【梅枝 06】源氏、当今の女性たちの筆跡を論じ、方々に宿題を出す

「よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなん今の世はいと際《きは》なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、ひろき心ゆたかならず、一筋に通ひてなんありける。妙《たへ》にをかしきことは、外《と》よりてこそ書き出づる人々ありけれど、女手《をむなで》を心に入れて習ひしさかりに、こともなき手本多く集《つど》へたりし中に、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書いたまへりし一行《ひとくだり》ばかり、わざとならぬをえて、際《きは》ことにおぼえしはや。さてあるまじき御名も立てきこえしぞかし。悔《くや》しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。宮にかく後見《うしろみ》仕うまつることを、心深うおはせしかば、亡《な》き御影にも見なほしたまふらん。宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらん」と、うちささめきて聞こえたまふ。「故入道の宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞ少なかりし。院の尚侍《ないしのかみ》こそ今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは書きたまはめ」とゆるしきこえたまへば、「この数にはまばゆくや」と聞こえたまへば、「いたうな過ぐしたまひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真字《まんな》のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそまじるめれ」とて、まだ書かぬ草子ども作り加へて、表紙紐などいみじうせさせたまふ。「兵部卿宮、左衛門督《さゑもんのかみ》などにものせん。みづから一具《ひとよろひ》は書くべし。気色ばみいますがりとも、え書きならべじや」と、我《われ》ぼめをしたまふ。

墨、筆ならびなく選《え》り出《い》でて、例の所どころに、ただならぬ御|消息《せうそこ》あれば、人々難《かた》き事に思して、返さひ申したまふもあれば、まめやかに聞こえたまふ。高麗《こま》の紙の薄様《うすやう》だちたるが、せめてなまめかしきを、「このもの好みする若き人々試みん」とて、宰相《さいしやうの》中将、式部卿宮の兵衛督《ひやうゑのかみ》、内《うち》の大殿《おほいどの》の頭《とうの》中将などに、「葦手《あしで》歌絵《うたゑ》を、思ひ思ひに書け」とのたまへば、みな心々にいどむべかめり。

現代語訳

(源氏)「万事、昔より劣っているように、浅薄になっていく末の世ですが、仮名だけは、今の世はまことに際限なくすばらしくなっております。古い昔の筆跡は、決まった書法にかなっているようではありますが、広いゆたかな心がなく、一つの型にはまっているのです。優美でおもむきがあることにおいては、後の時代になってからはじめて書き出す人々が出てきたのですが、私が女文字を熱心に習っていた盛りのころ、よい手本を多く集めていた中に、中宮の母御息所(六条御息所)の、むぞうさに走り書きなさった一行ほどの、とくにどうとうこともないのを手に入れて、格別にすぐれていると思ったものでした。その後、御息所と、あってはならない浮名をお立て申すことにもなったのでした。御息所は、私との仲を無念なことと思いつめておられましたが、私はそれほど不実でもなかったのですよ。中宮(秋好中宮)をこうしてお世話申し上げていることを、御息所は思慮深い御方でいらっしゃいましたので、草葉の陰にも私のことを見直してくださっていることでしょう。中宮のご手跡は、こまやかで趣深いですが、才気に欠けているようです」と、ささやき申し上げなさる。(源氏)「故入道の宮(藤壺)のご手跡は、たいそう深いお気持ちが出ていて優美なところはありましたが、か弱いところがあって、余情に欠けていました。院の尚侍(朧月夜)こそ今の世の名人でいらっしゃいますが、あまりに洒落っ気がありすぎて癖が強いようです。それぞれ、そうした欠点はありながらも、かの朧月夜の君と、前斎院(朝顔の姫君)と、貴女(紫の上)とは、よくお書きになられるというべきでしょう」とお認め申し上げなさると、(紫の上)「その人々の中に入れられては、気恥ずかしゅうございますわ」と申し上げなさると、(源氏)「そう謙遜なさるものではありませんよ。和やかな方面で好ましいことは、格別なのですから。一般に、漢字がうまくなってくるにつれて、仮名はまとまりのない文字がまじるようです」と、まだ何も書いていない数々の草子を作り加えて、表紙や紐などは立派にととのえさせなさる。(源氏)「兵部卿宮、左衛門督などにも書いてもらいましょう。私も一そろいは書きましょう。たとえこの御方々が本気でお書きになったとしても、私がそれと同等に書けないということがございましょうか」と、自画自賛なさる。

最上の墨と筆をお選び出して、例によって御方々のところへ、特別のご依頼状をさしあげると、人々は難しい依頼だとお思いになり、何度もご辞退申し上げなさる方もあるので、大臣(源氏)は、真剣にお願い申し上げなさる。高麗の紙で、薄様めいたのが、まことに優美なので、(源氏)「このえり好みの強い若い人々を試してみよう」と、宰相中将(夕霧)、式部卿宮の兵衛督、内大臣の頭中将(柏木)などに、(源氏)「葦手や歌絵を、すきにお書きなさい」と仰せになると、人々は思い思いに挑戦するようである。

語句

■仮名 仮名の書。 ■一筋に通ひて どれも似たりよったりで個別化できていないの意。 ■外よりて 近年になって。 ■女手 仮名文字。当時、女性は漢字を使わない。 ■こともなき これといった欠点のない。 ■中宮の母御息所 秋好中宮の母、六条御息所。 ■心にも入れず とくに意識して書いたわけではなく。 ■うちささめきて 中宮に対する批評であるから。「うちささめく」相手は紫の上。 ■にほひ 余情・品格。 ■院の尚侍 朧月夜。朱雀院の後宮に入り尚侍をつとめている。 ■そぼれて 「戯《そぼ》る」はしゃれる。 ■まばゆくや 「まばゆし」は恐縮である。気恥ずかしい。 ■にこやかなる方 「にこやか」はなごやか。やわらかみ。 ■真字の… この一文一般論ととったが、紫の上の筆跡に対する批評ととる説も。 ■まだ書かぬ草子ども 白紙を閉じ重ねて冊子とする。これから御方々に書いてもらうのである。 ■左衛門督 この巻にだけ登場。 ■ただならぬ御消息 熱心にお願いする依頼状。 ■返さひ申したまふ 「返さふ」は「返す」に繰り返しの「ふ」がついたもの。何度も辞退する。 ■高麗の紙の薄様 高麗渡来の紙で、薄い鳥の子紙風の紙。 ■せめて 甚だしいさま。 ■式部卿宮 紫の上の父。 ■兵衛督 紫の上の腹違いの兄。以前は「左兵衛督」とあった(【藤袴 07】)。 ■葦手 水際に葦が生えている絵の中に、葦や水に模して書いた文字。 ■歌絵 歌に、その内容をしめす絵を添えたもの。

朗読・解説:左大臣光永