【梅枝 02】兵部卿宮、試みに御方々の香を判定する

二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに、色も香《か》も似るものなきほどに、兵部卿宮渡りたまへり。いそぎの今日明日《けふあす》になりにけること、ととぶらひ聞こえたまふ。昔よりとりわきたる御仲なれば、隔てなく、そのことかのことと聞こえあはせたまひて、花をめでつつおはするほどに、前斎院よりとて、散りすきたる梅の枝につけたる御文|持《も》て参れり。宮、聞こし召すこともあれば、「いかなる御|消息《せうそこ》のすすみ参れるにか」とて、をかしと思したれば、ほほ笑みて、「いと馴れ馴れしきこと聞こえつけたりしを、まめやかに急ぎものしたまへるなめり」とて、御文はひき隠したまひつ。

沈《ぢん》の箱に、瑠璃《るり》の坏《つき》二《ふた》つ据《す》ゑて、大きにまろがしつつ入れたまへり。心葉《こころば》、紺瑠璃《こんるり》には五葉《ごえふ》の枝、白きには梅を彫《ゑ》りて、同じくひき結びたる糸のさまも、なよびかになまめかしうぞしたまへる。「艶《えん》なるもののさまかな」とて、御目とどめたまへるに、

花の香は散りにし枝にとまらねどうつらむ袖にあさくしまめや

ほのかなるを御覧じつけて、宮はことごとしう誦《ず》じたまふ。宰相《さいしやうの》中将、御使尋ねとどめさせたまひて、いたう酔《ゑ》はしたまふ。紅梅襲《こえばいがさね》の唐《から》の細長《ほそなが》添へたる女の装束《さうぞく》かづけたまふ。御返りもその色の紙にて、御前の花を折らせてつけさせたまふ。宮、「内《うち》のこと思ひやらるる御文かな。何ごとの隠《かく》ろへあるにか、深く隠したまふ」と恨みて、いとゆかしと思したり。「何ごとかははべらむ。隈々《くまぐま》しく思したるこそ苦しけれ」とて御|硯《すずり》のついでに、

花の枝《え》にいとど心をしむるかな人のとがめん香をばつつめど

とやありつらむ。

「まめやかにはすきずきしきやうなれど、またもなかめる人の上《うへ》にて、これこそは道理《ことわり》の営《いとな》みなめれと、思ひたまへなしてなん。いと見にくければ、疎《うと》き人はかたはらいたさに、中宮まかでさせたてまつりてと思ひたまふる。親しきほどに馴れきこえ通へど、恥づかしきところの深うおはする宮なれば、何ごとも世の常にて見せたてまつらん、かたじけなくてなむ」など、聞こえたまふ。「あえものも、げにかならず思しよるべきことなりけり」と、ことわり申したまふ。

このついでに、御方々の合はせたまふども、おのおの御使して、「この夕暮のしめりに試みん」と聞こえたまへれば、さまざまをかしうしなして奉りたまへり。「これ分かせたまへ。誰に見せん」と聞こえたまひて、御|火取《ひとり》ども召して試みさせたまふ。「知る人にもあらずや」と卑下《ひげ》したまへど、言ひ知らぬ匂《にほ》ひどもの、進み、後《おく》れたる、香一種《かうひとくさ》などが、いささかの咎《とが》をわきて、あながちに劣りまさりのけぢめをおきたまふ。かのわが御二種《おほむふたくさ》のは、今ぞ取《と》う出《で》させたまふ。右近《うこん》の陣《ぢん》の御|溝水《かはみず》のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出づる、汀《みぎは》近う埋《うづ》ませたまへるを、惟光《これみつ》の宰相《さいしやう》の子の兵衛尉《ひやうゑのぞう》掘りてまゐれり。宰相中将取りて伝へまゐらせたまふ。宮、「いと苦しき判者《はんざ》にも当《あた》りてはべるかな。いとけぶたしや」と悩みたまふ。同じうこそは、いづくにも散りつつひろごるべかめるを、人々の心々に合はせたまへる、深さ浅さを嗅《か》ぎ合はせたまへるに、いと興あること多かり。

