【真木柱 07】髭黒、北の方と口論

住まひなどのあやしうしどけなく、もののきよらもなくやつして、いと埋《むも》れいたくもてなしたまへるを、玉を磨ける目移しに心もとまらねど、年ごろの心ざしひき変ふるものならねば、心にはいとあはれと思ひきこえたまふ。「昨日今日《きのふけふ》のいと浅はかなる人の御仲らひだに、よろしき際《きは》になれば、みな思ひのどむる方ありてこそ見はつなれ。いと身も苦しげにもてなしたまひつれば、聞こゆべきこともうち出できこえにくくなむ。年ごろ契りきこゆることにはあらずや。世の人にも似ぬ御ありさまを、見たてまつりはてんとこそは、ここら思ひしづめつつ過ぐし来るに、えさしもあり果《は》つまじき御心おきてに、思しうとむな。幼き人々もはべれば、とざまかうざまにつけておろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ。一《ひと》わたり見はてたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、任せてこそいましばし御覧じはてめ。宮の聞こしめしうとみて、さはやかにふと渡したてまつりてむと思しのたまふなん、かへりていと軽々《かろがろ》しき。まことに思しおきつることにやあらむ、しばし勘事《かうじ》したまふべきにやあらむ」と、うち笑ひてのたまへる、いとねたげに心やまし。

御|召人《めしうど》だちて、仕うまつり馴《な》れたる木工《もく》の君、中将のおもとなどいふ人々だに、ほとにつけつつ、安からずつらしと思ひきこえたるを、北の方はうつし心ものしたまふほどにて、いとなつかしううち泣きてゐたまへり。「みづからをほけたり、ひがひがしとのたまひ恥ぢしむるは、ことわりなることになむ。宮の御ことをさへ取りまぜのたまふぞ、漏《も》り聞きたまはんはいとほしう、うき身のゆかり軽々《かろがろ》しきやうなる。耳馴れにてはべれば、今はじめていかにもものを思ひはべらず」とて、うち背《そむ》きたまへる、らうたげなり。いとささやかなる人の、常の御悩みに痩せおとろへ、ひはづにて、髪いとけうらにて長かりけるが、分けたるやうに落ち細りて、梳《けづ》ることもをさをさしたまはず、涙にまろがれたるは、いとあはれなり。こまかににほへるところはなくて、父宮に似たてまつりて、なまめいたる容貌《かたち》したまへるを、もてやつしたまへれば、いづこの華やかなるけはひかはあらむ。「宮の御ことを軽《かろ》くはいかが聞こゆる。恐ろしう、人聞きかたはになのたまひなしそ」とこしらへて、「かの通ひはべる所のいとまばゆき玉の台《うてな》に、うひうひしうきすくなるさまにて出で入るほども、方々《かたがた》に人目立つらんとかたはらいたければ、心やすくうつろはしてんと思ひはべるなり。太政大臣《おほきおとど》の、さる世にたぐひなき御おぼえをばさらにも聞こえず、心恥づかしういたり深うおはすめる御あたりに、憎げなること漏《も》り聞こえば、いとなんいとほしうかたじけなかるべき。なだらかにて、御仲よくて語らひてものしたまへ。宮に渡りたまへりとも、忘るることははべらじ。とてもかうても、今さらに心ざしの隔《へだ》たることはあるまじけれど、世の聞こえ人わらへに、まろがためにも軽々《かろがろ》しうなむはべるべきを、年ごろの契り違《たが》ヘず、かたみに後見《うしろみ》むと思せ」と、こしらへきこえたまへば、「人の御つらさは、ともかくも知りきこえず。世の人にも似ぬ身のうきをなむ、宮にも思し嘆きて、今さらに人わらへなること、と御心を乱りたまふなれば、いとほしう、いかでか見えたてまつらんとなむ。大殿の北の方と聞こゆるも、他人《ことひと》にやはものしたまふ。かれは、知らぬさまにて生ひ出でたまへる人の、末の世にかく人の親だちもてないたまふつらさをなん、思ほしのたまふなれど、ここにはともかくも思はずや。もてないたまはんさまを見るばかり」とのたまへば、「いとようのたまふを、例の御心|違《たが》ひにや、苦しきことも出で来む。大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず。いつきむすめのやうにてものしたまへば、かく思ひおとされたる人の上までは知りたまひなんや。人の御親げなくこそものしたまふべかめれ。かかることの聞こえあらば、いと苦しかべきこと」など、日一日《ひひとひ》入りゐて語らひ申したまふ。

