【橋姫 05】宮邸炎上し宇治に移住 阿闍梨に師事

かかるほどに、住みたまふ宮焼けにけり。いとどしき世に、あさましうあへなくて、移ろひ住みたまふべき所の、よろしきもなかりければ、宇治《うぢ》といふ所によしある山里|持《も》たまへりけるに渡りたまふ。思ひ棄てたまへる世なれども、今はと住み離れなんをあはれに思さる。

網代《あじろ》のけはひ近く、耳かしがましき川のわたりにて、静かなる思ひにかなはぬ方《かた》もあれど、いかがはせん。花、紅葉、水の流れにも、心をやるたよりに寄せて、いとどしくながめたまふより外《ほか》のことなし。かく絶え籠《こも》りぬる野山の末にも、昔の人ものしたまはましかば、と思ひきこえたまはぬをりなかりけり。

見し人も宿もけぶりになりにしをなにとてわが身消え残りけん

生けるかひなくそ思しこがるるや。

いとど、山重なれる御住み処《か》に尋ね参る人なし。あやしき下衆《げす》など、田舎びたる山がつどものみ、まれに馴れ参り仕うまつる。峰の朝霧晴るるをりなくて明かし暮らしたまふに、この宇治山に、聖《ひじり》だちたる阿闍梨《あざり》住みけり。才《ざ゜え》いとかしこくて、世のおぼえも軽《かろ》からねど、をさをさ公事《おほやけごと》にも出で仕へず籠りゐたるに、この宮のかく近きほどに住みたまひて、さびしき御さまに、尊きわざをせさせたまひつつ、法文《ほふもん》を読みならひたまへば、尊がりきこえて常に参る。年ごろ学び知りたまへることどもの、深き心を説《と》き聞かせたてまつり、いよいよ、この世のいとかりそめにあぢきなきことを申し知らすれ九ば、「心ばかりは蓮《はちす》の上に思ひのぼり、濁りなき池にも住みぬべきを、いとかく幼き人々を見棄てむうしろめたさばかりになむ、えひたみちにかたちをも変へぬ」など、隔てなく物語したまふ。

現代語訳

こうしているうちに、住んでいらっしゃる洛中の宮が火事で焼けてしまった。不運ばかり重なる人生に、呆れるばかりあっけないお気持ちになられて、移り住めるような所で、まともな所もなかったので、宇治という所に風情のある山里を持っていらした、その場所へお移りになる。望みを捨てていらっしゃる世の中とはいっても、今が最後と住み慣れた都をお離れになるのは悲しくお思いになる。

網代が近くにあるようで、水音が耳にうるさい川のほとりなので、静かに暮らしたいという希望にあわない所もあるが、どうにもならない。花、紅葉、水の流れにつけても、心を慰めるよすがを求めて、いよいよ物思いに沈んでばかりいらっしゃる。こうして世間と切り離されて引き籠もっている野山の末にも、亡き北の方が生きていらしたら、と思い申し上げない折はないのだった。

(八の宮)見し人も……

(かつて契を交わした人も、住んでいた家も煙となったのに、どうして私は消えずに残っているのだろう)

生きているかいがないと、北の方のことを思いこがれておいでである。

都にあった時もよりもいっそう、山々を隔てたこの御すまいに尋ね参る人もない。下賤の者など、田舎じみた猟師たちだけが、まれによく参って宮にお仕え申しあげる。峰にかかる朝霧の晴れる時もないままに朝晩お暮らしになっているうちに、この宇治山に、世間離れしたところのある阿闍梨が住んでいるのだった。

仏教の教学にとてもすぐれていて、世間からの信望も軽くなかったが、めったに公の行事にも参加せず、山籠りしていたところ、この八の宮がこんな近くに住まわれて、さびしいご様子で、尊いわざをなさっては、仏典をいつも読んでいらっしゃるので、阿闍梨は尊いことと存じ上げて、いつも八の宮のもとに参る。阿闍梨は八の宮に、長年学び知っていらっしゃるさまざまな知識の、深い意味をご解説申し上げて、いよいよ現世がひどくかりそめのもの、はかないものであることをお教え申しあげるので、(八の宮)「心ばかりは蓮の上にのぼるほど気位を高くして、濁りのない池にも住めそうに思うけれども、まことにこう幼い人々(大君・中君姉妹)を見棄てることが気がかりなばかりに、思い切って出家することもできません」など、隔てなく阿闍梨にお話される。

語句

■かかるほどに 八の宮が世の中に背を向け仏事に没頭しているころ。 ■いとどしき世に 辛いことばかり重なる世の中に。 ■宇治といふところ 物語中、はじめて宇治の地が言及される。あらたな物語の始まりを予感させる。宇治は古くから貴族の別荘があった。「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」(古今・雑下/小倉百人一首八番 喜撰)。 ■網代 竹や木を組んだものを水にさして、魚を捕らえる装置。宇治川の風物詩。 ■耳かしがましき川 宇治川は水流が激しい。琵琶湖に源を発し、上流を瀬田川、宇治に入って宇治川、さらに賀茂川・桂川と合流して淀川となる。 ■静かなる思ひ 仏道修行に適した静かな環境を望んだ。 ■いとどしく 心慰められるはずの四季折々の景物が、かえって物思いを引き起こし、俗世への執着心がます。 ■野山の末 「いづくにか世をば厭はむ心こそ野にも山にもまどふべらなれ」(古今・雑下 素性)をふまえるか。 ■昔の人 北の方をさす。 ■見し人も… 北の方の遺体を焼いた煙と、洛中の家が火事で焼けたときの煙。 ■思しこがるるや 前歌の「けぶり」の縁で「こがるる」。 ■あやしき下衆など 荘園の管理者などだろう。 ■峰の朝霧晴るるをりなくて 「雁のくる峰の朝霧はれずのみ思ひ尽きせぬ世の中の憂さ」(古今・雑上 読人しらず)。 ■聖だちたる阿闍梨 世間離れしたところのある高徳の僧。 ■蓮の上 極楽の池の蓮の上に。 ■思ひのぼり 蓮の葉の上に上る意に、気位を高く持つの意をかける。 

朗読・解説:左大臣光永