さらにいづれともなき中に、斎院の御|黒方《くろばう》、さ言へども、心にくく静かなる匂ひことなり。侍従《じじゆう》は、大臣《おとど》の御《おほむ》は、すぐれてなまめかしうなつかしき香《か》なりと定めたまふ。対の上の御《おほむ》は、三種《みくさ》ある中に、梅花《ばいくわ》はなやかに今めかしう、すこしはやき心しらひをそへて、めづらしき薫《かを》り加はれり。「このごろの風にたぐへんには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」とめでたまふ。夏の御方には、人々の香《かう》心々にいどみたまふなる中に、数々にも立ち出でずやと、けぶりをさへ思ひ消えたまへる御心にて、ただ荷葉《かえふ》を一種《ひとくさ》合はせたまへり。さま変り、しめやかなる香《か》して、あはれになつかし。冬の御方にも、時々によれる匂ひの定まれるに、消《け》たれんもあいなしと思して、薫衣香《くのえかう》の方《はう》のすぐれたるは、前《さき》の朱雀院《すざくゐん》のをうつさせたまひて、公忠朝臣《きむただのあそむ》の、ことに選び仕うまつれりし百歩《ひやくぶ》の方《はう》など思ひえて、世に似ずなまめかしさをとり集めたる、心おきてすぐれたりと、いづれをも無徳《むとく》ならず定めたまふを、「心ぎたなき判者《はんざ》なめり」と聞こえたまふ。

月さし出でぬれば、大御酒《おほみき》などまゐりて、昔の物語などしたまふ。霞《かす》める月の影心にくきを、雨のなごりの風すこし吹きて、花の香《か》なつかしきに、殿《おとど》のあたりいひ知らず匂ひみちて、人の御心地いと艶《えん》なり。

蔵人所《くらうどどころ》の方《かた》にも、明日《あす》の御遊びのうち馴らしに、御|琴《こと》どもの装束《さうぞく》などして、殿上人《てんじやうびと》などあまた参りて、をかしき笛の音《ね》ども聞こゆ。内《うち》の大殿《おほひどの》の頭《とうの》中将、弁《べんの》少将なども、見参《げさん》ばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御|琴《こと》ども召す。宮の御前《おまへ》に琵琶《びは》、大臣《おとど》に箏《さう》のまゐりて、頭中将|和琴《わごん》賜はりて、華やかに掻《か》きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。宰相中将|棋笛《よこぶえ》吹きたまふ。をりにあひたる調子、雲ゐとほるばかり吹きたてたり。弁少将|拍子《ひやうし》とりて、梅《むめ》が枝《え》出だしたるほど、いとをかし。童《わらは》にて、韻塞《ゐんふたぎ》のをり、高砂《たかさご》うたひし君なり。宮

現代語訳

二月の十日、雨がすこし降って、お庭先の紅梅が花の盛りで、色も香りもくらべるものとてない時分に、兵部卿宮がおいでになった。御裳着のご準備が今日明日になった忙しさを、お見舞いしようと参られたのである。大臣(源氏)と兵部卿宮とは、昔から特別に御仲がよくていらっしゃるので、隔てなく、あれこれお話あいになって、花を愛でつついらした時に、前斎院(朝顔)からということで、花がかろうじて散り残った梅の枝につけた御文を持って参った。宮は、お聞きになっていらっしゃる噂もあるので、「どのような御手紙をおよこしになられたのか」と、興味深げにお思いなっていらっしゃると、大臣(源氏)は、「ひどく馴れ馴れしいことをお願い申し上げてあったのを、きまじめに急いでなさってくださったのでしょう」といって、お手紙はすっとお隠しになった。

沈の箱に、瑠璃の香壺《こうご》をふたつ入れて、大きく丸めながら入れていらっしゃる。心葉としては、紺瑠璃のには五葉の松の枝を、白瑠璃のには梅を彫刻して、同じように結んである飾り糸のさまも、しなやかに優美につくろっていらっしゃる。(螢兵部卿宮)「しみじみと風情のある作りですね」といって、御目をそそいでいらっしゃると、

(朝顔)花の香は……

(薫物の梅の花の香は、花が散ってしまった枝(私)にはつきませんが、姫君の袖には深く染みつきましょう)

うっすらとこう書いてあるのをお見つけになって、宮は仰々しくこの御歌をお口ずさみになる。宰相中将(夕霧)が、この前斎院からの御使をさがして、お引きとどめになって、たいそうお酒をおふるまいになる。紅梅襲の唐来の細長を添えた、女ものの装束を、禄として肩にかずけておやりになる。大臣からのご返事も同じ色の紙で、お庭先の紅梅の花を折らせておつけになる。宮は、「何が書いてあるか興味深いお手紙ですね。何を隠していらっしゃるのか。深くお隠しになられることですよ」と恨みごとをおっしゃって、たいそう興味深くお思いになっていらっしゃる。