現代語訳

北の方は、住まいなどが変に乱雑で、身なりのさっぱりしたところもなく、汚れていて、ひどく陰気くさくしていらっしゃるので、大将は、玉を磨いたようなきらびやかなところを見馴れている目からは心もひかれないが、それでも長年にわたる愛情がそう簡単に変わるものではないので、心には北の方のことを、ひどく気の毒に存じ上げなさる。(髭黒)「昨日今日の、まことに浅い夫婦のご関係でさえも、それなりの身分となれば、辛抱することがあってこそ添い遂げているようです。貴女はひどくお体が苦しそうにしていらっしゃいましたので、私は申し上げるべきことも切り出しにくくしておりました。長年約束申し上げていることではありませんか。世間の人とは違っている貴女のご病気を、かならず最後までお世話申し上げましょうと、私は我慢しながら過ごしてきましたのに、貴女は私のようには我慢はし通せないと、私をお嫌いになられるのですね。幼い人々もございますのですから、どちらにしても、おろそかにはいたすまいと申し続けてきましたのに、とりとめない女の御心にまかせて、こうして私をお恨みになる。まだ一とおり私のことをご覧にならないうちなら、それも仕方のないことですが、私に任せてもう少しお見とどけください。式部卿宮がこの件をお聞きになって私をお嫌いになって、すっかり貴女を実家にお引き取り申し上げようとお思いになり、そうおっしゃっているのは、かえってひどく軽率というものです。宮はほんとうにそういうお心づもりになられたのでしょうか。それともしばらく私を懲らしめようとしていらっしゃるのでしょうか」と笑っておっしゃるのが、北の方には、ひどく憎らしく、いらいらする。

御召使いめいて、ふだんお仕え申し上げている木工の君、中将のおもとなどといった人々さえそれぞれの身分に応じて、心おだやかならず、つらいと思い申し上げるのを、まして北の方は、正気でいらっしゃる折であるから、たいそうしおらしく泣いていらっしゃる。

(北の方)「私のことを、ぼけている、ふつうでないとおっしゃりお辱めなさることは、当然のことです。ですが父宮の御ことをまで引き合いに出しておっしゃるのは、ご本人のお耳に入ってはお気の毒で、つたない私の身の縁で名誉を傷つけられるというものです。私に対する侮辱は聞き慣れてございますから、今さらなんとも思いません」といって、お顔をそむけられるご様子は意地らしい。

たいそう小柄な人で、日ごろのご病気から痩せおとろえ、細く弱々しく、髪はたいそうきれいで長かったのだが、分け取ったように抜け落ちて、梳《くしけず》ることも滅多になさらず、涙で髪の毛が丸く固まっているのは、ひどく痛々しい。

