平家物語 百一 篠原合戦(しのはらがつせん)

平家物語巻第七より「篠原合戦(しのはらがつせん)」。加賀国篠原(石川県加賀市篠原町)で木曾方と平家方が合戦。

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前回「倶梨伽羅落(くりからおとし)」からの続きです。

あらすじ

義仲は、倶利伽羅峠での勝利の後、諸社へ土地を寄進する。

一方平家方では、昨年の石橋山の合戦で頼朝を討った侍たちが、次の戦いまで休息をとっていた。

その中に斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)が、「平家の負けは見えている。木曽殿に味方しよう」と言い出す。

俣野五郎は、「形勢によってあちらへ着いたりこちらへ着いたりするのは見苦しい。他人がどうあれ、自分は平家と運命を共にするつもりだ」と言う。

斉藤別当は、「そなたらの気持ちを試そうとして言ったのだ。実盛も今回の戦で討ち死にする覚悟だ」と答えた。

かくしてこの人々は皆、北国で討ち死にすることになった。

篠原で戦いが始まった。平家の畠山重能と源氏の今井兼平の戦いは双方、多くの損害を出しながらも畠山敗走という結果に終わる。

平家の高橋判官長綱(たかはしのほうがん ながつな)は、源氏の若武者、入善小太郎行重(にゅうぜんのこたろう ゆきしげ)に情けをかけ、逆に討ち取られてしまう。

平家の武蔵三郎左衛門有国(むさしのさぶろうざえもん ありくに)は奮戦するが、多くの矢を射立てられ、立ったまま絶命した。

原文

そこにて諸社へ神領(じんりやう)を寄せられけり。白山(はくさん)へは横江(よこえ)、宮丸(みやまる)、 管生(すがふ)の社(やしろ)へは能美(のみ)の庄(しやう)、多田(ただ)の八幡(やはた)へは蝶屋(てふや)の庄、気比(きひ)の社へは飯原(はんはら)の庄を寄進(きしん)す。平泉寺(へいせんじ)へは藤島七郷(ふぢしましちがう)を寄せられけり。

一年石橋(ひととせいしばし)の合戦の時、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)射奉(たてま)ッし者ども、都へ逃げのぼッて、平家の方にぞ候(さうら)ひける。むねとの者には、俣野五郎景久(またののごらうかげひさ)、長井斎藤別当実盛(ながゐのさいとうべつたうさねもり)、伊東九郎祐氏(いとうのくらうすけうじ)、浮巣三郎重親(うきすのさぶらうしげちか)、真下四郎重直(ましたのしらうしげなお)、是等(これら)はしばらくいくさのあらんまでやすまんとて、日ごとに寄りあひ寄りあひ、巡酒(じゆんしゆ)をしてぞなぐさみける。まづ実盛が許(もと)に寄りあひたりける時、斎藤別当申しけるは、「倩此(つらつらこの)世の中の有様をみるに、源氏の御方(おんかた)は強く、平家の御方はまけ色にみえさせ給ひけり。いざおのおの木曾殿へ参らう」と申しければ、みな、「さンなう」と同(どう)じけり。次の日又浮巣三郎が許に寄りあひたりける時、斎藤別当、「さても昨日(きのふ)申しし事はいかに、おのおの」。そのなかに、俣野五郎すすみ出でて申しけるは、「我等はさすが東国では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。吉についてあなたへ参りこなたへ参らう事も見苦しかるべし。人をば知り参らせず、景久においては平家の御方(おんかた)にていかにもならう」ど申しければ、斎藤別当あざわらッて、「まことにはおのおのの御心どもをかなびき奉らんとてこそ申したれ。其上(そのうへ)実盛は、今度のいくさに討死(うちじに)せうど思ひきッて候ぞ。二(ふた)たび都へ参るまじき由、人々にも申しおいたり。大臣殿(おほいとの)へも此(この)やうを申し上げて候ぞ」といひければ、かみな人此儀(このぎ)にぞ同(どう)じける。さればその約束をたがへじとや、当座にありし者ども、一人も残らず北国 にて皆死ににけるこそむざんなれ。

