【朝顔 08】朝顔の姫君との関係について、紫の上の嫉妬と源氏の弁解

原文

大臣《おとど》は、あながちに思し焦《い》らるるにしもあらねど、つれなき御気色のうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、げに、はた、人の御ありさま世のおぼえ、ことにあらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞きつめたまひて、昔よりもあまた経《へ》まさりて思さるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、「空《むな》しからむはいよいよ人笑へなるべし。いかにせむ」と御心動きて、二条院に夜|離《が》れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。忍びたまへど、いかがうちこぼるるをりもなからむ。

「あやしく例ならぬ御気色こそ、心得がたけれ」とて、御髪《みぐし》をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描《か》かまほしき御あはひなり。「宮亡せたまひて後《のち》、上《うへ》のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣《おほきおとど》もものしたまはで、見ゆづる人なき事しげさになむ。このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、ことわりにあはれなれど、今はさりとも心のどかに思せ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそらうたけれ」など、まろがれたる御|額髪《ひたひがみ》ひきつくろひたまへど、いよいよ背《そむ》きてものも聞こえたまはず。「いといたく若びたまへるは、誰《た》がならはしきこえたるぞ」とて、常なき世にかくまで心おかるるもあぢきなのわざや、とかつはうちながめたまふ。「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それはいともて離れたる事ぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなうけ遠き御心ばへなるを、さうざうしきをりをり、ただならで聞こえなやますに、かしこもつれづれにものしたまふところなれば、たまさかの答《いら》へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも愁へきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを思ひなほしたまへ」など、日一日《ひひとひ》慰めきこえたまふ。

現代語訳

源氏の大臣は、ひたすらいらいらしていらっしゃるわけではないが、女君の冷淡なご様子がいまいましい上に、負けて終わってしまうのも残念で、とはいえ、たしかにまた、女君の御人柄や世間の評判は、格別に申し分なく、ものを深くわきまえていらっしゃり、今や源氏の君は、世間の人の、あれこれのいわれもよくご理解していらっしゃり、昔よりも多くの経験を積んで成長したと自負していらっしゃるので、今さらの御浮気も、一方では世間の非難に気兼ねしながら、また一方では「このまま何もしないのではいよいよ人笑いになるに違いない。どうしたものか」と落ち着かれず、二条院に夜、足が遠のきがちでいらっしゃるのを、女君(紫の上)は、「戯れにくきまでに」恋しい、というあのお気持ちである。こらえてはいらっしゃるが、どうして涙がこぼれる時もないはずがあろうか。

(源氏)「妙にいつもと違う御機嫌なのは、わけがわかりませんね」といって、御髪をかきやりつつ、いとおしく思っていらっしゃるご様子も、絵に描きたくなるようなご夫婦のご関係である。(源氏)「入道の宮(藤壺)がお亡くなりになってから、帝がたいそう寂しげにしてばかり過ごしていらっしゃるのも、お気の毒と拝見しておりますし、太政大臣もいらっしゃらないので、後を任せる人もない忙しさでしてね。この頃私が訪れないことを、以前はなかったことだから不機嫌にお思いになるだろうことも、それは当然でありますし気の毒に思いますが、今はそうはいってものんびりとお考えてになっていてください。大人びたようでいらっしゃるが、まだたいそう人の気持ちもご想像できず、人の心もわからないようでいらっしゃるのが、お可愛いですよ」など、涙でもつれた御額髪をひきつくろいなさるが、女君(紫の上)は、いよいよそっぽを向いてものもおっしゃらない。

(源氏)「たいそうひどく子供っぽくいらっしゃるのは、誰がお仕付け申したのでしょうか」といって、無常の世の中にこうまで隔て心を置かれるのもつまらないことよと、一方では物思いに沈んでおられる。

(源氏)「斎院につまらないことを申し上げたのを、もしや変に勘違いしておられるむきがあるのでしょうか。それはまったく見当違いな事ですよ。自然とおわかりになられるでしょう。あの御方は、昔からひどく親しみにくい御気性なのですが、さびしく物足りない折々、恋文めいたお手紙を送ってお悩ましすると、あちらも退屈にしていらっしゃるところなので、時々はお返事などもなさいますが、本気のことではないのですから、これこれのわけだと貴女に泣き言を申し上げねばならぬようなことでしょうか。後ろめたいことはないと、思い直してください」など、一日中慰め申し上げなさる。

語句

■うれたきに 「うれたし」は「心《うら》痛し」の転。腹立たしい。いまいましい。 ■げに 世間で言っているように。 ■ことにあらまほしく 格別に申し分なく。 ■とあるかかるけぢめ あれこれの情理。源氏は須磨流謫によって人の心の機微を知り成長した。また成長したことを自覚してもいる。 ■聞きつめたまひて 「聞きつむ」は「聞き集む」の転。 ■経まさる さまざまな経験をして、成長すること。 ■たはぶれにくく 「ありぬやとこころみがてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき」(古今・雑躰・俳諧歌)。歌意は、逢わずにいられるだろうかとためしに逢わなかったら、そんな冗談を言っていられないほど恋しい気持ちがつのる。 ■太政大臣 葵の上の父。入道の宮に先駆け薨去(【薄雲 09】)。 ■なむ 下に「だから貴女のところに足が遠のいているのです」の意を補う。 ■思ひやり 他人の立場や考えを想像すること。 ■まろがれたる 「まろがる」は固まり合う。涙で髪の毛がもつれている。 ■誰がならはしきこえたるぞ 紫の上をしつけたのは源氏。だから「私は貴女をそんなふうにしつけたつもりはありませんよ」の意となる。 ■心おかるる 「心おく」は警戒する。避ける。 ■もて離れたる事 事実とかけ離れた事。 ■け遠き 「気遠し」は親しみにくい。逆は「気近し」。 ■ただならで 朝顔の姫君があまりにお高くとまっているので恋文めかした手紙を冗談に差し上げてからかったというのである。源氏の弁解。 ■

朗読・解説:左大臣光永

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