【梅枝 03】方々、月前の酒宴に興じる

月さし出でぬれば、大御酒《おほみき》などまゐりて、昔の物語などしたまふ。霞《かす》める月の影心にくきを、雨のなごりの風すこし吹きて、花の香《か》なつかしきに、殿《おとど》のあたりいひ知らず匂ひみちて、人の御心地いと艶《えん》なり。

蔵人所《くらうどどころ》の方《かた》にも、明日《あす》の御遊びのうち馴らしに、御|琴《こと》どもの装束《さうぞく》などして、殿上人《てんじやうびと》などあまた参りて、をかしき笛の音《ね》ども聞こゆ。内《うち》の大殿《おほひどの》の頭《とうの》中将、弁《べんの》少将なども、見参《げさん》ばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御|琴《こと》ども召す。宮の御前《おまへ》に琵琶《びは》、大臣《おとど》に箏《さう》のまゐりて、頭中将|和琴《わごん》賜はりて、華やかに掻《か》きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。宰相中将|棋笛《よこぶえ》吹きたまふ。をりにあひたる調子、雲ゐとほるばかり吹きたてたり。弁少将|拍子《ひやうし》とりて、梅《むめ》が枝《え》出だしたるほど、いとをかし。童《わらは》にて、韻塞《ゐんふたぎ》のをり、高砂《たかさご》うたひし君なり。宮も大臣もさしいらへしたまひて、ことごとしからぬものから、をかしき夜《よ》の御遊びなり。御|土器《かはらけ》まゐるに、宮、

「鶯のこゑにやいとどあくがれん心しめつる花のあたりに

千代《ちよ》も経《へ》ぬべし」と聞こえたまへば、

色も香もうつるばかりにこの春は花さく宿をかれずもあらなん

頭中将に賜へば、とりて宰相中将にさす。

うぐひすのねぐらの枝もなびくまでなほ吹きとほせ夜はの笛竹

「心ありて風の避《よ》くめる花の木にとりあへぬまで吹きやよるべき

情《なさけ》なく」と、みなうち笑ひたまふ。弁少将、

かすみだに月と花とをへだてずはねぐらの鳥もほころびなまし

まことに明け方になりてぞ、宮帰りたまふ。御贈物に、みづからの御|料《れう》の御|直衣《なほし》の御よそひ一|領《くだり》、手ふれたまはぬ薫物《たきもの》二壺《ふたつぼ》添へて、御車に奉らせたまふ。宮、

花の香《か》をえならぬ袖にうつしもて事あやまりと妹《いも》やとがめむ

とあれば「いと屈《くん》じたりや」と笑ひたまふ。御車|繋《か》くるほどに追ひて、

「めづらしと古里人《ふるさとびと》も待ちぞみむ花のにしきを着てかへる君

またなきことと思さるらむ」とあれば、いといたうからがりたまふ。次々の君たちにも、ことごとしからぬさまに、細長|小袿《こうちき》などかづけたまふ。

現代語訳

月がのぼってきたので、人々は大御酒などを召し上がって、昔のお話などなさる。霞む月影が奥ゆかしいのを、雨の後の風がすこし吹いて、花の香がしみじみ風情ある中、御殿のあたりはいいようもなく薫物の匂いに満ちて、人々のお気持ちはたいそう優美なふうである。

蔵人所の詰所ほうにも、明日の管弦の御遊びの手ならしということで、数々の御琴の支度などをして、殿上人などが大勢まいって、風情ある笛の音がさまざまに聞こえる。内大臣家の頭中将(柏木)、弁少将なども、参上したことを記帳しただけで退出するのを、お引き止めになって、御琴をいくつかお取り寄せになる。兵部卿宮の御前に琵琶、大臣(源氏)に箏の御琴を差し上げて、頭中将は和琴を賜って、華やかに掻きたてているようすは、まことに趣深く聞こえる。宰相中将(夕霧)が横笛をお吹きになる。今の季節にぴったりな調子で、空高く響きとおるほどに吹きたてている。弁少将が拍子をとって、「梅が枝」を歌い出した風情は、とてもおもしろい。この弁少将は、童であられた頃、韻塞をなさった折、「高砂」をうたった君である。宮も、大臣も、お声をあわせてお歌いになり、そう大げさなものではないが、風情ある夜の管弦の御遊びである。お盃を差し上げると、宮は、

(螢兵部卿宮)「うぐひすの……

(私の心をいっぱいにする梅の花の咲くあたり…ここ六条院に、うぐいすの声のようなすばらしい歌声を聞けば、いよいよ心は浮き立つでしょう)

千代も過ごしてしまいそうですよ」と申し上げなさると、

(源氏)色も香も……

(花の色も香もしみついてしまうほどに、今年の春は花さく宿…ここ六条院から離れずにいてほしいですよ)

大臣(源氏)が頭中将(柏木)に盃をおさしになると、それを取って、次に宰相中将(夕霧)にさす。

(柏木)うぐひすの……

(うぐいすが寝ぐらとしている枝もなびくほどに、やはり、吹き通せ夜半の笛竹よ)