さる程に、平家は人馬(じんば)の息をやすめて、加賀国篠原(かがのくにしのはら)に陣をとる。同(おなじき)五月廿一日の辰(たつ)の一点(いつてん)に、木曾(きそ)篠原におし寄せて 時をどッとつくる。平家の方には、畠山庄司重能(はたけやまのしやうじしげよし)、小山田(をやまだ)の別当有重(べつたうありしげ)、去(さんぬ)る治承(ぢしよう)より今まで召しこめられたりしを、
「汝等(なんぢら)はふるい者共なり。いくさの様(やう)をもおきてよ」とて、 北国へむけられたり。是等(これら)兄弟三百余騎で陣のおもてにすすんだり。源氏の方(かた)より、今井四郎兼平(いまゐのしらうかねひら)三百余騎でうちむかふ。 畠山、今井四郎、はじめは互(たがひ)に五騎十騎づつ出(いだ)しあはせて勝負をせさせ、後には両方(りやうばう)乱れあうてぞたたかひける。五月廿一日の午剋(うまのこく)、草もゆるがず照(てら)す日に、我おとらじとたたかへば、遍身(へんしん)より汗(あせ)出でて水をながすに異(こと)ならず。今井が方にも兵(つはもの)おほくほろびにけり。畠山、家子郎等(いへのこらうどう)残りずくなに討ちなされ、力およばでひきしりぞく。

現代語訳

義仲はその場所で諸社へ領有地を寄進された。白山(はくさん)へは横江(よこえ)、宮丸(みやまる)、菅生(すがう)の社(やしろ)へは能美(のうみ)の庄(しょう)、多田(ただ)の八幡(はちまん)へは蝶屋(ちょうや)の庄(しょう)、気比(きひ)の社(やしろ)へは飯原(はんばら)の庄(しょう)を寄進する。平泉寺(へいせんじ)へは藤島七郷(ふじしましちごう)を寄進された。

先年石橋(せんねんいしばし)の合戦の時、兵衛佐殿(ひょうえのすけどの)を射申し上げた者共は、都へ逃げ上って平家の方に仕えていた。主な者には、保野五郎景久(またののごろうかげひさ)、長井斎藤別当実盛(ながいのさいとうべっとうさねもり)、伊東九郎祐氏(いとうのくろうすけうじ)、浮巣三郎重近(うきすのさぶろうしげちか)、真下四郎重直(ましたのしろうしげなお)、是等はしばらく戦があるまで休もうと言って、日ごとに寄り合い、寄り合い、酒を回し飲みして慰めあっていた。

まず実盛の所へ寄り合った時、斎藤別当が申したのは、「よくよくこの世の中の有様を見ると、源氏の御方は強く、平家の御方は敗色が濃いようだ。さあ、皆々木曾殿へ参ろうではないか」と申したところ、みな、「そうだなあ」と同意した。

次の日又浮巣三郎の所に寄り合った時、斎藤別当が、「さて昨日申したことはどうしようか。おのおの」。

その中にいた保野五郎が進み出て申したのは、「我等はさすがに東国では皆人に知られて、名のある者だ。形勢の良い方についてあちらへ参りこちらへ参る事も見苦しい事である。都には見知った者もおらず、景久においては平家の御方にてどうにでもなろう」と申したので、斎藤別当が嘲笑って、「まこと、おのおのの心の内を試そうと思って申したことだ。そのうえ実盛は、今度の戦で討死(うちじに)しようと思い詰めておりますぞ。再び都へは参るまいと、平家の地位の高い人々にも申し置いたのだ。大臣殿(おおいどの)へもこの事を申し上げておりますぞ」と言ったので、その場にいた人全員がこれに同意した。

それでその約束を違えまいということか、その座に居た者共、一人も残らず北国にて討ち死にしたのは無残な事である。

さて、平家は人馬に休憩を取らせて、加賀国篠原(かがのくにしのはら)に陣を構える。

同年五月二十一日の午前八時に木曽義仲の軍が篠原に押し寄せて鬨の声をどっと挙げる。

平家の方では畠山庄司重能(はたけやまのしょうじしげよし)、小山田(おやまだ)の別当有重(べっとうありしげ)が去る治承から今まで都に呼ばれて閉じ籠められていたのを、「汝等は年老いて経験豊富な者共である。戦の指揮をせよ」ということで、北国へ向けられた。

