯《たはぶ》れたまふ言の葉のおもむきに、ゆるびなき御仲らひかな、と聞きゐたまへり。
御格子《みかうし》を御手づからひき上げたまへば、け近きかたはらいたさに、立ち退《の》きてさぶらひたまふ。「いかにぞ。昨夜《よべ》、宮は待ち喜びたまひきや」「しか。はかなきことにつけても、涙もろにものしたまへば、いと不便《ふびん》にこそはべれ」と申したまへば、笑ひたまひて、「いまいくばくもおはせじ。まめやかに仕うまつり見えたてまつれ。内大臣《うちのおとど》はこまかにしもあるまじうこそ、愁へたまひしか。人柄あやしう華やかに、男《を》々しき方によりて、親などの御|孝《けう》をも、厳《いかめ》しきさまをばたてて、人にも見おどろかさんの心あり、まことにしみて深きところはなき人になむものせられける。さるは、心の隈《くま》多くいと賢《かしこ》き人の、末の世にあまるまで才《ざえ》たぐひなく、うるさながら、人としてかく難《なん》なきことは、難《かた》かりける」などのたまふ。
現代語訳
明け方ごろ風がすこし湿って、通り雨のように降り出した。「六条院には、離れ屋のいくつかが倒れた」など人々が報告する。(夕霧)「風が吹き荒れる間、敷地が広く、高めの棟が多い六条院では、殿(源氏)がいらっしゃる御殿のあたりこそ警護の人は多いだろうが、東の院などは、人が少なく心細くお思いになっていらしただろう」とびっくりなさって、まだほの暗い時分に、中将(夕霧)は六条院に参上なさる。道中、横なぐりの雨がまことに冷ややかに車の中に吹き入ってくる。空模様も殺風景である中、不思議にも心が肉体を離れてさまよい出るような気がして、「これはどうしたことだ。また新たな物思いが、わが心に加わったのだな」と気が付いてみると、まったく大それたことなのであった。ああもの狂おしいことよと、あれこれ思いつめながら、東の御方にまずおいでになると、女君(花散里)は、怯えて疲れていらっしゃったので、あれこれお慰め申し上げて、人を召して所々修繕させるように、など言いおいて、南の御殿においでになられると、まだ御格子も上げていない。御寝所にあたるお部屋のあたりの高欄によりかかってお庭を見渡せば、築山の木々も風が吹き倒して、枝が多く折れ伏している。草むらが荒れていることは言うまでもなく、檜皮、瓦、あちこちの立蔀、植え込みなどといったようなものが散乱している。日がわずかに出てきた頃、愁い顔の庭の露がきらきらとして、空はひどく濛々と、あたり一面に霧が立ち込めている中、中将(夕霧)は、何ということもなく涙が落ちるのを拭い隠して、咳払いをなさると、(源氏)「中将が合図しているようだ。夜はまだ深いだろうに」といって、源氏の殿は、お起きになっていらっしゃる気配である。何事であろうか、お話しになられる声は聞こえないが、大臣はお笑いになって、(源氏)「昔でさえ、ついに貴女には教えずじまいになった暁の別れというやつですよ。今朝はじめてその辛さをお知りになることは、辛いことでしょう」といって、あれこれお語らいになっていらっしゃるお二人の気配は、たいそう風情がある。
女のご返事は聞こえないが、はっきりとではないが、このように戯れ言を交わしておられる風情に、並たいていのことではないご夫婦のご関係であるなと、中将は聞き入っておられる。
大臣が、御格子を、お手づからお引き上げなさったので、中将は、あまりに近くにいることが決まりが悪くて、引き下がってお控えになる。(源氏)「いかがでしたか。昨夜、大宮はお待ちかねで、喜んでいらっしゃったか」(夕霧)「はい。何でもないことにつけても、涙もろくなっていらっしゃいますので、まことに困ってしまいます」と申し上げなさると、大臣はお笑いになって、(源氏)「もうそう長いお命でもあるまい。ねんごろにお仕えしてお世話申し上げなさい。内大臣は細かな気遣いに欠けているようだと、大宮は不平をもらしておられた。内大臣の人柄は妙に派手好みで、しっかりしてはいるのだが、親などに対する御孝行も、仰々しさばかりにこだわって、人の目を驚かそうとする心があり、そのくせ誠実な身にしみて深い人情味はない方でいらっしゃるよ。そうはいっても、心の奥底が深く、まことに賢い人で、この末の世におさまりきれないほどの才学はたぐいもなく、こちらが閉口するほどだが、人としてあのように欠点がないことは、滅多にないことなのだ」などとおっしゃる。
語句
■村雨 ひとしきり降る通り雨。参考「村雨の露もまだ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮」(小倉百人一首八十七番 寂蓮法師)。 ■おはします殿 源氏が住む六条院南の御殿。 ■東の町 花散里の居所。 ■いと似げなきことなり 夕霧は自分の中に芽生えた新たな感情が紫の上への恋慕であると自覚して恐ろしく思う。 ■おはしますに当れる高欄 源氏と紫の上がおやすみになっているお部屋のあたりの高欄。 ■山 「南の東は山高く…」(【少女 33】)。 ■檜皮 檜の皮を小板にしたもの。屋根に葺く。 ■あなる 「あるなる」の音便形撥音無表記。「なり」は推量の助動詞。 ■夜はまだ深からむは 格子を下ろしているので部屋の中は真っ暗で、夜が明けたことに気づかない。「は」は感動・強調の助詞。 ■起きたまふなり 「なり」は推量。夕霧は部屋の外から部屋の内のことを気配で感じている。 ■聞こえたまふ声はせで 紫の上が源氏に。または源氏が紫の上に。 ■いにしへだに 当時の結婚ははじめのうちは男が女の家に通い、暁に帰る。しかし源氏と紫の上ははじめから同居していたので紫の上は「暁の別れ」の辛さを味わっていない。そのことをふまえた戯言。 ■いかにぞ 下に「ありし」などを補って読 む。 ■しか 下に「はべりし」などを補って読む。 ■さるは ここまで内大臣を下げたのでここから上げる。 ■心の隈 心の奥底。 ■末の世 仏教にいう仏の教えが衰え世が乱れる時期。正法時(釈迦入滅後五百年間)から像法時(正法時後千年間)をすぎて末法時に入り世が乱れるとされる。