【夕顔 09】源氏、夕顔に心惹かれる

女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例ならず下《お》り立ち歩きたまふは、おろかに思《おぼ》されぬなるべしと見れば、わが馬《むま》をば奉りて、御供に走り歩《あり》く。「懸想人《けさうびと》のいとものげなき足もとを見つけられてはべらん時、からくもあるべきかな」などわぶれど、人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては顔むげに知るまじき童《わらわ》ひとりばかりぞ、率《ゐ》ておはしける。もし思ひ寄る気色もやとて、隣に中宿《なかやどり》をだにしたまはず。女も、いとあやしく心得ぬ心地のみして、御使に人を添へ、暁の道をうかがはせ、御ありか見せむと尋ぬれど、そこはかとなくまどはしつつ、さすがにあはれに、見ではえあるまじく、この人の御心に懸りたれば、便なくかろがろしき事と思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。

かかる筋は、まめ人の乱るるをりもあるを、いとめやすくしづめたまひて、人の咎めきこゆべきふるまひはしたまはざりつるを、あやしきまで、今朝のほど昼間の隔てもおぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつはいともの狂はしく、さまで心とどむべき事のさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましく柔らかに、おほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず、いとやむごとなきにはあるまじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞと、かへすがへす思す。

いとことさらめきて、御装束《さうぞく》をもやつれたる狩の御衣を奉り、さまを変へ、顔をもほの見せたまはず、夜深《よぶか》きほどに、人をしづめて出で入りなどしたまへば、昔ありけん物の変化《へんげ》めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の御けはひ、はた手さぐりにもしるきわざなりければ、誰ばかりにかはあらむ、なほこのすき者のしいでつるわざなめりと、大夫《たいふ》を疑ひながら、せめてつれなく知らず顔にて、かけて思ひ寄らぬさまに、たゆまずあざれ歩《あり》けば、いかなることにかと心得がたく、女ががたもあやしうやう違《たが》ひたるもの思ひをなむしける。

君も、かくうらなくたゆめて這ひ隠れなば、いづこをはかりとか我も尋ねん、かりそめの隠れ処《が》とはた見ゆめれば、いづ方《かた》にも、いづ方にも、移ろひゆかむ日を何時《いつ》とも知らじと思《おぼ》すに、追ひまどはして、なのめに思ひなしつべくは、ただかばかりのすさびにても過ぎぬべきことを、さらにさて過ぐしてんと思されず。人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、いと忍びがたく苦しきまでおぼえたまへば、なほ誰となくて二条院に迎へてん、もし聞こえありて、便なかるべき事なりとも、さるべきにこそは。わが心ながら、いとかく人にしむことはなきをいかなる契りにかはありけんなど、思ほしよる。「いざ、いと心やすき所にて、のどかに聞こえん」など、語らひたまへば、「なほあやしう。かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」と、いと若びて言へば、げにとほほ笑《ゑ》まれたまひて、「げに、いづれか狐なるらんな。ただはかられたまへかし」と、なっかしげにのたまへば、女もいみじくなびきて、さもありぬべく思ひたり。世になくかたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心はいとあはれげなる人、と見たまふに、なほかの頭中将の常夏《とこなつ》疑はしく、語りし心ざままづ思ひ出でられたまへど、忍ぶるやうこそはと、あながちにも問ひ出でたまはず。気色《けしき》ばみて、ふと背き隠るべき心ざまなどはなければ、かれがれにと絶えおかむをりこそは、さやうに思ひ変ることもあらめ、心ながらも、少し移ろふことあらむこそあはれなるべけれ、とさへ思しけり。

現代語訳

惟光は、源氏の君が、この女(夕顔)が、どこの誰とも詮索なさらず、ご自身も名乗られないで、そこまでしなくてもいいというほど見すぼらしいなりをお作りになって、ふだんは御車なのに、馬から下りて歩いていらっしゃる。そこまでされるのはいい加減なお心ではないのだろうと見えるので、惟光は、自分の馬を源氏の君に差し上げて、お供をして走っていく。

(惟光)「色男が、たいそう見すぼらしい足元を、あの家の者に見つけられましたら、辛いでしょうなあ」などこぼすが、源氏の君は、人にお知らせにならないために、あの夕顔の手引をした随身だけと、きっとあの家の者がまったく顔を知らないだろう童一人だけを連れていらした。

ひょっとして感づかれることもあろうかと、隣の家(尼君の家)にお立ち寄りにもならず、直接女の家に行かれる。

女(夕顔)も、たいそう不思議で、納得できない心地ばかりがして、文使いを人につけさせたり、暁の道を帰っていく道をさぐらせて、御すまいを見ようと探らせたが、男(源氏の君)はどこに行ったかわからなくなり行方をくらませながら、そうはいってもやはり女に心惹かれ、逢わずにはいられないほど、この女が御心にかかって離れないので、つまらない軽々しいことだと思い返してお苦しみになりながら、たいそう頻繁にお通いになる。

このような色恋の道においては、まじめな人が取り乱すこともあるが、源氏の君はたいそう無難に自重なさって、人がお咎め申し上げるようなふるまいはなさらなかったのだが、不思議なほど、女と別れた後の朝の時間も、昼の間逢えないことも、気になるほど、心苦しく思われるので、一方ではたいそう狂っている感じで、そこまで心をとめるような事柄でもなかろうと、たいそう頭を冷やそうとなさるが、女の気配は、ほんとうにおどろくほどに柔らかで、鷹揚であって、深く重みがあるというのには足りないが、ひたすらに若々しくはあるが、男女の仲をまだ知らないでもない、たいして高貴な身分でもあるまいに、あの女のどこにこうも心ひかれるのかと、源氏の君は返す返す思われる。