これら兄弟はその勢三百余騎で陣の正面に進んだ。源氏の方より、今井四郎兼平(いまいのしろうかねひら)が三百余騎で立ち向かう。

畠山、今井四郎、始めは互いに五騎、十騎づつ出し合せて勝負をさせていたが、後では両方入り乱れて戦った。

五月二十一日の正午ごろ、風が無くて草も揺るがない日照りの中、兵士どもが我こそ劣るまいと戦うと、身体からは汗が吹き出して水を流したようになる。

今井が方でも兵共が大勢滅んだ。畠山は、家子郎等の大半を討たれて、力及ばず引き退く。

語句

■横江、宮丸 石川県松任市。 ■菅生 石川県加賀市大聖寺町の菅生石部神社。加賀国ニ宮。 ■能美 石川県小松市能美町。 ■多田の八幡 石川県小松市上本折町の多田八幡神社。松尾芭蕉がおくのほそ道の旅の中、訪れている(おくのそほ道・小松)。 ■蝶屋 石川県石川郡蝶屋町。現石川県白山市美川中町あたり。手取川河口。 ■気比の社 福井県敦賀市にある気比神社。芭蕉が訪れた(おくのほそ道・敦賀)。 ■飯原 福井県敦賀市葉原。 ■平泉寺 福井県勝山市平泉寺町の平泉寺白山神社。 ■藤島 福井県藤島。 ■石橋の合戦 石橋山の合戦。治承四年八月二十三日。源頼朝が大庭景親・伊東祐親に破られた。 ■俣野五郎景久 大庭景親(巻五「早馬」)の弟。俣野は神奈川県藤沢市の地名。 ■長井斎藤別当真盛 ■斎藤別当実盛 本姓藤原氏。別当は庄司=庄園管理人。『尊卑分脈』によると実直の子で祖父実遠の猶子とも実遠の子とも。保元・平治の乱では源義朝に従った。越前の出身で、後に関東に移住。源義賢が悪源太義平に責め滅ぼされた、「大蔵合戦」の後、みなしごとなった駒王丸(木曽義仲)を信濃に逃した。(巻五「富士川」)。 ■伊藤九郎佑氏 伊東(河津三郎)祐親の子。曽我兄弟の父佑泰の弟。 ■浮巣三郎 未詳。 ■真下四郎重直 重親の弟か。武蔵国児玉郡の人。児玉党の一。 ■巡酒 各人の家を巡って酒を飲み合うこと。 ■さンなう 「さるなり」の転か。相手の言葉に同意している。 ■さすが 何といっても。 ■吉について どちらが有利かということにしたがって。 ■いかにもなろう 死を覚悟しているが、死という不吉な言葉を避けて言う。 ■あざわらッて 「あざ笑ふ」はばかにして笑う。ほかに大声で笑う説も。 ■かなびき奉らんとて 「かなびく」は刀の切れ味をためすの原義から人の真意をためすの意。 ■人々にも申しおいたり 「人々」は平家の身分の高い人々。 ■加賀国篠原  石川県加賀市篠原町。 ■辰の一点 午前七時すぎ。一時(二時間)を四分割し、そのひとつ目を一点という。 ■畠山庄司重能 武蔵国秩父の人。重忠の父。有重は重能の弟。巻五「早馬」に源頼朝が伊豆で挙兵したとき重能・有重が大番役として京にいたことが記されている。 ■ふるい者 年取った熟練の者。 ■おきてよ 「掟て」は「掟つ」の命令形。指図しろ。 ■草もゆるがず 酷暑をしめす慣用表現(巻五「文覚荒行」)。 

原文

次に平家のかたより高橋判官長綱(たかはしのはうぐわんながつな)五百余騎ですすんだり。木曾殿の方より樋口次郎兼光(ひぐちのじらうかねみつ)、落合五郎兼行(おちあひのごらうかねゆき)、三百余騎で馳(は)せ向ふ。しばしささへてたたかひけるが、高橋が勢(せい)は国々のかり武者なれば、一騎もおちあはず、われさきにとこそおちゆきけれ。高橋心はたけく思へども、うしろあばらになりければ、力及ばで引退(ひきしりぞ)く。ただ一騎落ちて行くところに、越中国(ゑつちゆうのくに)の住人入善(にふぜん)の小太郎行重(こたらうゆきしげ)、よい敵(かたき)と目をかけ、鞭鐙(むちあぶみ)をあはせて馳せ来(きた)り、おしならべてむずとくむ。高橋、入善をつかうで鞍の前輪におしつけ、「わ君は何者ぞ、名のれ、聞かう」どいひければ、「越中国の住人、入善小太郎行重(にふぜんのこたらうゆきしげ)、生年(しやうねん) 、十八歳」となのる。「あなむざん。去年(こぞ)おくれし長綱が子も今年(ことし)はあらば十八歳ぞかし。わ君ねぢきッてすつべけれども、たすけん」とてゆるしけり。わが身も馬よりおり、「しばらくみかたの勢またん」とてやすみゐたり。入善、「われをばたすけたれども、あッぱれ敵(かたき)や、いかにもしてうたばや」と思ひ居たる処(ところ)に、高橋うちとけて物語しけり。入善すぐれたるはやわざの男(をのこ)で、刀をぬき、とんでかかり、高橋が内甲(うちかぶと)を二刀(ふたかたな)さす。きる程に、入善が郎等(らうどう)三騎おくればせに来ッておちあうたり。高橋心はたけく思へども、運やつきにけん、敵(かたき)はあまたあり、いた手(で)は負うつ、そこにて遂(つひ)にうたれにけり。

