【夕顔 11】源氏、夕顔を廃院に連れこむ

いさよふ月にゆくりなくあくがれんことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲がくれて、明けゆく空いとをかし。はしたなきほどにならぬさきにと、例の急ぎ出でて、軽《かろ》らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしヘなく木暗《こぐら》し。霧も深く露けきに、簾《すだれ》をさへ上げたまへれば、御袖《そで》もいたく濡れにけり。「まだかやうなる事をならはざりつるを、心づくしなることにもありけるかな。

いにしへもかくやは人のまどひけんわがまだ知らぬしののめの道

ならひたまへりや」と、のたまふ。女恥ぢらひて、

山の端《は》の心もしらでゆく月はうはのそらにて影や絶えなむ

細く」とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、かのさし集《つど》ひたる住まひのならひならんと、をかしく思す。

御車入れさせて、西の対に御座《おまし》などよそふほど、高欄《かうらん》に御車ひき懸けて立ちたまへり。右近艶《えん》なる心地して、来《き》し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営《けいめい》し歩《あり》く気色に、この御ありさま知りはてぬ。

ほのぼのと物見ゆるほどに、下《お》りたまひぬめり。かりそめなれど、きよげにしつらひたり。「御供に人もさぶらはざりけり、不便《ふびん》なるわざかな」とて、陸《むつ》ましき下家司《しもげいし》にて、殿にも仕うまつる者なりければ、参り寄りて、「さるべき人召すべきにや」など申さすれど、「ことさらに人来《く》まじき隠れ処《が》求めたるなり。さらに心より外《ほか》に漏らすな」と、口がためさせたまふ。御粥《かゆ》など急ぎまゐらせたれど、取りつぐ御まからなひうちあはず。まだ知らぬことなる御旅寝に、息長川《おきなががわ》と契りたまふことよりほかのことなし。

日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見わたされて、木立いと疎ましくもの古りたり。け近き草木などはことに見所なく、みな秋の野らにて、池も水草《みくさ》に埋もれたれば、いとけうとげになりにける所かな。別納《べちなふ》の方にぞ曹司《ざうし》などして人住むべかめれど、こなたは離れたり。「けうとくもなりにける所かな、さりとも、鬼なども我をば見ゆるしてん」とのたまふ。顔はなは隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、げにかばかりにて隔てあらむも事のさまに違《たが》ひたりと思して、

「夕露に紐とく花は玉ぼこのたよりに見えしえにこそありけれ

露の光やいかに」と、のたまへば、後目《しりめ》に見おこせて、

光ありと見し夕顔の上露《うはつゆ》はたそかれ時の空目《そらめ》なりけり

と、ほのかに言ふ。をかしと思しなす。げに、うちとけたまへるさま、世になく、所がらまいてゆゆしきまで見えたまふ。「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」と、のたまへど、「海人《あま》の子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。「よし、これもわれからなめり」と、恨み、かつは語らひ暮らしたまふ。

惟光尋ねきこえて、御くだものなど参らす。右近が言はむこと、さすがにいとほしければ、近くもえさぶらひ寄らず。かくまでたどり歩《あり》きたまふ、をかしう、さもありぬべきありさまにこそはと推しはかるにも、「わがいとよく思ひ寄りぬベかりしことを、譲りきこえて、心広さよ」など、めざましう思ひをる。

たとしへなく静かなるタ《ゆふべ》の空をながめたまひて、奥の方《かた》は暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾《すだれ》を上げて添ひ臥したまへり。夕映えを見かはして、女もかかるありさまを思ひの外にあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れてすこしうちとけゆく気色、いとらうたし。つと御傍《かたはら》に添ひ暮らして、物をいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。格子とく下したまひて、大殿油《おほたなぶら》まゐらせて、「なごりなくなりにたる御ありさまにて、なほ心の中の隔て残したまへるなむつらき」と、恨みたまふ。内裏《うち》にいかに求めさせたまふらんを、いづこにも尋ぬらんと思しやりて、かつはあやしの心や、六条わたりにもいかに思ひ乱れたまふらん、恨みられんに苦しうことわりなりと、いとほしき筋はまづ思ひきこえたまふ。何心もなきさし向ひをあはれと思すままに、あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばやと、思ひくらべられたまひける。

