【朝顔 02】源氏、朝顔の姫君を訪ねる 歌の贈答

あなたの御前《おまへ》を見やりたまへば、枯れ枯れなる前栽《せんざい》の心ばへもことに見わたされて、のどやかにながめたまふらむ御ありさま容貌《かたち》もいとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、「かくさぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうなるを、あなたの御とぶらひ聞こゆべかりけり」とて、やがて簀子《すのこ》より渡りたまふ。暗うなりたるほどなれど、鈍色《にびいろ》の御簾《みす》に、黒き御几帳《みきちやう》の透影《すきかげ》あはれに、追風《おひかぜ》なまめかしく吹きとほし、けはひあらまほし。簀子《すのこ》はかたはらいたければ、南の廂《ひさし》に入れたてまつる。

宣旨《せんじ》、対面《たいめん》して、御消息は聞こゆ。「今さらに若々しき心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労《らう》数へられはベるに、今は内外《ないげ》もゆるさせたまひてむとぞ、頼みはべりける」とて、飽かず思したり。「ありし世は、みな夢に見なして、今なむさめてはかなきにや、と思ひたまへ定めがたくはべるに、労などは静かにや定めきこえさすべうはべらむ」と、聞こえ出だしたまへり。げにこそ定めがたき世なれと、はかなきことにつけても思しつづけらる。

「人知れず神のゆるしを待ちし間にここらつれなき世を過ぐすかな

今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて世にわづらはしき事さへはべりし後、さまざまに思ひたまヘ集めしかな。いかで片はしをだに」と、あながちに聞こえたまふ。御用意なども、昔よりもいますこしなまめかしき気《け》さへ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどにはあはざめり。

なべて世のあはればかりをとるからに誓ひしことと神やいさめむ

とあれば、「あな心憂《こころう》。その世の罪はみな科戸《しなと》の風にたぐへてき」とのたまふ愛敬《あいぎやう》もこよなし。「禊《みそぎ》を神はいかがはべりけん」など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかにはいとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月にそへても、もの深くのみひき入りたまひて、え聞こえたまはぬを見たてまつりなやめり。「すきずきしきやうになりぬるを」など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。「齢《よはひ》のつもりには、面《おも》なくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを、今ぞとだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける」とて出でたまふなごり、ところせきまで例の聞こえあへり。

おほかたの空もをかしきほどに、木《こ》の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、そのをりをり、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。

現代語訳

源氏の君は、あちらの御部屋のあたりをお目をやられると、枯れかかった植込みの心映えも格別に見渡されて、姫君(朝顔)が、静かに物思いにふけっていらっしゃるだろう御様子、御容貌もぜひ拝見したいと心惹かれて、我慢がおできにならず、(源氏)「こうして御邸にお伺いしました機会を逃しますのは、心ざしがないようですので、あちらのお見舞いを申し上げねばならないのでした」といって、そのまま簀子伝いにおいでになる。もう暗くなっている時間であるが、鈍色の御簾に、黒い御几帳ごしに透けて見える影がしみじみと興をそそられ、風が香の匂いを乗せて優艶に吹き送られてくる、その気配は申し分ない。姫君(朝顔)は、簀子は具合が悪いので、源氏の君を南の廂にお入れ申し上げる。

宣旨が応対して、お取次申し上げる。(源氏)「今さらに若々しい気持ちがしますね。御簾の外とは。神さびるほどの年月の労を積んだのですから、今は御簾の出入りをお許しくださると、
頼みにしていたのでございますよ」といって、不満に思っていらっしゃる。

(朝顔)「昔の世は、みな夢のように思えて、今はその夢から覚めて、かえってはかない気持ちがするのかと、自分の気持ちを定め難く思っておりますから、おっしゃる「労」などは、静かに考えさせていただくのがよろしいのでしょう」と、口に出しておっしゃった。なるほどまさに「定め難き」無常の世であるよと、源氏の君は、ちょっとした言葉につけても思いつづけられるのである。

(源氏)人知れず…

(人知れず神の許しを待っていた間に、冷淡な貴女の態度に耐えて、逢えない年月を過ごしてきたものですよ)

今は何の諌めがあるからと、こじつけなさって、私をお避けになろうとなさるのでしょう。総じて世の中にわずらわしい事まで起こりました後、さまざまに辛い思いを重ねてまいりました。どうにかしてその一端でもお話し申し上げたいのですが」と、強引に申し上げなさる。御心遣いなども、昔よりすこし優美な風格まで加わっていらっしゃるのであった。そうではあるが、まことにたいそうお年をお取りになられたとはいっても、御位の高さにはあわない若々しいご気性なのである。

(朝顔)なべて世の…

(ひととおりの喪中見舞いをするだけのことでも、私がお仕えする賀茂の神は、清浄の誓いを忘れるべからずと、お咎めになりましょう)