(源氏)「何ということもないのですよ。やましいことがあるように邪推なさるのは困りますね」と、筆のついでに、

(源氏)「花の枝に……

(貴女は人に咎められるのではないかと花の香を隠していらっしゃいますが、私はその花の枝にこそ、いやましに心惹かれるのですよ)

とでもあったのだろうか。

(源氏)「こうまで熱心にやるのは、物好きがすぎるようですが、二人といない娘のことですから、今度のことはこうするのが当然のつとめだろうと思いましてね。ひどく不器量な娘ですから、ふだん付き合いのうすい人には、お目にかけるのも気が引けますから、中宮(秋好中宮)にお里さがりしていただいて、と思ってございます。親しい間柄としていつもご交際いただいおりますが、中宮は、こちらが深く気後れするほどご立派な御方でいらっしゃいますので、何ごとも並大抵の準備でお見せ申し上げることは、畏れ多いことでございますから」など、申し上げなさる。
(螢兵部卿宮)「中宮にあやかるのも、なるほど、必ずそれは考えるべきことですよ」と、それが理にかなっていることを申し上げなさる。

この機会に、御方々のご調合された数々の薫物を、それぞれに御使を送って、「この夕暮のしめりに試してみましょう」と申し上げなさると、さまざまに趣向をこらして大臣のもとにおとどけになられた。

(源氏)「これを判定なさってください。貴方以外に『誰にか見せん』ですよ」と申し上げられて、数々の御火取を取り寄せて、薫物の試みをおさせなる。宮は、「私は『知る人』でもございませんよ」と卑下なさるけれど、なんとも言いようのないさまざまな匂いの、すぐれている点、劣っている点、ある一種の香木などが、すぐれた中にもほんの少し劣っているのなどを判定して、しいて優劣の区別をおつけになる。かの、大臣(源氏)ご自身の二種の御香は、今はじめてお取り出しになる。

右近衛の陣の御溝水《みかわみず》のほとりに埋めておく例になぞらえて、西の渡殿の下から流れ出ている遣水の、汀の近くに埋めさせなさっていたのを、惟光の宰相の子の兵衛尉《ひょうえのじょう》が掘り出して持ってまいった。惟光の宰相の子の兵衛尉《ひょうえのじょう》が掘り出してまいった。宰相中将(夕霧)がこれを取り次いで、大臣(源氏)に差し上げなさる。宮は、「なんとまあ大変な判者にされてしまったものですね。まことに煙たいことですよ」とお悩みになる。薫物の調合法は、人々が思い思いに調合なさった、そのその深さ浅さを嗅ぎ分けなさるにつけ、まことに興深いことが多いのだ。

まったくどれが良い悪いとも判定のつけようがない中に、朝顔の斎院の御調合なさった御黒方は、ああして謙遜なさったが、奥ゆかしくしっとり落ち着いた匂いが格別である。侍従、すなわち大臣が御調合なさったのは、たいそう優美で心惹かれる香であると判定なさる。対の上(紫の上)がご調合なさったのは、三種類ある中に、梅花がはなやかに今風に洗練されており、すこし鋭い心づかいを添えて、めずらしい香りが加わっている。(螢兵部卿宮)「このごろの春風にのせて香らせるには、まったくこれにまさる匂いはないでしょう」とおほめになる。

夏の御方(花散里)は、他の方々が思い思いに香を調え競っておられるという中に、自分などは人数の中にも入らないのではと、煙までも、ご遠慮なさっているお気持ちで、ただ荷葉だけを一種、御調合になられた。それが普通とかわっていて、しめやかな香りがして、しみじみと心惹かれる。冬の御方(明石の君)も、季節季節によって調合すべき匂が決まっているのだが、それに圧倒されるのもつまらないとお思いになって、薫衣香《くのえこう》のすぐれた調合法は、宇多の帝の御方を朱雀院が伝えてあそばして、公忠朝臣が、特別に選びととのえられたという百歩の方などを思いつかれて、世にまたとない優美な香をとり集めている、その心遣いがすぐれていると、どれを取ってもそれぞれの長所を判定なさるので、(源氏)「思い切りの悪い判者のようですな」と申し上げなさる。

