【若紫 10】源氏、都へ帰る、紫の上、源氏を慕う

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原文

御車に奉るほど、大殿より、「いづちともなくておはしましにけること」とて、御迎への人々、君たちなどあまた参りたまへり。頭中将《とうのゆうじやう》、左中弁《さたゆうべん》、さらぬ君たちも慕ひきこえて、「かうゆうの御供には、仕うまつりはべらむ、と思ひたまふるを、あさましくおくらさせたまへること」と恨みきこえて、「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、たちかへりはべらむは、あかぬわざかな」とのたまふ。岩隠れの苔の上に並みゐて、土器《かはらけ》まゐる。落ち来る水のさまなど、ゆゑある滝のもとなり。

頭中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。弁の君、扇はかならうち鳴らして、「豊浦《とよら》の寺の西なるや」とうたふ。人よりはことなる君たちを、源氏の君いといたううちなやみて、岩に寄りゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ、何ごとにも目移るまじかりける。例の、篳篥《ひちりき》吹く随身《ずいじん》、笙《さう》の笛持たせたるすき者などあり。僧都、琴《きん》をみづから持てまゐりて、「これ、ただ御手ひとつあそばして、同じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」と、せちに聞こえたまへば、「乱り心地いとたへがたきものを」と聞こえたまヘど、けにくからず掻き鳴らして、みな立ちたまひぬ。

あかず口惜《くちを》しと、言ふかひなき法師童《わらは》べも、涙を落しあへり。まして内には、年老いたる尼君たちなど、まださらにかかる人の御ありさまを見ざりつれば、「この世のものともおぼえたまはず」と聞こえあへり。僧都も、「あはれ、何の契りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日本《ひのもと》の末の世に、生まれたまへらむ、と見るに、いとなむ悲しき」とて、目おし拭《のご》ひたまふ。

この若君、幼心地に、めでたき人かなと見たまひて、「宮の御ありさまよりも、まさりたまへるかな」などのたまふ。

「さらば、かの人の御子になりておはしませよ」と聞こゆれば、うちうなづきて、いとようありなむ、と思したり。雛《ひひな》遊びにも、絵描いたまふにも、源氏の君と作り出でて、きよらなる衣《きぬ》着せ、かしづきたまふ。

現代語訳

源氏の君が御車にお乗りになる時、左大臣殿から、「どこということもなくお出かけになられたことで」といって、。御迎えの人々、左大臣家の子息たちなど大勢参られた。

頭中将、左中弁、そのほかの君たちも源氏の君をお慕い申し上げて、(君達)「このような御供には、お仕え申し上げましょうと思ってございますのを、心外にも、お見捨てになりましたこと」とお恨み申し上げて、(君達)「とても素晴らしい花の蔭に、すこしもゆっくりしないで、都に帰りますのは、物足りないことですな」とおっしゃる。

岩蔭の苔の上に並んで座って、源氏の君は、土器に酒を注いで召し上がる。落ち来る水のようすなど、風情ある滝の下である。

頭中将が、懐にしのばせていた笛を取り出して、吹きすましている。弁の君が、扇をかすかに鳴らして、「豊浦の寺の西なるや」と歌う。

普通の人よりすばらしい君たちであるが、源氏の君がたいそうひどく悩ましげに、岩に寄りかかって座っていらっしゃるのは、他に類もなく恐ろしいほど美しい御ありさまなので、他の何事にも目移りしようはずもなかった。

例によって、篳篥を吹く随身や、笙の笛をもたせた好事家などがある。僧都は、琴をみづから持って参って、(僧都)「これを、ただ一曲だけお弾きになって、同じことなら、山の鳥もおどろかしたいものです」と、熱心に申し上げるので、「気分がわるくつらいのですが」と申し上げなさるが、そっけなくならない程度には鳴らして、みなお立ちになられた。

これだけでは満足できない、物足りないと、物の数でもない法師や童たちも、涙を落としあった。まして部屋の奥では、年老いた尼君たちなどが、まだまったく、このような素晴らしい人の御ありさまを見たことがないので、「この世の人とも思われません」と口々に申し上げている。

僧都も、「ああ、何の契りで、このような素晴らしい御姿のまま、たいそうやっかいな日本の末の世に、お生まれになったのだろう、と見るに、たいそう悲しいこと」といって、目をお拭いになる。

この若君(紫の上)は、幼い心に、素晴らしい人だなと御覧になって、「兵部卿宮(紫の上の父)の御ありさまよりも、勝っていらっしゃいますこと」などとおっしゃる。

(女房)「それならば、あの人の御子におなりなさいな」と申し上げると、うなづいて、そうなればきっと素晴らしいに違いないと、お思いになっている。

雛遊びにも、絵を描かれるにも、源氏の君として作り出して、美しい着物を着せて、大切になさっている。

語句

■御車に奉る 貴人を御車に乗せて差し上げる。貴人の側からいうと「お乗りになる」。 ■君たち 左大臣家の子息たち。 ■左中弁 夕顔巻に登場した蔵人弁(【夕顔 14】)。頭中将の異母兄弟。左中弁は左弁局の次官。 ■さらぬ 「さあらぬ」の略。上に「頭中将、左中弁」とあるので、それ以外の左大臣家の子息ら。 ■あさましく 心外にも。 ■おくらせたまへること 「おくらす」はここでは、見捨てること。 ■土器まゐる 「土器」は酒をそぞく素焼きの盃。「まゐる」は目下の者が盃を「差し上げる」。目上の者にとっては「召し上がる」。 ■吹きすましたり 「吹きすます」は澄んだ音色で吹くこと。頭中将や弁の君の動作には通常、敬語を使うところだが、源氏との対比で敬語を使っていないらしい。 ■豊浦の寺の西なるや 「葛木(かづらき)の、寺の前なるや、榎(え)の葉井に、白璧沈(しらたましづ)くや、真白璧沈くや、おおしとど、おしとど、しかしてば、国ぞ栄えむや、我家(わいへ)らぞ、富せむや、おおしとど、としとんど、おおしとんど、おおしとんど、としとんど」(催馬楽・葛城)。 ■篳篥 竹製の管楽器。全長18センチくらいで表に七つ、裏に二つ穴がある。youtubeで「篳篥 雅楽」と検索してください。 ■笙の笛 長短17本の竹の管を環状に立て並べ、吹口から息を吹き込んで鳴らす楽器。縦に長い。youtubeで「笙 雅楽」と検索してください。 ■琴 七弦で琴柱(ことじ)のない琴。 ■けにくからず 「気にくし」はそっけない、愛想がない。 ■雛遊び 人形遊び。

朗読・解説:左大臣光永

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