とあるので、(源氏)「ああ辛い。その頃の罪はみな科戸の風が吹き払ってしまいました」とおっしゃる優美さも格別である。(宣旨)「禊を神はいかが御覧になられました」など、些細なことを、宣旨が源氏の君に申し上げるにつけても、女君(朝顔)としてはひどく決まりが悪い。女君の世間慣れしない御人柄は、年月が重なるにつれて、いっそう深く引き込もりがちになって、お返事もおできにならないことを、女房たちは拝見して困惑している。

(源氏)「そんなつもりではなかったのですが、色めいた話のようにになってしまいましたね」など、深く嘆いてお立ちになる。

(源氏)「年を取ると、面目ない目にも遭うことですな。世に類のない私のやつれた姿を、「今ぞ」と古歌にいいますように、せめて「恋する人の成れの果ての姿を御覧ください」と貴女に申し上げられる程度には、貴女は私を取り扱ってくださったのでしょうか」といってお立ちになった後の気配が、所せましと満ちて、女房たちは例によってお褒め申し上げあった。

ただでさえ空も風情ある季節で、木の葉のさやぐ音につけても、女君(朝顔)は過ぎ去った日々のしみじみした思い出を反芻して、その折々、おもしろくも情深くも、心深く拝見された源氏の君のお気持ちなども、お思い出し申し上げる。

語句

■あなたの御前 朝顔の姫君の住む寝殿の西側の御前の庭。 ■簀子より 庭におりずに簀子づたいに。 ■鈍色の御簾 式部卿宮の喪中なので。 ■透影 透けて見える姿。 ■簀子はかたはらいたければ 簀子の内側に廂の間がある。廂の間まで招くのは源氏の身分の高さゆえ。 ■宣旨 朝顔の姫君つきの女房。 ■対面 応対に出ること。 ■今さらに若々しき心地する 若者であれば思慮分別が足りないので何をしでかすかわからない。だから御簾を隔てての応対は妥当である。だが自分は思慮分別のそなわった大人である。なのにこんな扱いを受けるとはひどい、という皮肉。 ■神さびにける年月の労 長年にわたって姫君を恋い慕ってきたことをいう。「神さびにける」は姫君が斎院であったことにかけたもの。 ■内外もゆるさせたまひてむ 「内外をゆるす」は御簾の内に自由に出入りさせること。 ■ありし世は… 以下、「定めきこえさすべうはべらむ」まで、朝顔の台詞。解読不能。源氏の色めいた言葉をやんわりとかわしているらしい。後半は「貴方の言う「労」などは知ったことではない」ということか。「ありし世」は父宮存世中。自身が斎院であった時。参考「ありし世は夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲かりける」(栄華物語・岩蔭 紫式部)。 ■人知れず… 「神のゆるしを待ちし間」は姫君の斎院在任中の八年間をいう。 ■今は… これまでは斎院として男女関係を避ける必要があったが、これからはそんなことはないでしょう。どうして私を受け入れないんですかの意。 ■わづらはしき事 源氏の失脚と須磨退去。 ■いかで片はしをだに 下に「語り聞こえむ」などを省略。 ■過ぐしたまへど 「過ぐす」はここでは年を取ること。 ■御位のほどにはあはざめり 内大臣という高い位からして、女に言い寄るなどという真似は似合わない。 ■なべて世の… 「なべて世のあはれ」は一通りの喪中見舞いなど。それを源氏がするだけで、賀茂の神が咎めるだろうの意。 ■その世の罪 姫君が斎院であった頃の罪。源氏は姫君が斎院となってからも密かに文通を続けた(【賢木 34】)。 ■科戸の風 「科戸」は「風」の枕詞。「天の下四方の国には罪といふ罪はいらじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つことのごとく」(中臣祓)。 ■禊を神はいかがはべらけん 「恋せじと御手洗川にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな」(伊勢物語六十五段)。これを踏まえて「恋せじと御手洗川にみそぎされた神は、その願いを受け入れて恋路をはばむのでしょうか。それとも願いを受け入れず恋しい気持ちを燃え上がらせるのでしょうか」といった意味合いか?あまりにも修辞に懲りすぎて意味不明な文章になっている。 ■はかなきことを聞こゆる 宣旨が、姫君にかわって源氏の君に返事する。 ■かたはらいたし 朝顔の姫君としては、自分の意志を受けてそれを宣旨が源氏の君に伝えたと源氏の君に思われそうで、それが心地悪いのである。実際には宣旨が自分で考えて源氏の君に伝えた言葉なのに。 ■すきずきしきやうになりぬるを 本来、ただのお見舞いのつもりだったが、思いもかけず色めいた方向に話が流れたという弁解。実際は源氏ははじめから色めいた意図を持っていた。 ■齢のつもりには… 以下、「もてなしたまへる」まで、源氏の台詞はあまりにも修辞に過ぎ、解読不可能。難解であること=知的で奥深いこと、という強迫観念にとりつかれており、非常に疲れる。どの注釈書もこのへんはなんとなくお茶をにごす。おそらく筆者以外、この暗号文を解読できた人間は歴史上存在しないと思います。 ■おほかたの ただでさえ。 ■過ぎにし 斎院時代のこと。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル