【真木柱 08】髭黒、玉鬘のもとに出かけようとする 北の方、髭黒に火取の灰をかける

原文

暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで出でなんと思ほすに、雪かきたれて降る。かかる空にふり出でむも、人目いとほしうこの御気色も、憎げにふすべ恨みなどしたまはば、なかなかことつけて、我もむかひ火つくりてあるべきを、いとおいらかにつれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦しければ、いかにせむと思ひ乱れつつ、格子などもさながら、端《はし》近うちちながめてゐたまへり。北の方気色を見て、「あやにくなめる雪を、いかで分けたまはんとすらむ。夜も更《ふ》けぬめりや」とそそのかしたまふ。今は限り、とどむとも、と思ひめぐらしたまへる気色、いとあはれなり。「かかるには、いかでか」とのたまふものから、「なほこのころばかり。心のほどを知らで、とかく人の言ひなし、大臣たちも左右《ひだりみぎ》に聞き思さんことを憚《はばか》りてなん。とだえあらむはいとほしき。思ひしづめてなほ見はてたまへ。ここになど渡してば心やすくはべりなむ。かく世の常なる御気色見えたまふ時は、外《ほか》ざまに分くる心も失せてなん、あはれに思ひきこゆる」など語らひたまへば、「立ちとまりたまひても、御心の外《ほか》ならんは、なかなか苦しうこそあるべけれ。よそにても、思ひだにおこせたまはば、袖の氷もとけなんかし」など、なごやかに言ひゐたまへり。

「御|火取《ひとり》召して、いよいよたきしめさせたてまつりたまふ。みづからは、萎えたる御|衣《ぞ》どもに、うちとけたる御姿、いとど細うか弱げなり。しめりておはする、いと心苦し。御目のいたう泣き腫《は》れたるぞ、すこしものしけれど、いとあはれと見る時は、罪なう思して、いかで過ぐしつる年月ぞと、なごりなう移ろふ心のいと軽きぞや、とは思ふ思ふ、なほ心げさうは進みて、そら嘆きをうちしつつ、なほ装束《さうぞく》したまひて、小《ちひ》さき火取とり寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり。なつかしきほどに萎えたる御装束に、容貌《かたち》も、かの並びなき御光にこそ圧《お》さるれど、いとあざやかに男《を》々しきさまして、ただ人《うど》と見えず、心恥づかしげなり。

侍所《さぶらひ》に人々声して、「雪すこし隙《ひま》あり。夜は更けぬらんかし」など、さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、声《こわ》づくりあへり。中将、木工《もく》など、「あはれの世や」などうち嘆きつつ、語らひて臥《ふ》したるに、正身《さうじみ》はいみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへり、と見るほどに、にはかに起き上りて、大きなる籠《こ》の下なりつる火取を取り寄せて、殿の背後《うしろ》に寄りて、さと沃《い》かけたまふほど、人のやや見あふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ。さるこまかなる灰の、目鼻にも入りて、おぼほれてものもおぼえず。払《はら》ひ棄てたまへど、立ち満ちたれば、御|衣《ぞ》ども脱ぎたまひつ。うつし心にてかくしたまふぞ、と思はば、またかへり見すべくもあらずあさましけれど、例の御物の怪の、人にうとませむとする事、と御前なる人々もいとほしう見たてまつる。立ち騒ぎて、御衣ども奉り換《か》へなどすれど、そこらの灰の、鬢《びん》のわたりにも立ちのぼり、よろづの所に満ちたる心地すれば、きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参うでたまふべきにもあらず。心|違《たが》ひとはいひながら、なほめづらしう見知らぬ人の御ありさまなりや、と爪弾きせられ、うとましうなりて、あはれと思ひつる心も残らねど、このころ荒だててば、いみじき事出で来《き》なむ、と思ししづめて、夜半《よなか》になりぬれど、僧など召して、加持《かぢ》まゐり騒ぐ。呼ばひののしりたまふ声など、思ひうとみたまはんにことわりなり。

現代語訳

日が暮れると、大将は心もうわの空で、どうにかして出かけようとお思いになるが、雪が後から後から降ってくる。こうした空模様にわざわざ外出することも、人目が立って北の方に気の毒だし、その北の方のご様子も、憎たらしく嫉妬にかられて恨んだりなさるならば、かえってそれにかこつけて、自分も迎え火をたいて出かけることもできるのだが、北の方はまことにおっとりと、何でもないようにふるまっていらっしゃる。その様子が、ひどく気の毒なので、大将は、どうしようと思い乱れつつ、格子なども上げたままにして、部屋の端近くで外をぼんやりながめて座っていらっしゃる。

北の方はこのようすを見て、「あいにくであるらしい雪を、どのように踏み分けて行かれようとなさるのでしょう。夜も更けたようですこと」と、出かけることをお促しになる。もうこれかぎりだ、引き留めてもどうにもならないとご思案していらっしゃる北の方のようすは、ひどく痛々しい。(髭黒)「こんな雪の中を、どうして出かけられるものですか」とおっしゃるが、(髭黒)「やはり今回ばかりは。私の心具合を知りもしないで、あれこれ女房たちが取り沙汰して、大臣たちもあちこちで噂を聞いてどうお思いになるか気がかりでして。途絶えを置いては気の毒です。貴女は気をしずめてやはり私がすることを最後までお見届けください。姫君(玉鬘)をこちらなどに迎えてしまえば、気がねもなくなりましょう。こうして貴女もふつうのご気分でいらっしゃる時は、私も他に気持ちが移ることはなくなり、貴女のことを愛おしく存じ上げます」などお語らいになると、(北の方)「たとえ貴方がここに留まっていらしたとしても、御心が外に向いていらっしゃるなら、かえって辛いでしょう。よそにいらしても、私のことを思ってさえくださいましたら、袖の氷もとけますでしょうに」など、おだやかにおっしゃっている。

北の方は、御香炉を取り寄せて、女房に命じて、ますます焚き染めさせておあげになる。ご自身は、萎えたお召ものを重ね着している、ふだん着の御姿が、ひどく痩せ細ってか弱げである。ふさぎこんでいらっしゃるのが、ひどく気の毒だ。御目をひどく泣き腫らしているのが、すこし疎ましいけれど、まことに愛しいと見る時は、咎める気にならず、よくぞ長年夫婦生活を続けてきたことよと、それをすっかり忘れて心移りしている自分は何と軽薄なのだと、思い思いしてはいるが、それでもやはり姫君(玉鬘)への思いはつのって、ため息をついてみせては、やはり装束をととのえて、小さい香炉を取り寄せて、袖の中に引き入れて焚き染めていらっしゃる。ほどよく着なれている御装束に、顔立ちも、あの並ぶ人とてない源氏の大臣の美しさには比べようもないが、まことにあざやかに男らしいようすで、並の人とも見えず、見る者が気後れするほどの立派さである。

侍所《さぶらいどころ》で供人たちの声がして、「雪がすこしやんでおります。夜は更けてしまいましょう」など、さすがにはっきりとではないが、それとなく大将に外出をおすすめ申し上げて、お互いに咳払いをしあっている。中将、木工などは、「お気の毒なご夫婦のご関係ですこと」などとため息をついては、語らって横になっているところに、北の方ご本人はたいそう気持ちを抑えて、意地らしげに脇息により伏していらっしゃる、と見るや、急に起き上がって、大きな伏籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の背後《うしろ》に寄って、さっと灰を浴びせかけなさった。それは人々がよく見とどけるすきもない一瞬の出来事で、大将はびっくりして、呆然としていらっしゃる。そのように細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼんやりしてわけがわからない。灰をお払いのけなさるが、あたりに立ちこめているので、お召し物を何枚もお脱ぎになった。正気の時にこんなことをなさるのだ、と思うなら、ふたたび省みるべくもなく呆れることだったが、例の御物の怪が、人に嫌われようとしてやる事、と御前の女房たちも気の毒に存じ上げる。大騒ぎをして、御衣などをお召し替えになるが、多くの灰が、鬢のあたりにも立ちのぼり、そこらじゅうに満ちている気がするので、綺羅を尽くしていらっしゃる姫君のもとに、このまま参られるわけにもいかない。

お気がふれているとはいっても、やはりこんなことは滅多になく、いままで見たことも聞いたこともないおふるまいであるよと、いらいらさせられ、北の方のことが疎ましくなって、愛しいと先ごろ思った気持ちも消え失せてしまったが、今ことを荒立てれば、面倒な事になってくるだろうと、お気持ちを抑えて、夜中になったが、僧などを召して、大騒ぎして加持をしてさしあげる。大声でわめいていらっしゃる声など、大将が嫌になられるのももっともである。

語句

■ふり出でむ 「ふり」はわざわざ。また「雪」の縁語。 ■ふすべ 「燻《ふす》ぶ」はここでは嫉妬の念にかられる。くすぶる、いぶるが原意。 ■むかひ火 北の方の「ふすべ」に対して大将も「むかひ火」を焚くのである。 ■格子などもさながら 本来、日が暮れたら格子はおろすものだが、おろさないで。外出したい気持ちをあらわしている。 ■夜も更けぬめりや 夜が更けないうちにご出発くださいの意。 ■思ひしづめてなほ見はてたまへ 心を静めて私のやることを最後までご覧くださいの意。玉鬘を手に入れるまでは家庭内のごたごたを世に(とくに源氏に)知られたくないと髭黒は思うのである。 ■かく世の常なる御気色 北の方の発作がなく正常な状態。 ■袖の氷もとけなんかし 「思ひつつ寝なくに明くる冬の夜の袖の氷はとけずあるかな」(後撰・冬 読人しらず)。「寝なく」に「音泣く」をかける。冷え切った夫婦仲もとけましょうに、の意をこめる。 ■御火取  衣類に焚きしめる香をいれる香炉。 ■みづからは… 愛人のもとに出発するにあたり綺羅を尽くす髭黒の装束に対して、北の方のみすぼらしい姿が描かれる。前も「もののきよらもなくやつして、いと埋れいたく」(【真木柱 07】)とあった。 ■いとど細うか弱げなり もともと小柄な北の方が病によってさらに痩せ細っている。 ■心げさう 「心懸想」。玉鬘に対する恋情。 ■そら嘆きをうちしつつ 北の方の手前、ため息をついてみせている。が心は玉鬘に向いている。 ■装束したまひて 装束をととのえて。 ■かの並びなき御光 源氏の美しさ。 ■ただ人 臣籍の人。 ■侍所 警護の人々の詰め所。 ■雪すこし隙あり 外出を促している。 ■さすがにまほにはあらで 北の方に遠慮してさすがにはっきりと外出を促すことはしない。 ■中将、木工 女房として仕えながら、同時に主人(髭黒)との関係を持つ者。 ■沃かけたまふ 「沃かく」は浴びせかける。 ■見あふる 「見敢ふ」は、見届ける。 ■さるこまかなる灰 香炉の灰はふるいにかけた特に細かいもの。 ■おぼほれて 「惚《おぼ》ほる」はぼんやりする。本心を失う。 ■きよらを尽くしたまふわたり 玉鬘の住む六条院。 ■爪弾き 気に食わないときにする仕草。実際にその動作をするというより、そういう気持ちになっていること。せっかく玉鬘のもとに出かけようとしていたのに北の方に邪魔されて、苛立っている。 ■あはれと思ひつる心 前の「あはれに思ひきこゆる」や「いとあはれと見る」に応ずる。 ■いみじき事 玉鬘と髭黒の結婚によって北の方が狂乱していると知れば、式部卿宮は髭黒を非難するだろう。また源氏はそんなややこしい家に玉鬘を送り出すことを嫌い、髭黒と玉鬘の結婚に反対するだろう。そのように芋づる式に騒動が広がっていき、最終的に自分に非難の矛先がむくことを髭黒は恐れる。 ■加持 物の怪を退散させるための祈祷。

朗読・解説:左大臣光永