現代語訳

なかなかその姿を隠さない月に、思いがけず浮かれ歩くことを、女はためらっているので、源氏の君はあれこれ説得なさっているうちに、にわかに月が雲にかくれて、明けていく空はたいそうしみじみと趣深い。

見苦しいほどに明るくなる前にと、いつものように急いでご出発なさって、女を軽やかに御車にお乗せになったので、右近が付き添って乗った。

そのあたりに近いなにがしの院にお着きになって、院の管理人を召し出している間に、荒れた門の忍草が生い茂っているのが、見上げると自然と目に入ってきて、たとえようもなく木が茂っていて暗い。

霧も深く露も多い中に、簾までもお上げになっているので、御袖もひどく濡れてしまった。

(源氏)「まだこのようなことに慣れていませんのですが、気苦労なことでもあったことよ。

いにしへも…

(昔もこのように人はとまどったのだろうか。私がまだ知らなかった夜明けの道で)

あなたは経験がおありですか」と、源氏の君はおっしゃる。女(夕顔)は恥ずかしがって、

(女)山の端の…
(山の端の気持ちも知らずに、その山の端めざして傾きゆく月は、空の中ほどで、正気を失って、消えてしまうのでしょうか)

心細くて」といって、なんとなく恐ろしく気味悪そうにしているので、あのような、人が密集した住まいに慣れているためだろうかと、源氏の君はおもしろく思われる。

御車を邸内に入れさせて、西の対に御座所など用意しているうちに、高欄に御車の轅をひきかけてお待ちになっていらっしゃる。

右近は艶っぽい気持ちがして、過去のことなども、人知れず思い出すのだった。管理人がとても忙しく立ち働いて君のために世話をしてまわっている様子に、この方(源氏の君)のご身分を、すっかり知ってしまった。

あたりがぼんやりと物が見えるほど明るくなってきた頃に、車からお降りになったようだ。仮の御座所ではあるが、さっぱりと準備をととのえてある。

(院の管理人)「御供に人もございません。不便なことですよねる」といって、この男は源氏の君と昵懇の下家司《しもげいじ》で、左大臣家にもお仕え申し上げる者であるので、源氏の君の近くに参り寄って、(院の管理人)「しかるべき人をお召ししましょうか」など、右近を介して源氏の君に申し上げるが、(源氏)「わざわざ人が来ないような隠れ処をさがしたのだ。このことはお前の心ひとつの中にとどめて、けして外に漏らすな」と、口止めをさせなさる。

御食事など急いで差し上げるが、取次の人が足りない。まだ知らぬことである御旅寝に、古歌にある「息長川」のように、いつもでも二人の仲が続くようにとお約束になるよりほかはない。

日が高くなる頃にお目覚めになって、格子をご自分でお上げになる。庭はたいそうひどく荒れて、人目もなくはるばると見渡されて、木立がほんとうに気味が悪いほど古びている。

近くの草木などはとくに見ばえせず、みな歌にある「秋の野ら」であって、池も水草に埋もれているので、たいそうて気味悪げになった所であるよ。

別棟の建物の方に部屋などもって人が住んでいるようだが、こちらとは離れている。

(源氏)「気味悪くもなった所だな。そうはいっても、鬼なども私を見たら許すだろう」とおっしゃる。

顔はそれでもやはりお隠しになっているが、女が、源氏の君をひどく恨めしいと思っているので、まったく、ここまでの関係になっておいて、隔てがあるようなのも事のなりゆきに反していると思われて、

(源氏)「夕露に…

(夕の露に濡れて開く花のように、私は覆面をはずして素顔を御覧にいれましょうこれもあの五条で通りすがったことの、御縁なのでしょう)

露の光はいかがですか?」とおっしゃると、女は流し目で源氏の君のほうを見て、

光ありと…

(美しいと見ていた夕顔の上の露は、夕暮れ時の見間違いでしたよ)

