【賢木 28】源氏、出家した藤壺に拝謁

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原文

故院の皇子《みこ》たちは、昔の御ありさまを思し出づるに、いとどあはれに悲しう思されて、みなとぶらひきこえたまふ。大将は立ちとまりたまひて、聞こえ出でたまふべき方もなく、くれまどひて思さるれど、などかさしも、と人見たてまつるべければ、親王《みこ》など出でたまひぬる後《のち》にぞ、御前《おまへ》に参りたまへる。

やうやう人静まりて、女房ども、鼻うちかみつつ、所どころに群れゐたり、月は隈《くま》なきに、雪の光りあひたる庭のありさまも、昔の事思ひやらるるに、いとたへがたう思さるれど、いとよう思ししづめて、「いかやうに思し立たせたまひて、かうにはかには」と聞こえたまふ。「今はじめて思ひたまふる事にもあらぬを。もの騒がしきやうなりつれば、心乱れぬべく」など、例の命婦《みやうぶ》して聞こえたまふ。御簾《みす》の内のけはひ、そこら集ひさぶらふ人の衣《きぬ》の音なひ、しめやかにふるまひなして、うち身じろきつつ、悲しげさの慰めがたげに漏り聞こゆるけしき、ことわりにいみじと聞きたまふ。風はげしう吹きふぶきて、御簾の内の匂ひ、いともの深き黒方《くろばう》にしみて、名香《みやうが》の煙《けぶり》もほのかなり。大将の御匂ひさへ薫りあひ、めでたく、極楽思ひやらるる世のさまなり。春宮《とうぐう》の御使も参れり。のたまひしさま思ひ出できこえさせたまふにぞ、御心強さもたへがたくて、御返りも聞こえさせやらせたまはねば、大将ぞ言《こと》加へ聞こえたまひける。

誰《たれ》も誰も、あるかぎり心をさまらぬほどなれば、思すことどももえうち出でたまはず。

「月のすむ雲ゐをかけてしたふともこのよのやみになほやまどはむ

と思ひたまへらるるこそ、かひなく。思し立たせたまへるうらやましさは、限りなう」とばかり聞こえたまひて、人々近うさぶらへば、さまざま乱るる心の中《うち》をだに、え聞こえあらはしたまはず、いぶせし。

「おほかたのうきにつけてはいとへどもいつかこの世を背きはつべき

かつ濁りつつ」など、かたへは御使の心しらひなるべし。あはれのみ尽きせねば、胸苦しうてまかでたまひぬ。

現代語訳

故院の皇子たちは、昔の中宮の御ようすを思い出しなさるにつけ、ひどくしみじみと悲しくお思いになって、どなたもみな中宮にお見舞いのお言葉をおかけになる。

大将(源氏の君)は席におとどまりになって、何を申し上げようもなく、呆然とした思いでいらっしゃるが、どうしてそんなにまで、と人が見咎めるだろうから、親王たちなどが退出してしまった後で、中宮の御前に参上なさる。

しだいに人の気配が静まって、女房たちは鼻をかみつつ、あちこちに群れをなして座っている、月は欠けたところもなく、雪がそれに反射しあっている庭のようすも、昔の事が自然と思い出されるので、源氏の君は、実に耐え難くお思いになるが、なんとかやっとお気持ちを抑えなさって、(源氏)「どのようにご決心なさって、こんなにも急にご出家を」と申し上げなさる。

(藤壺)「今はじめて決めた事でもありませんのに。先刻は騒々しい有様でしたので、決心が揺るがないようにと」など、例によって王命婦を介してお答えになられる。

御簾の内の気配、そこらに集まり控えている人々の衣擦れの音、しめやかにするよう気を配って、身じろぎしつつ、いかにも悲しげなお気持ちが慰めがたそうに外まで漏れ聞こえる。そのようすを、源氏の君は、いかにももっともだと、悲しくお聞きになる。

風が激しく吹き付けて、御簾の内の香の匂いは、とても奥ゆかしい黒方の香がしみこんで、仏前の名香の煙もほのかに漂っている。

大将(源氏の君)の御袖にたきしめた御香の匂いまでも薫りあって、そのすばらしさは、現世でありながら極楽が自然と思いやられるありさまである。

東宮の御使いも参られた。中宮は、先日東宮がおっしゃられたようすを思い出し申し上げなさるにつけても、お心の強さも耐え難くて、お返事もおできにならないので、大将(源氏の君)が、言葉を添えて申し上げなさった。

