【須磨 18】都の人々、弘徽殿の目をはばかる 二条院の人々、紫の上に心酔
都には、月日過ぐるままに、帝《みかど》をはじめたてまつりて、恋ひきこゆるをりふし多かり。春宮はまして常に思し出でつつ、忍びて泣きたまふ、見たてまつる御|乳母《めのと》、まして命婦《みやうぶ》の君は、いみじうあはれに見たてまつる。
入道の宮は、春宮の御ことをゆゆしうのみ思ししに、大将《だいしやう》もかくさすらへたまひぬるを、いみじう思し嘆かる。御|兄弟《はらから》の皇子《みこ》たち、睦ましう聞こえたまひし上達部《かむだちめ》など、初めつ方はとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなる文《ふみ》を作りかはし、それにつけても、世の中にのみめでられたまへば、后《きさい》の宮聞こしめしていみじうのたまひけり。「朝廷《おほやけ》の勘事《かうじ》なる人は、心にまかせてこの世のあぢはひをだに知ること難うこそあなれ、おもしろき家ゐして、世の中を譏《そし》りもどきて、かの鹿を馬と言ひけむ人のひがめるやうに追従《ついしよう》する」など、あしきことども聞こえければ、わづらはしとて、絶えて消息《せうそこ》聞こえたまふ人なし。
二条院の姫君は、ほど経《ふ》るままに思し慰むをりなし。東《ひむがし》の対にさぶらひし人々も、みな渡り参りしはじめは、などかさしもあらむと思ひしかと、見たてまつり馴るるままに、なつかしうをかしき御ありさま、まめやかなる御心ばへも、思ひやり深うあはれなれば、まかで散るもなし。なべてならぬ際の人々には、ほの見えなどしたまふ。そこらの中に、すぐれたる御心ざしもことわりなりけりと、見たてまつる。
現代語訳
都では月日が過ぎるにつれて、帝をはじめ、人々が源氏の君を恋い申し上げる折が多かった。
東宮はましていつも思い出しては、ひそかにお泣きあそばす。拝見する御乳母、まして命婦の君は、たいそう不憫に拝見する。
入道の宮(藤壺)は、東宮の御ことを不吉な事態になりはしないかとばかり心配していらしたが、源氏の大将もこのように流浪の身となってしまわれたのを、ひどく心配しお嘆きになる。
御兄弟の皇子たちや、源氏の君に親しくお便りをなさっていた上達部など、はじめは源氏の君にご慰問のお手紙を差し上げなさることもあった。
しみじみと情緒ある詩文を交換しあい、その文面の中でも、源氏の君は世間の称賛をあびていらっしゃるので、后の宮(弘徽殿大后)はそのことをお耳にされて、ひどく悪しざまにおっしゃるのだった。
(大后)「朝廷から勘当された人は、思うままにこの世の食物を味わうことさえ知ることは難しいということなのに、風流な家を作って、世間の悪口を言って…あの鹿を馬と言ったよこしまな人のように追従するとは」など、良からぬことがさまざまに聞こえてきたので、煩わしいということで、まったくご連絡申し上げなさる人もいなくなった。
二条院の姫君(紫の上)は、時が経つにつれてもお気持ちが慰められるという折がない。
東の対にお仕えしていた人々も、みな西の対に渡り参ってきたはじめの頃は、なにそれほどの人でもあるまいと思っていたが、拝見し馴れてくるに従って、お優しく美しい御ようす、誠実な御気性も、思いやり深くしみじみ情があるので、去っていく者もない。並々ならぬご身分の女房たちには、ときどき直接お姿をあらわしなさる。
その人たちも、「源氏の君が多くの方々の中に、飛び抜けてお目をかけておられたのも、なるほどもっともだ」と拝見する。
語句
■春宮の御ことを 春宮の出生の秘密がばれて立場が危うくなるのではと心配する。 ■御兄弟 源氏の異母兄弟。これまで朱雀帝、帥宮、承香殿女御腹の四の皇子、弘徽殿女御腹の女一の宮、女三の宮が登場している。 ■それにつけても その文通の中で。 ■世の中にのみめでられたまへば 「のみ」は強調。 ■勘事 勘当。 ■かの鹿を馬と言ひけむ人 「趙高乱ヲ為サント欲ス。群臣ノ聴カザルヲ恐レ乃チ先ヅ験ヲ設ケ鹿ヲ持シテ二世ニ献ジテ曰ク、馬ナリト。二世笑ッテ曰ク、丞相誤レルカ、鹿ヲ謂ヒテ馬ト為スト。左右二問フ。左右皆以テ黙ス。或馬ト言ヒ、以テ趙高二阿順ス。或鹿ト言フ者アリ。高因ッテ陰《ひそ》カニ諸ノ鹿ト言フ者二中《あつ》ルニ法ヲ以テス」(史記・秦始皇本紀)。 ■東の対 源氏が住んでいた。源氏が須磨に下向した後、源氏つきの女房たちは西の対に移った(【須磨 05】)。 ■なべてならぬ際 身分の高い女房。上臈の女房。 ■ほの見え 貴婦人は滅多なことでは他人に素顔を見せない。御簾の奥深くにいるのであるが、紫の上はたまには気心を許して素顔をさらすことがあったと。 ■