と、ほのかに言う。源氏の君は、おもしろいとお思いになる。実にまったく、くつろいでいらっしゃる源氏の君のごようすは、たぐいもなく、場所が場所だけに、いっそう恐ろしいまでにお見えになる。

(源氏)「貴女がいつまでも隠し立てなさることが恨めしいので、私も正体をあかすまいと思っていましたのに。今となってはもう、こうまでなったのですから、お名のりください。ひどく君が悪いですよ」とおっしゃるが、(女)「海人の子ですから」といって、やはり打ち明けないさまは、たいそう甘えている。(源氏)「まあいいでしょう。これも私のせいでしょうから」と、一方では恨み言を言い、また一方では睦まじく語りあったりして一日中お過ごしになる。

惟光が源氏の行く先を探しあてて、菓子などを差し上げる。もし源氏の君と自分の関係がばれた場合、右近が恨み言を言うだろうことが、やはり気の毒なので、惟光は源氏の君のおそば近くに寄ってお仕えすることができない。

ここまで源氏の君がたどり歩きなさることが、惟光はおもしろく、そうなるのも当然なほど、いい女なのだろうと推しはかるにつけても、「私がその女に熱心に思いを寄せることもできたのに。源氏の君にお譲り申し上げるとは…私は心が広いなあ」など、惟光はあきれたことを考えている。

たとえようがないほど静かな夕方の空を、ぼんやり御覧になって、奥の方は暗くて気味が悪いと、女は思っているので、部屋の端の簾を上げて添い寝なさっているる

夕焼けに映るお互いの顔の美しいことをお互いに見て、女もこのようなようすを思いの外に不思議な気持ちはしながら、あらゆる嘆きを忘れてすこしうちとけている様子はねとてもかわいい。

ぴったりと源氏の君の御そばに一日中寄り添っていて、何かたいそう恐ろしいと思っているようすは、子供ぽくて心配だ。

源氏の君は格子をはやい時間から下ろされて、灯をつけさせなさって、(源氏)「残り無くお互いに知り合った関係になったご様子で、それでもやはり心の中の隔てを残されているのが辛いです」と恨み言を言われる。

内裏ではどれほど自分のことを探しているだろうに、あちこち探し回っているだろうと源氏の君はご想像されるが、一方ではわれながら不思議な心であることよ、こんな素性もわからない女に心惹かれるとは…六条の御方も、どれほど思い乱れていらっしゃるだろう、恨まれても、それは苦しいが当然のことなのだと、お気の毒な筋の方としては真っ先に六条の御方を思い出し申し上げる。

源氏の君は、この女(夕顔)が、何の心もなく差し向かっているのを好ましいと思われるままに、六条の御方があまりにも心深く、見る人も苦しいほどの御ありさまなのを、すこし取り捨てたらどうかと、この女(夕顔)と六条の御方を、心の中で比較される。