つややかに美しいところはなくて、それでも父宮に似ていらして、魅力的なお顔立ちをなさっているが、みすぼらしい御身なりをしていらっしゃるので、どこに華やかなようすがあろうか。(髭黒大将)「式部卿宮のことをどうして悪く申し上げましょうか。ひどく、人聞きのよくないことをおっしゃいますな」となだめて、(髭黒)「あの通ってございます所が、まことにまばゆいばかりの玉の宮殿ですから、私が不慣れできまじめな恰好で出入りするのも、あれこれ人目に立つだろうと、きまりが悪いので、安心できるように姫君(玉鬘)をこちらに引き取ろうと考えているのです。太政大臣(源氏)の、ああした世にたぐいなき御名声は、いまさら申し上げるまでもないが、こちらが恥ずかしくなるほど何もかも行き届いておすごしになっていらっしゃる御あたりに、つまらぬ噂でも立ったりしたら、貴女にはまことにお気の毒なことだし、殿(源氏)には畏れ多いことになりましょう。貴女は姫君(玉鬘)と、おだやかに、御仲をよくして、お語らいください。たとえ貴女が父宮のもとにお移りになるとしても、私は貴女を忘れることはございません。お移りになろうとなるまいと、今さら情愛が薄らぐことはないでしょうが、世間の噂、物笑いの種となって、私にとっても軽率のそしりを免れないことになりましょうから、長年の約束を違えず、夫婦でお互いに世話をしあうのだと、お思いください」と、なだめ申し上げなさると、(北の方)「あなたのつらいお仕打ちは、何とも思っておりません。世間の人とは違うわが身の辛さを、父宮もご心配になって、今さらに物笑いの種になることと御心を悩ませていらっしゃるということですので、それがお気の毒で、どうして顔を合わせられましょう。また大殿の北の方(紫の上)と申し上げる方も、私と他人ではいらっしゃいません。あの方(紫の上)は、知らぬままに成人なさった方で、後から、あのように他人(玉鬘)の母親めいた立場になられたのですが、その辛さを父宮(式部卿宮)はご存知で、私にも同じ辛さをさせまいと心配して私におっしゃるのですが、私としては、そんな他人の親めいた立場になることなどは、なんとも思いません。ただ貴方がなさることの行く末を見とどけるだけです」とおっしゃると、(髭黒)「まことによくおっしゃってくれましたが、いつものご発作が起これば、苦しいことも起こってきましょう。こちらの家庭状況については、大殿の北の方(紫の上)はご存知ではありません。あの方(紫の上)は、深窓のご令嬢のように過ごしていらっしゃるので、こんなにさげずまれている人(玉鬘もしくは髭黒)の事情まではご存知ではないでしょう。式部卿宮はあの方(紫の上)の親らしからぬなさりようでいらっしゃいます(だから宮は紫の上の事情について何もご存知ないでしょう)。こうした家庭状況について六条院方に知られたら、ひどく面倒なことになりましょう」など、大将は一日中自邸にこもって、北の方をご説得申し上げなさる。