語句

■兵部卿宮 螢兵部卿宮。源氏の弟。 ■御いそぎ 姫君の御裳着の準備。 ■前斎院 朝顔の姫君。 ■聞こし召すこと 源氏と朝顔の姫君の関係について。 ■まめやかに急ぎものしたまへるなめり 朝顔の姫君に香の調合を依頼していた。 ■沈 沈香木でつくった箱。 ■瑠璃 ガラスの一種。 ■坏 壺。 ■心葉 梅・松の枝などを模した飾り物。 ■なよびかに やわらかいさま。しなやかなさま。 ■花の香は… 「散りにし枝」が朝顔の姫君。「袖」は明石の姫君の袖。 ■ほのかなる 薄墨でうっすらと書いてある。 ■御覧じつけて 「見つけて」の敬語。 ■紅梅襲 表は紅、裏は紫。 ■唐の 唐来の織物。 ■細長 女性のふだん着。小袿の上に着る。 ■女の装束かづけ 禄として女ものの装束を肩にかけるのが作法。 ■その色 紅梅色。 ■内のこと思ひやらるる 兵部卿宮は源氏が朝顔の姫君に執心なのを知っているので興味をもつ。 ■隈々しく 「隈々し」は後ろ暗い、心に秘密を持つ。 ■まめやかに… 薫物合わせなどをここまで熱心にやるのは物好きが過ぎるようだが、二人といない娘のことだからの意。 ■いと見にくければ 源氏はわが娘(明石の姫君)のことを謙遜して言う。 ■疎き人はかたはらいたさに 親しくない人に娘を見せるのも、腰結役をたのむのも気が引けるので。 ■中宮 秋好中宮。源氏と紫の上が親代わり。この時点では宮中に出仕しているが、六条院西南の町が里である。 ■あえものも 秋好中宮にあやかっての意。相人の予言(【澪標 05】)により、源氏も姫君を将来の中宮と考えている。 ■この夕暮のしめりに この夕暮、空気が湿っているのに乗じて。前に「雨すこし降りて」とあった。空気が湿っていると薫物がよく香る。 ■分かたせたまへ 薫物の優劣の判定を、源氏が螢兵部卿宮にたのむ。 ■誰にか見せん 「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」(古今・春上 紀友則)による。次の螢兵部卿宮の「知る人にもあらずや」もこの歌から。 ■かのわが御二種の 源氏が調合した二種の薫物。黒方と侍従。 ■右近の陣の御溝水 右近衛府の陣は月華門内。清涼殿の方から御溝水が流れる。月下門は紫宸殿南庭の西側の門。 ■汀近う埋ませたまへる 湿気の多い土の中に埋めることにより香りが深くなる。 ■惟光の宰相の子の兵衛尉 五節の舞姫になった娘の弟か(【少女 26】)。惟光が宰相になったことは初出。 ■苦しき判者 判定するのが難しくつらい判者であるの意。 ■けぶたしや 「煙たし」閉口するの意。また薫物の縁語。 ■人々の心々に合はせたる 六条院の御方々がそれぞれに趣向をこらして。 ■黒方 「黒方」も次の「侍従」「梅花」も薫物の名。 ■大臣の御 源氏が調合した薫物。「御」は「御薫物」の省略形。 ■三種 斎院の黒方、源氏の侍従、紫の上の梅花。 ■夏の御方 花散里。六条院東北の町にすむ。玉鬘の養育者。 ■けぶりをさへ思ひ消えたまへる御心 優劣の判定を受けるどころか、その前段階である香の煙を立てることにまでも消極的になるの意。花散里の人柄をよくあらわす。 ■荷葉 夏向きの薫物の名。 ■冬の御方 明石の君。六条院西北の冬の町にすむ。この呼称はここのみ。 ■薫衣香 衣装に焚きしめるための香。 ■前の朱雀院 実在の宇多天皇のこと。譲位後、朱雀院と称した。『源氏物語』中の朱雀院(源氏の兄)に対して、前の朱雀院とよぶらしい。 ■公忠朝臣 源公忠(889-948)。三十六歌仙の一人。醍醐・朱雀帝に仕えた。和歌・香・鷹の道に長けた。 ■百歩の方 調合法の名。百歩離れたところからでも香るの意。 ■無得ならず 欠点を批判するのではなく長所をほめるの意。螢兵部卿宮の人柄がでている。 ■心ぎたなき判者 当たりさわりのないことばかり言うので判者としての切れに欠けると冗談めかしていう。

朗読・解説:左大臣光永