【須磨 06】源氏、朧月夜と密かに文を交わす
尚侍《ないしのかみ》の御もとに、わりなくして聞こえたまふ。「とはせたまはぬもことわりに思ひたまへながら、今はと世を思ひはつるほどのうさもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。
逢ふ瀬なきなみだの川に沈みしや流るるみをのはじめなりけむ
と思ひたまへ出づるのみなむ、罪のがれがたうはべりける」。道のほどもあやふければ、こまかには聞こえたまはず。女いといみじうおぼえたまひて、忍びたまへど、御袖よりあまるもところせうなん。
涙川うかぶみなわも消えぬべし流れてのちの瀬をもまたずて
泣く泣く乱れ書きたまへる御手いとをかしげなり。いま一たび対面《たいめ》なくてやと思すは、なほ口惜しけれど、思し返して、うしと思しなすゆかり多うて、おぼろけならず忍びたまへば、いとあながちにも聞こえたまはずなりぬ。
現代語訳
源氏の君は、尚侍(朧月夜)の御もとに、無理をしてお便りを差し上げなさる。
(源氏)「お尋ねにならないのも当然と思いますが、今を最後と世をあきらめてしまう時の情けなさも辛さも、類ないことでございましたよ
逢う瀬なき…
(貴女と逢う折がなく、涙の川に沈んだことが、思えばこの身が流されることになった始まりだったでしょうか)
と思い出されますことだけが、逃れることのできない罪でございました」。
手紙を届ける道中も危ないので、詳しくは申し上げなさらない。女はたいそう悲しくお思いになって、おこらえになるが、涙が、御袖でぬぐいきれないのは、始末におえない。
(尚侍)涙川…
(涙川に浮かぶ泡のように私も消えてしまいそうです。貴方が罪ゆるされて帰京して後の逢瀬を待つこともできずに)
泣く泣く心乱れて書いていらっしゃるご手跡はとても美しげである。「もう一度お逢いしないままでお別れするのか」と思うと口惜しいが、思い返して、姫君には源氏の君のことを憎いと思う縁者が多くて、姫君も並々ならず人目をはばかっていらっしゃるので、そうむやみにご連絡もなさらずじまいとなった。
語句
■わりなくして 無理をして。朧月夜付きの女房などに無理に話をつけて、手紙を届けさせたのだろう。 ■とはせたまはぬもことわり 朧月夜は右大臣方であり、源氏との密会によって源氏が離京する原因となった。だから世間の目をはばかって文のやり取りなど本来、できない。 ■逢ふ瀬なき… 「流るる」に「泣かるる」と流罪になるの意をかける。「みを」は「水脈《みを》」と「身」をかける。「瀬」「川」「流る」「みを」は縁語。 ■罪のがれがたうはべりける この手紙が右大臣方に見つかった場合を想定して、密通の事実はなくただ朧月夜に心惹かれていただけであったと見せるためか。 ■道のほどもあやふければ 文を遣わす途中で右大臣方に奪われる危険。 ■涙川… 「水泡《みなわ》」は、朧月夜。「涙川」「みなわ」「瀬」が縁語。 ■いま一たび対面なくてや 下に「別れむ」が省略。 ■うしと思しなすゆかり 源氏のことを憎い、嫌だ、不快だと思う縁者。右大臣家の人々。弘徽殿大后、その兄藤大納言、その子頭弁など(【賢木 23】)。 ■おぼろけならず忍びたまへば 主語を朧月夜ととるが源氏ととる説も。