語句

■住まひなどの 以下、北の方の住居の荒れた様子。前も「年ごろは荒らし埋もれ」(【真木柱 05】)とあった。 ■玉を磨ける 六条院で玉鬘を見馴れていることをいう。 ■思ひのどむる 「のどむ」は控えめにする。ゆるめる。ここでは夫の浮気に目くじらを立てず見逃すことをいう。 ■世の人にも似ぬ 貴女の物の怪わずらいのために私は苦労してきたと、さりげなく恩を着せる。 ■ここら思ひしづめつつ たびたびの発作に苦労しつつ、我慢してやってきたの意。 ■えさしもあり果つまじき 北の方が実家に帰るのを引き留めようとするのである。 ■思しうとむな 「な」は感動の終助詞。 ■とざまかうざまにつけて 夫婦関係からいっても、子らのことからいっても。 ■ねたげに心やまし 髭黒大将が言うことを、北の方は侮辱ととる。 ■御召人だちて… 女房として仕えながら、同時に主人(髭黒)との関係を持つ者。 ■うつし心ものしたまふほどで この時、北の方は物の怪の支配下になく、正気である。なのでその悲しみは真実の悲しみである。 ■ほけたり 「惚く」はぼける。 ■ひがひがし 「僻僻し」。ふつうでない。 ■うき身のゆかり 物の怪に取り憑かれているようない身との縁で。 ■ひはづにて 「ひはづ」は細く弱々しいこと。 ■けうらにて 「けうら」は「清ら」の転。美しいこと。 ■梳る 櫛を入れて髪を整えること。 ■涙にまろがれたる 涙が固まって丸くなっていること。長年手入れをしていない状態。 ■父宮に似たてまつりて 若い頃の式部卿宮(当時は兵部卿宮)について「いとよしあるさまして、色めかしうなよびたまへる」(【紅葉賀 06】)と。 ■いとまばゆき玉の台 六条院のこと。前も「玉を磨ける」とあった。 ■きすくなる 「生直《きすく・きすぐ》」は素直で飾り気がないこと。 ■憎げなること 北の方が玉鬘に嫉妬しているということ。 ■語らひてものしたまへ 玉鬘と仲良くなさってくださいの意。 ■とてもかうでも 貴女が実家にもどろうが、もどるまいが。 ■かたみに後見む 夫婦でお互いに世話をしあうこと。 ■世の人にも似ぬ身のうき 物の怪をわずらっていること。 ■いかでか見えたてまつらん 北の方が実家にもどるのではないかという髭黒の怖れに対して、それを否定している。実家に帰ることはありませんと。 ■大殿の北の方 紫の上。北の方とは異母姉妹の関係。 ■かれは、知らぬさまにて 紫の上は式部卿宮の娘だが、幼いころ源氏にさらわれて、源氏のもとで成長した。 ■かく人の親だちて 紫の上が玉鬘を母親がわりに養育しているという。実際に玉鬘を養育しているのは花散里だが。北の方の考えでは紫の上が養育していることになっている。 ■思ほしのたまふなれど 主語は式部卿宮。紫の上も北の方も、ともに式部卿宮の娘である。式部卿宮は、紫の上が母親がわりに他人(玉鬘)を養育している辛さを知っているからこそ、北の方に同じ辛さを味わわせたくないと思うのである。 ■ともかくも思はず 暗に「実家にもどることはしない」と言っている。 ■もてないたまはんさまを… 夫に従ってこのまま邸に居続けるの意。ここの北の方の台詞は省略が多く、意味の飛躍が多く、暗号文のようにわかりづらい。行間を補い補い読まなければならないが、そもそもこんなにわかりづらく、難渋な、暗号めいた言葉が相手に伝わるのか疑問。北の方の精神疾患のさまが言葉にもあらわれているようである。 ■いとようのたまふを 「…出で来」までは前振りで、「大殿の…」以下が本論。非常にわかりにくいが、主旨としては「一、紫の上は私と玉鬘の結婚について何もご存知ない」「ニ、式部卿宮は紫の上とはほぼ絶縁状態なので、紫の上の事情についてご存知あるまい」「三、こうしたこと(北の方の発作をふくむ家庭状況)が先方(六条院)に知れたら、面倒なことになる」。髭黒の言いたい根本は三。北の方の発作をふくむ家庭内のゴタゴタが六条院に知れることによって面倒事(源氏が結婚に反対する)が起こるのをおそれている。 ■大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず 紫の上は玉鬘と髭黒の結婚についてまったく圏外で、何もご存知でないだろうの意。したがって、式部卿宮が想像しているような、紫の上と玉鬘のつながりは、ないだろうというのである。  ■かく思ひおとされたる人 玉鬘ととるが、髭黒という説もある。ただでさえ文が入り組んで意味不明な上に、「絶対に主語を書かない」という筆者のかたくなな信念により、文意を取ることはほぼ不可能になっている。 ■人の親げなくこそものしたまふべかめれ 式部卿宮は紫の上に対して親らしいふるまいはしていない=紫の上とは没交渉であると。したがって、式部卿宮が想像しているような、紫の上と玉鬘のつながりは妄想にすぎず、根拠がないと。ここの北の方の台詞と髭黒の台詞は「意味を取る」ことはほぼ不可能なので、一文一文を逐語訳するにとどめる。いつか人類の叡智によって暗号が解読される日をねがう。

朗読・解説:左大臣光永