【胡蝶 02】中宮の季の御読経 紫の上から中宮への文 春秋の争いの結末
今日は、中宮の御読経《みどきやう》のはじめなりけり。やがてまかでたまはで、休み所とりつつ、日の御|装《よそ》ひにかへたまふ人々も多かり。障《さは》りあるはまかでなどもしたまふ。午《うま》の刻《とき》ばかりに、みなあなたに参りたまふ。大臣の君をはじめたてまつりて、みな着きわたりたまふ。殿上人《てんじやうびと》なども残るなく参る。多くは大臣の御|勢《いきほひ》にもてなされたまひて、やむごとなくいつくしき御ありさまなり。
春の上の御心ざしに、仏に花奉らせたまふ。鳥|蝶《てふ》にさうぞき分けたる童《わらは》べ八人、容貌《かたち》などことにととのへさせたまひて、鳥には、銀《しろかね》の花瓶《はながめ》に桜をさし、蝶は、黄金《こがね》の瓶《かめ》に山吹を、同じき花の房《ふさ》いかめしう、世になきにほひを尽くさせたまへり。南の御前の山際《やまぎは》より漕《こ》ぎ出でて、御前に出づるほど、風吹きて、瓶《かめ》の桜すこしうち散り紛《まが》ふ。いとうららかに晴れて、霞《かすみ》の間《ま》より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。わざと平張《ひらばり》なども移されず、御前に渡れる廊を、楽屋《がくや》のさまにして、仮に胡床《あぐら》どもを召したり。
童べども御階《みはし》のもとに寄りて、花ども奉る。行香《ぎやうがう》の人々取りつぎて、閼伽《あか》に加へさせたまふ。御消息《みせうそこ》、殿の中将の君して聞こえたまへり。
花ぞののこてふをさへや下草に秋まつむしはうとく見るらむ
宮、かの紅葉《もみぢ》の御返りなりけり、とほほ笑みて御覧ず。昨日《きのふ》の女房たちも、「げに春の色はえおとさせたまふまじかりけり」と花におれつつ聞こえあへり。鶯《うぐひす》のうららかなる音《ね》に、鳥の楽《がく》華やかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなく囀《さへづ》りわたるに、急になりはつるほど、飽かずおもしろし。蝶はまして、はかなきさまに飛びたちて、山吹の籬《ませ》のもとに、咲きこぼれたる花の蔭に舞ひいづる。
宮の亮《すけ》をはじめて、さるべき上人《うへびと》ども、禄《ろく》とりつづきて、童べに賜《た》ぶ。鳥には桜の細長《ほそなが》、蝶には山吹|襲《がさね》賜はる。かねてしもとりあへたるやうなり。物の師どもは、白き一襲《ひとかさね》、腰差《こしざし》など、次々に賜ふ。中将の君には、藤の細長添へて、女の装束《さうぞく》かづけたまふ。御返り、「昨日《きのふ》は音《ね》に泣きぬべくこそは。
こてふにもさそはれなまし心ありて八重山吹をへだてざりせば」
とぞありける。すぐれたる御|労《らう》どもに、かやうのことはたヘぬにやありけむ、思ふやうにこそ見えぬ御口つきどもなめれ。
まことや、かの見物《みもの》の女房たち、宮のには、みな気色ある贈物どもせさせたまうけり。さやうのこと委《くは》しければむつかし。明け暮れにつけても、かやうのはかなき御遊びしげく、心をやりて過ぐしたまへば、さぶらふ人もおのづから、もの思ひなき心地してなむ、こなたかなたにも聞こえかはしたまふ。
現代語訳
今日は中宮(秋好中宮)の季の御読経の初日である。そのままご退出にならずに、あちこちで休み場所をとっては、束帯にお着替えになる方々も多い。差し障りある方はご退出などもなさる。午の刻(正午)ぐらいに、みなあちら(中宮方)に参られる。大臣の君(源氏)をはじめ、みな一同席にお着きになる。殿上人なども残りなく参る。おもに大臣のお引き立てにより、尊く荘厳な法会のご様子である。
春の上(紫の上)の供養のお心ざしに、仏に花をお供えになる。鳥と蝶の姿に装束を分けた女童《めのわらわ》が八人、器量などは格別にお整えになり、鳥には、銀の花瓶《はながめ》に桜をさし、蝶は、黄金の瓶に山吹を、世間にあるのと同じ花の房とはいいながら荘厳で、世にたぐいなき色艶の限りをお尽くしなさっている。
南の御前の築山のあたりから漕ぎ出して、中宮方の御前に出るころには、風が吹いて、瓶の桜がすこし散り交っている。たいそううららかに晴れて、霞の間から女童たちが立ちあらわれたのは、まことに風情がありみずみずしく見える。
わざと平張などもこちら(中宮方)にお移しにならず、中宮の御殿に通じている廊を楽屋のようにして、臨時に多くの胡床《あぐら》を取り寄せている。
女童たちがきざはしの下に寄って、多くの花を差し上げる。行香の人々が取り次いで、閼伽棚にお置き加えになる。ご連絡は、殿の子息である中将の君(夕霧)の君を通して申し上げなさる。
(紫の上)花ぞのの…
(草の蔭で秋をまつ貴女は、春の花園の胡蝶までもいやなものとご覧になりましょうか)