又平家のかたより武蔵三郎左衛門有国(むさしのさぶらうざゑもんありくに)、三百騎ばかりでをめいてかく。源氏の方より仁科(にしな)、高梨(たかなし)、山田次郎(やまだのじらう)、五百余騎で馳(は)せむかふ。しばしささへてたたかひけるが、有国が方の勢おほくうたれぬ。有国ふか入りしてたたかふほどに、矢だね皆射つくして、馬をも射させ、かちだちになり、打物(うちもの)ぬいてたたかひけるが、敵(かたき)あまたうちとり、矢七つ八つ射たてられて立死(たちじに)にこそ死ににけれ。大将か様(やう)になりしかば、其勢(そのせい)みな落ち行きぬ。

現代語訳

次に平家の方より高橋判官長綱(たかはしのほうがんながつな)が五百余騎で進んだ。

木曾殿の方よりは樋口次郎兼光(ひぐちのじろうかねみつ)、落合五郎兼行(おちあいのごろうかねゆき)が三百余騎で馳せ向う。

平家方はしばらくは支えて戦ったが、高橋の率いる軍勢は諸国から徴集した兵士なので、一騎も源氏方との戦いの相手をせず、我先にと落ちて行った。

高橋自身は勇み立ってはいたが、後方に続く兵が少なくなってきたので、やむをえず退却する。

ただ一騎で落ちて行くところに、越中国(えっちゅうのくに)の住人(じゅうにん)入善(にゅうぜん)の小太郎行重(こたろうゆきしげ)が良い敵(かたき)と目をつけ、鞭を打ち、鐙に力を込めて馳せ来り、自分の馬を相手の馬の後方から追いつかせ横に並んでむんずと組む。

高橋は入善を掴(つか)んで鞍の前輪に押さえつけ、「お前は何者だ。名を名乗れ。聞こう」と言ったので、越中国住人(えっちゅうのくにのじゅうにん)、入善小太郎行重、生年十八歳」と名乗る。

「ああ、痛ましい事よ。去年死んでしまった長綱の子も今年生きていれば十八歳だったのだぞ。お前の首を捩じ切って捨てるところだが、助けよう」と言って許してやった。

自分も馬から降りて、「しばらく味方の軍勢を待とう」と言って腰を下ろして休んでいた。

入善は「自分を助けたけれども、ああ、すばらしい敵だ。どうにでもして討ちたいものだ」と思い、その場に座ると、高橋が打ち解けていろいろと話しかけて来た。

ところが、入善は体の動きが敏捷で、この機会を逃さず、刀を抜き、高橋に飛びかかってその甲(かぶと)の内側を二回刺す。

そうこうしていると、入善の郎等三騎が遅ればせに来て落ち合った。

高橋は気持ちは勇み立つが、運が尽きたのだろうか、敵は多く、痛手を負って、その場で遂に討たれてしまった。

又平家の方から武蔵三郎左衛門有国(むさしのさぶろうざえもんありくに)が三百騎ばかりで大声を上げながら馳せて来る。

源氏の方より仁科(にしな)、高梨(たかなし)、山田次郎(やまだのじろう)の三人が五百余騎で馳せ向う。

平家方は、しばらく支えて戦ったが、有国が方の兵士どもは多くが討たれた。

有国は深入りして戦いつていたが、矢を皆射尽くして、馬をも射られ、徒歩になって、刀を抜いて戦ったが、敵を大勢討ち取り、矢を七つ八つ射立てられて、立ったままの姿で死んでしまった。

大将がこのようになったので、その勢をなしていた兵士どもは皆落ちて行った。

語句

■落合五郎兼行 今井四郎兼平の弟。岐阜県中津川市落合の人。 ■おちあはず 「おちあふ」は戦う。相手になる。 ■あしろあばらになりければ 「あばら」は軍勢がおらず隙間だらけであること。 ■入善の小太郎行重 富山県下新川郡入善の人。 ■鞭鐙をあはせて 鞭で馬の尻を叩き、同時に鐙で馬の腹を蹴り、馬を疾走させること。 ■内甲 顔のこと。 ■立死にこそ死ににけれ 「立死に」は立ったまま死ぬこと。『義経記』に弁慶の立ち往生が有名。

朗読・解説:左大臣光永