宰相中将、

(夕霧)「風も心遣いあって避けているらしい花の木に、鳥がいたたまれなくなるほどまでに、笛を吹いて近寄ってよいものでしょうか」

情けないこと」と、みなでお笑いになる。弁少将は、

(弁少将)かすみだに……

(霞が、月と花とをへだてさえしなければ、その明るさによって、寝ぐらの鳥も鳴きだすことでしょう)

しかし実際には明け方になって、宮はお帰りになる。御贈り物として、大臣ご自身の御召し物の御直衣のご装束をひと揃い、手をおつけになっていない薫物を二壺そえて、御車に差し上げなさる。宮は、

(螢兵部卿宮)花の香を……

(花の香を、なんともいえないほど見事な袖にうつして持って帰っては、私がよその女性と過ちを犯したと妻がとがめるでしょう)

とお詠みになるので、(源氏)「ひどく気が弱いことですな」とお笑いになる。御車を牛につなぐところまで追いかけて、

(源氏)「めづらしと……

(お里の人も待っていて、花の錦を着て帰る貴方のことを、珍しいこととして見るでしょう)
またとないこととして、お思いになるでしょう」と詠むので、宮は、ずいぶん辛辣だとお思いになる。兵部卿宮につぐお客人方にも、大臣は、大げさにならない程度に、細長や小袿などを肩にかけておやりになる。

語句

■蔵人所 宮中の蔵人の詰所に見立てた、六条院内の詰所。家の事務を執り行う者が詰めている。 ■装束などして 弦を張ったり、琴柱を立てたりといった準備。 ■見参ばかりにて 参上したことを記帳しただけで。 ■箏の琴 十三絃の琴。 ■和琴 日本古来の六弦の琴。【常夏 03】にくわしい。内大臣と柏木父子は和琴の名手。 ■弁少将 声がよい人物(【初音 09】【篝火 03】)。 ■梅が枝 「梅が枝に、来ゐる鶯、や、春かけて、はれ、春かけて、鳴けどもいまだ、や、雪は降りつつ、あはれ、そこよしや、雪は降りつつ」(催馬楽・梅が枝)。 ■童にて 【賢木 32】。 ■さしいらへ ここでは声をあわせて唱和すること。 ■御土器まゐる 盃をさす。そのとき歌を詠むのが作法。 ■うぐひすの… 催馬楽の歌詞をふまえる。「花のあたり」は紅梅の花の咲いている六条院。 ■千代も経ぬべし 「いつまでか野辺に心のあくがれむ花し散らずは千代もへぬべし」(古今・春下 素性)。 ■花も香も… 「うつる」は花の色や香りが宮の身につくこと。 ■頭中将に賜へば 源氏が盃を柏木にさし、柏木はそれを受け取って歌を詠んでから、さらに夕霧に盃をさす。盃を受けたら歌をよむのが作法。 ■うぐひすの… 夕霧の笛の音をほめる。「吹きとほす」は笛の音を出し切る。 ■心ありて… 「心ありて」は本来心のない風にえ心を感じて、花の木のあまりのすばらしさゆえに避けているのではないかと見る。松尾芭蕉「五月雨の降のこしてや光堂」に通じる風情。「とりあえぬまで」は「手に取るものも取ることができぬほど」から、余裕がない状態。「花の木」の縁語の「鳥」をかける。 ■かすみだに… 「ほころぶ」は花が蕾から開花すること。転じてここでは鳥が鳴き出すこと。 ■まことに明け方になりてぞ 兵部卿宮は「鳥はまだ夜明け前に鳴くだろう」という内容の歌をよんだが、歌の内容に反して実際には明け方に帰ったの意。 ■御贈物 兵部卿宮が薫物の判者をつとめたことに対しての贈物。 ■みづからの御料の御直衣 源氏自身の衣服である直衣。 ■御よそひ 装束。 ■一領 一揃。直衣・烏帽子・指貫の三点をいうか。 ■手ふれたまはぬ薫物 昨夜の薫物合わせに使わなかった、手つかずの薫物。 ■花の香を… 「えならぬ袖」は源氏から贈られた直衣。「事あやまり」は女性と間違いを犯すこと。「妹」は深い関係の女性。とくに妻。ただし「兵部卿宮、はた、年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、この三年ばかり独り住みにてわびたまへば」(【胡蝶 01】)とある。また一方で「宮は、独りものしたまふやうなれど、人柄いといたうあだめいて、通ひたまふ所あまた」(【胡蝶 04】)とも。ただし冗談事なので実際に妻がいるかどうかは問題ではない。 ■めずらしと… 「古里人」は「妹」に同じ。「花のにしきを着てかへる」は『史記』項羽本紀の「富貴ニシテ故郷ニ帰ラズハ、錦ヲキテ夜行クガ如シ」による。また『漢書』朱買臣伝にも同じ文句がある。『平家物語』巻七「実盛」に引用されている。

朗読・解説:左大臣光永