中宮は、あの紅葉の手紙に対するお返事であったか、とほほ笑んでご覧になる。昨日の女房たちも、「なるほど春の色は、おけなしになれるものではございませんでした」と、花に見惚れては言い合っている。鶯のうららかな声に、鳥の楽が華やかにそこらじゅうで聞こえていて、池の水鳥も何ということはなくそこらじゅうで囀っているところに、曲調が「急」になって曲が終わるのは、いつまでも名残の尽きないおもしろさである。蝶の舞は鳥の舞にも増して、軽やかなさまで飛び立って、山吹の垣根のもとに、咲きこぼれた花の蔭に舞い出る。
宮の亮(中宮職の次官)をはじめて、めぼしい殿上人たちが、禄をとりついで、女童たちにお与えになる。鳥の女童には桜襲の細長、蝶の女童には山吹襲の細長をお与えになる。まるで前もって準備していたかのようである。楽人たちは、白い衣一襲や腰差など、身分に応じて賜った。中将の君(夕霧)には、藤襲の細長を添えて、女装束をおかずけになる。お返事は、(中宮)「昨日は声を出して泣いてしまいそうでした。
こてふにも…
(「こちらへ来なさい」という意味を持つ胡蝶に誘われて、そちらの春の御殿にうかがいそうになりました。貴女に考えがあって八重山吹で隔てをお作りになったりされないならば)
とあった。すぐれて年功をお積みになられたお二方(紫の上と中宮)にも、このようなことは難しかったのだろうか、思うように言い尽くせていないと見える歌の詠みぶりであるようだ。
そうそう、あの昨日見物にきた中宮方の女房たちには、上(紫の上)は、気の利いた多くの贈り物をなさった。そのようなことは話せば煩雑になるので具合の悪いことだ。
明け暮れのたびに、このような慰めごとの御管弦の遊びが多く、愉快にお過ごしになっていらっしゃるので、お仕えしている女房たちも自然と、悩みのない心地がして、あちらにもこちらにも、お互いに連絡を取り合っていらっしゃる。
語句
■御読経 季の御読経。春・秋と二月・七月、もしくは三月と八月の吉日に紫宸殿で大般若経を講ずるもの。貴族の私邸でも行われた。 ■昼の装束 昼に着る装束。束帯。宿直装束に対していう。 ■あなたへ 紫の上方と中宮方は廊・渡殿でつながっている(【少女 34】)。 ■鳥蝶にさうぞき分けたる 舞を舞う女童らの装束。鳥は、迦陵頻《かりょうびん》の舞装束。蝶は、胡蝶楽の舞装束。それぞれ四人。「迦陵頻伽」はヒマラヤ山中にすむという想像上の鳥。声がよいとされる。参考「童べの蝶鳥の舞ども、ただ極楽もかくこそはと思ひやりよそへられて見るほどぞ、いと思ひやられて」(栄花物語・音楽)。 ■南の御前の山際より 舟は紫の上方の池の築山のあたりから漕ぎ出して、中宮方に向かった。 ■平張り 舞のとき楽屋として使うテント。布を平らに引き渡して屋根とする。 ■胡床 折りたたみ式の椅子。 ■行香 法会の僧に香を配る者。参加している公卿から選ばれる。 ■閼伽 閼伽棚。仏に供える水(閼伽水)や花を置く棚。 ■御消息 紫の上から中宮にあてた手紙。 ■花ぞのの… 「下草」は物陰の草。「秋まつむし」は中宮。「まつ」は「待つ」と「松」をかける。昨年秋に六条院落成の時、中宮が紫の上に送った歌「こころから春まつ苑はわがやどの紅葉を風のさてにだに見よ」(【少女 34】)を受ける。 ■昨日の女房たち 昨日、紫の上方を訪れた中宮方の女房たち。 ■げに 直前の「花ぞのの」の歌を受ける。 ■花におれつつ 「痴《お》る」は、放心する。ぼんやりする。ここでは見惚れる。 ■鳥の楽 舞楽の曲名。迦陵頻。童舞。四人で舞う。桜の花をかざし、鳥の羽をつけて、銅拍子を取って舞う。胡蝶舞と一対。 ■急になり 曲は「序破急」のテンポからなる。急は終わりほうの曲調。■蝶はまして 鳥の舞にもまして。 ■まして 鳥の楽よりもまして胡蝶の楽は。 ■宮の亮 中宮職の次官。中宮職は中宮の身の回りの庶務を行う。 ■桜の 桜襲の。表白。裏赤。 ■細長 女子の装束。 ■山吹襲 表朽葉色、裏黄色。 ■かねてしもとりあへたるやうなり 紫の上が中宮方に鳥・蝶の舞を贈ったのは前持って打ち合わせがあったことではない。にもかかわらず中宮は鳥の女童には桜襲を、胡蝶の女童には山吹襲をと、筋の通った禄を与えた。まるで前もって打ち合わせがあったような見事な手際だったの意。 ■腰差 禄としていただく絹の巻物。腰に差して退出するので。 ■次々に 身分の高い者には白き一襲を、身分の低い者には腰差を。 ■中将の君 夕霧。紫の上の使いなので格別の禄を賜る。 ■音にこそ 「わが園の梅のほつえに鶯の音に鳴きぬべき恋もするかな」(古今・恋一 読人しらず)。「こそは」の下に「ありしか」を補い読む。 ■こてふにも… 「こてふ」は「来てふ」と「胡蝶」を、「八重山吹」は「八重山」の意をかける。 ■すぐれたる御労どもに… 以下「なめれ」まで草子文。紫の上も中宮もすぐれた歌の詠み手であるのに、それにしてはこの歌は平凡だという批判に対して、作者は予防線をはる。