源氏の君は、それはもうわざとのように、御装束もやつれた狩衣をお召しになり、変装して、顔もちらりともお見せにならず、夜が深い時分に、人が寝静まるのを待って、出入りなどなさるので、昔あったという物の怪めいて、女は残念に思い嘆かれるが、人の御けはい、それはまた、手さぐりでもはっきりわかることだったので、どれほどの者かしら、やはりこの伊達者のしでかしたことだろうかと、大夫(惟光)を疑いながら過ごしていたが、その惟光は、強いて冷淡で知らず顔をして、まったく気にかけていないさまで、絶えずふざけまわっているので、どうしたことかと心得がたく、女のほうも不思議でいつもと違うもの思いをしたのであった。

源氏の君も、女(夕顔)がこのように無邪気そうにしてこちらを油断させておいて、そっと姿を消してしまったら、自分も、どこを目当てに探したらよいのか、仮の隠れ家ともまた見えるようだから、どこへでも、どこへでも、移ってしまう日もいつとも知れないと思われるにつけ、追いかけても行方がわからなくなって、それで世間並みの女と思ってしまえるなら、ただこの程度のお遊びで過ぎてしまうだろうことを、まったくそうしてすましてしまおうというは思われない。

人目を気にされて、通うことが途絶えがちな夜夜などは、たいそう我慢ができず苦しいまでにお思いになるので、やはり自分のことを誰とも知らせずに、二条院に迎えよう、もし世間の噂になって、具合のわるいことになっても、前世からそうなる運命だったのだろう。

わが心ながら、ここまでひどく人に執着することはないのに、いかなる前世からの契りであろうかなど、源氏の君は思われる。

(源氏)「さあ、とても気軽な所で、のんびりお話しましょう」など源氏の君が女に語らいなさると、(女)「やはり変です。このようにおっしゃいますが、世間並でない御もてなしなので、なんとなく恐ろしいです」と、たいそう子供じみて言えば、源氏の君は、ほんとうにそうだと、微笑みなさって、(源氏)「まったく、どちらが狐なのだろうな。ただ化かされなさってください」と、親しげにおっしゃると、女もすっかり言いなりになって、それもいいと思っている。

ひととおりでなく見苦しいことでも、ひたすらに従う心はたいそう可愛い女だと、源氏の君は御覧になるにつけて、やはりあの、頭中将の常夏の女ではないかと疑わしく、頭中将が語った、女の気質も、まっさきに思い出されるが、隠すようにしているのだからと、むやみに聞き出そうとはなされない。

この女(夕顔)には、思わせぶりをして、ふと男に背いて身を隠すような気質などはないので、なかなか訪れることのできず、それが度をこすような時は、(頭中将のもとから突然消えたように)そんなふうに考えの変わることもあるだろうが、我ながら、少し他の女に浮気することがあるような時こそ、(女が悩むだろうから)この女がいっそう可愛く思えるだろうとさえ、お思いになるのだった。

語句

■女 夕顔。 ■さして 指して。誰それと名指して。 ■その人と 源氏は、女が頭中将の話にあった常夏の女と疑いはじめているが、女に警戒されないよう自身の疑いを隠している。 ■名のりをしたまはで 夕顔は男が源氏の君であることを知らない。暗闇の中で、お互いの素性を知らないまま、情事を重ねているのである。 ■わりなく 理由がない。そこまでしなくてもいいというほど。 ■例ならず 貴人は牛車で移動するのが常。しかし源氏は身分を隠すために馬で訪れ、夕顔の家近くで下馬する。 ■懸想人 惟光は夕顔つきの女房と恋仲になっている。 ■かの夕顔のしるべせし随身 前に「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる」と言った随身。 ■隣 夕顔の家の隣の、尼君(惟光の母)の家。訪れると源氏が来たことがばれるから、避けたのである。 ■ことさらめきて  わざとのように。わざとらしく。 ■奉り 「奉る」は「着る」の敬語。 ■物の変化 三輪の大物主神が正体をかくしてイクタマヨリビメのもとに通った神話など。 ■大夫 五位の官人。惟光のこと。 ■せめて 無理に。強いて。 ■かけて 下に打ち消し語をともなって「まったく~しない」。 ■あざけ歩けば 「あざれ歩く」はふざけまわる。 ■うらなく 「心なし」は無邪気に。疑いなく。 ■たゆめて 「たゆむ」は油断させる。 ■這ひ隠れて 「這ひ」はそっと。接頭語。 ■はかり 目標。目当て。 ■追ひまどはして 追いかけても行方がわからなくなって。 ■さるべきにこそは 下に「あらめ」を省略。前世からのこうなる運命だったのだろう。 ■世づかぬ 世間並とはちがう。普通と違う。 ■若びて 「若ぶ」は子供っぽくふるまう。 ■語りし心ざま 「さらばこの人こそはと、事にふれて思へるさまも、らうたげなりき」(【帚木08】)。 ■気色ばみて 「気色ばむ」は思わせぶりをする。 ■さやうに思ひ変わること 常夏の女がふっと姿を隠して、頭中将の前から消えたこと(【帚木08】)。 ■

朗読・解説:左大臣光永

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