誰もみな、その場のすべての人が心が動揺している折なので、源氏の君は、お思いになっているさまざまな事も、お言い出しになれない。

(源氏)「月のすむ…

(月の澄む空を心にかけて、私も貴女の後を追って出家したくも思いますが、わが子恋しさゆえの心の闇にやはり迷うことでしょう)

と存ぜられますのが、ふがいないことです。ご発心なさった事のうらやましさは、限りもございません」とだけ申し上げなさって、人々が中宮の近くに控えているので、源氏の君は、さまざまに思い乱れる心の内をさえ、言葉に出して言い出すことがおできにならず、胸がふさがる思いであられた。

(藤壺)「おほかたの…

(この世の大概のことがつらくなったので出家いたしましたが、いつになったら本当の意味でこの世への執着…子ゆえの心の闇からすっかり解き放たれるのでしょうか)

一方では出家した身でありながら、また一方では煩悩にまみれて…」などとある。中宮方からのこのご返事は、取次の御使の者が心遣いして、源氏の君にお伝え申し上げるのだろう。

しみじみ悲しいことばかり尽きないので、源氏の君は、胸を苦しくしてご退出なさる。

語句

■とぶらいきこえたまふ 「とぶらふ」は見舞いの言葉を言う。 ■などかさしも 源氏は藤壺出家ときいて茫然自失となり、席から立ち上がることさえできない。その様子を人に気取られては、源氏と中宮の関係を憶測する者も出てくるかもしれない。だから源氏は、その場でではなく、皇子たちが退出後、藤壺に拝謁するのである。 ■月は隈なきに 十月二十日の月は満月にちかく冴え渡っている。 ■雪の光あひたる 月の光が雪に反射して冷たい光を放っている。 ■にはかには 下に「背かせたまふ」などを省略。言葉を途中で切るのは源氏の動揺をあらわす。 ■もの騒がしきやうなれば 藤壺出家の事をきいて人々が動揺したこと。 ■例の命婦 王命婦。藤壺つきの女房。源氏と藤壺の間をとりもつ。 ■黒方 くろばう。香の名。沈香・丁字香・甲香・麝香・白檀香などを練り合わせたもの。 ■名香 仏前に捧げる薫香。 ■極楽思ひやらるる世のさま 「世」=現世と「極楽」を対照的に配したか。 ■のたまひしさま 母宮が出家の意向をほのめかした時、東宮は幼さから真意が理解できず、「式部のやうにや」と仰せになった(【賢木 18】)。その言葉を思い返すと母宮はしみじみと胸にせまるのである。 ■御心強さもたへがたくて 出家をすることの硬い決心もわが子愛しさにゆらいでしまいそうになる。歌にいう、子を思うゆえの「心の闇」である。 ■月のすむ… 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰・雑 藤原兼輔)をふまえる。「すむ」は「澄む」と「住む」をかける。「月のすむ雲ゐ」は出家した藤壺のすまいをさす。「かけて」は心にかけて思うこと。「したふ」は藤壺の後を追って出家すること。「よ」は「夜」と「世」をかける。 ■かひなく 藤壺の後を追って出家したいが、子を思うとそうも決断できないかいのなさ。 ■いぶせし 「いぶせし」は胸がふさがって心が晴れないさま。うっとうしい。気がふさぐ。気づまりだ。 ■おほかたの… 「この」に「此の」と「子の」を縣ける。子ゆえに現世を断ち切ることができない苦悩を歌う。 ■かつ濁りつつ 引歌があるらしいが不明。一方では出家して尼の姿をしてはいるが、また一方では現世に執着し煩悩にまみれているということ。 ■かたへは御使の心しらひなるべし 藤壺の返事には取次の女房による手心が加えられていると述べる。歌は藤壺の作だが「かつ濁りつつ」を女房が書き加えたとする説、歌も後書きも女房作とする説、歌も後書きも藤壺作だが、それを取り次ぐ女房がなにか言葉を添えるなど、心遣いをした説などがある。

朗読・解説:左大臣光永

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