語句

■いさよふ ぐずぐずして進みかねる。ためらう。なかなか、こうと行動の方向性を決められない。 ■ゆくりなく 思いがけず。 ■あくがれんことを 「あくがる」は浮かれ歩く。さまよい歩く。 ■やすらひ 躊躇する。 ■なにがしの院 河原院がモデルという説、千種殿がモデルという説がある。河原院は源融が陸奥国塩釜の景色を再現して造らせた壮大な別荘。六条坊門の南、万里小路の東にあった。現在、下京区都市町に案内板がある。また、東本願寺の飛び地境内渉成園が河原院の跡地という説も。 ■預り 院を預かり管理する者。管理人。 ■心づくし 気苦労。 ■山の端の… 山の端に源氏を、ゆく月に夕顔をたとえる。「うはのそら」は中空と、正気を失って、の意を掛ける。「影や絶えなむ」は、夕顔の死を暗示。 ■かのさし集ひたる住まひのならひ… 夕顔は人が多くごちゃごちゃした界隈の家に身を隠している。だから「某の院」のような静かで落ち着いたところは恐ろしく感じるのだ、と源氏は考えている。 ■立ちたまへり 「立つ」は車をとめて待っている。 ■艶なる心地 艶っぽい気持ち。色恋の現場に居合わせることの高揚感。 ■来し方 頭中将が夕顔のもとに通っていた頃のこと。 ■経営 「けいえい」の転。忙しく立ち働いて世話をすること。 ■知り果てぬ すっかり知った。完全に理解した。夕顔のもとに通っていた正体不明の男が源氏の君であることを。 ■下家司 家司は親王・摂関(せつかん)・大臣および三位(さんみ)以上の家などで家政をつかさどる者。四位・五位の者が当たり、六位以下の者は下家司という。 ■粥 米を炊いたもの。 ■まかなひ 「まかなふ」は支度する。食事をととのえる。また、それをする人。 ■まだ知らぬことなる旅寝 直前の源氏の歌の「まだ知らぬしののめの道」を受ける。 ■息長川 「にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむこと尽きめやも」(万葉4458 馬史国人)。「にほ鳥」は「息長川」の枕詞。カイツブリ。たとえ息長川が絶えてしまってもあなたと語り合いたいことが尽きるだろうか。尽きない。水にもぐって魚を獲るため息が長いため。息長川は近江国坂田郡にあったという川。現在のどの川に当たるかは不明。 ■疎ましく 「疎まし」はいやな感じだ。気味が悪い。 ■秋の野ら 「仁和の帝、親王(みこ)におはしましける時、布留(ふる)の滝御覧ぜむとておはしましける道に、遍照が母の家に宿り給へりける時に、庭を秋の野につくりて、御(おほん)物語のついでによみて奉りける。/里は荒れて人は古りにし宿なれや庭も籬も秋の野らなる」(古今・秋上 僧正遍昭)。野らは野や野原。 ■けうとげ 「けうとし」は恐ろしい。気味が悪い。物の怪の出現を前に、おどろおどろしさをあらわす形容詞が頻出する。 ■別納 別棟の建物。 ■鬼なども我をば見ゆるしてん 若き日の源氏の、已の地位や美貌への慢心が見て取れる。 ■夕露に… 「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」(【夕顔 03】)を受けて。「花」は源氏自身。「紐とく」は覆面をはずす。「玉ぼこ」は「道」の枕詞。また道そのもの。「え」は「縁」。 ■露の光やいかに 女の歌に「白露の光」とあったのを受ける。 ■思しなす 「なす」は強いて~する。戯れにも自分の美貌を否定されたのだから気分を害するところ、女に心惹かれるあまり、あえて「おもしろい」と思ったのである。 ■所がら このような気味の悪い所だからこそ。 ■ゆゆしきまで あまりに美しく完璧なものは鬼神に取り込められるという信仰。 ■海人の子 落ちぶれた身分であること。■あいだれたり 「あいだる」は「愛垂る」か。甘える。 ■われから 「海人のかる藻にすむ虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ」(古今・恋5/『伊勢物語』六十五)。「われから」は海に住むナナフシに似た節足動物。「自分から」の意に掛ける。 ■右近が言はむこと、さすがにいとほしければ 右近は惟光が源氏の従者であることを知らない。もしそれを知ったら、右近は騙していたと思っていろいろ恨み言を言うだろう。それを惟光は、右近が気の毒なので、源氏の君のお側に寄らず、源氏の君と自分の関係がばれないようにしている。 ■端の簾 部屋の端の簾。廂と簀子の堺に下げてある。 ■夕映え 夕焼けに映るお互いの顔を美しさ。 ■つと ぴったりと。密着しているようす。 ■心苦し きがかりだ。心配だ。気の毒だ。かわいそうだ。つらい。 ■大殿油 油の灯火。 ■あやしの心 このように素性もわからない女に心惹かれるのが我ながら意外だということ。 ■何心もなきさし向かひ 源氏は夕顔が六条の御方とくらべて「何心もない」と見る。しかし夕顔も心の内では六条の御方とも比するほどの激しい物思いをしていることは夕顔の心理描写から知れる。源氏は夕顔の物思いに気づかない。このあたり、若き日の源氏の、未熟な観察眼が、見事に描き出されている。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル