【藤裏葉 03】内大臣、藤の宴にことよせて夕霧を招く

ここらの年ごろの思ひのしるしにや、かの大臣《おとど》も、なごりなく思し弱りて、はかなきついでの、わざとはなく、さすがにつきづきしからんを思すに、四月の朔日《ついたち》ごろ、御前《おまへ》の藤の花、いとおもしろう咲き乱れて、世の常の色ならず、ただに見過ぐさむこと惜しき盛りなるに、遊びなどしたまひて、暮れゆくほどのいとど色まされるに、頭《とうの》中将して御|消息《せうそこ》あり。「一日《ひとひ》の花の蔭《かげ》の対面《たいめん》の、飽かずおぼえはべりしを、御|暇《いとま》あらば立ち寄りたまひなんや」とあり。御文には、

わが宿の藤の色こきたそかれに尋ねやはこぬ春のなごりを

げにいとおもしろき枝につけたまへり。待ちつけたまへるも、心ときめきせられて、かしこまりきこえたまふ。

なかなかに折りやまどはむ藤の花たそかれどきのたどたどしくは

と聞こえて、「口惜しくこそ臆《おく》しにけれ。とり直したまへよ」と聞こえたまふ。「御供にこそ」とのたまへば、「わづらはしき随身《ずいじん》はいな」とて帰しつ。

大臣の御前《おまへ》に、かくなんとて御覧ぜさせたまふ。「思ふやうありてものしたまへるにやあらむ。さも進みものしたまはばこそは、過ぎにし方の孝《けう》なかりし恨みも解けめ」とのたまふ、御心おごり、こよなうねたげなり。「さしもはべらじ。対の前の藤、常よりもおもしろう咲きてはべるなるを、静かなるころほひなれば、遊びせんなどにやはべらん」と申したまふ。「わざと使《つかひ》さされたりけるを、早うものしたまへ」とゆるしたまふ。いかならむと下には苦しうただなならず。「直衣《なほし》こそあまり濃くて軽《かろ》びためれ。非参議《ひさんぎ》のほど、何《なに》となき若人こそ、二藍《ふたあゐ》はよけれ、ひきつくろはんや」とて、わが御|料《れう》の心ことなるに、えならぬ御衣《おんぞ》ども具して、御供に持たせて奉れたまふ。

現代語訳

ここ数年、宰相(夕霧)が思い続けてきたかいがあったというものだろうか、かの内大臣も、以前とはうってかわって気弱になられ、ちょっとした機会の、わざとらしくはなく、そうはいってもそれにふさわしいような機会をお考えになっていたところ、四月の朔日ごろ、お庭先の藤の花が、まことに美しく咲き乱れて、世の常ならぬ見事さであり、何もせずに散らしてしまうことも惜しい盛りである時に、管弦の遊びなどなさって、日が暮れるにつれてますます美しさがまさってくるころ、頭中将(柏木)を使いとしてご連絡がある。(内大臣)「先日、花の蔭でお目にかかりましたことが、物足りなく思えましたので、お暇があればお立ち寄りくださいませんか」とある。お手紙には、

(内大臣)わが宿の……

(わが家の藤の色が濃くなっていく黄昏時に、春の名残をたずねてきてくださいませんか)

なるほど、まことに風情のある藤の枝に文を結びつけていらっしゃる。宰相(夕霧)は、待ちに待っていらっしゃったことだから、心躍りなさって、恐縮して申し上げなさる。

(夕霧)なかなかに……

(お誘いにあずかりましたが、黄昏時はあたりがよく見えないので、なまじその藤の花を手折ってよいか戸惑ってしまいます)

と申し上げて、(夕霧)「残念ですが気後れしております。文面は適当にお直しください」と申し上げなさる。(柏木)「私が御供いたしましょう」とおっしゃると、(夕霧)「面倒な御供はご遠慮します」といって頭中将を帰してしまう。

宰相(夕霧)は大臣(源氏)の御前に、「このような次第で」と内大臣からのお手紙をお目にかけなさる。(源氏)「内大臣は思うところがあって、お招きくださったのだろう。先方からそうして進んでこられるのならば、昔内大臣が大宮に対して親不孝をしたことについての、私の恨みも解けようというものだ」とおっしゃる。大臣の得意そうなさまは、まことに憎らしいほどである。(夕霧)「そんな深い意味のことではございますまい。対屋の庭前の藤が、常よりも風情深く咲いておりますそうですから、宮中の行事もなくて暇な折ですから、管弦の遊びをしようということでございましょう」と申し上げなさる。(源氏)「わざわざ御使をお差し向けになったのだから、早く参られよ」とお許しになる。中将は「どういうことなのだろう」と、内心では心配でおだやかな気持ちではない。(源氏)「ニ藍の直衣ではあまりに色が濃すぎて軽々しく見えるだろう。非参議の者で、取るに足らない身分の若い人なら、ニ藍の衣も似合おうが、貴方は宰相なのだから、もっと身だしなみをととのえたほうがよいな」といって、ご自身の御召料の、とくに立派なのに、なんともいえず見事な御衣の数々をそろえて、御供に持たせてお差し上げになられる。

語句

■四月 旧暦の初夏。藤の花が咲くころ。 ■ただに見過ぐさむこと 花見の宴など開かずにただ散るのを見送ること。 ■暮れゆくほどの 藤の色の美しさは夕暮れの中でいっそう引き立つ。「春は藤波を見る。紫雲のごとくして西方ににほふ」(方丈記)。 ■一日の花の蔭の対面 大宮の法事の日に話したこと(【藤裏葉 02】)。 ■飽かず 「あわたたしき雨風」によって帰りをいそいだため。 ■わが宿の… 夕霧を招く歌。「惆悵ス春婦ツテ留ムレドモ得ザルコトヲ 紫藤ノ花ノ下漸クニ黄昏タリ」(白氏文集巻十三・三月三十日題慈恩寺、和漢朗詠集・春・三月尽)による。「藤」は雲居雁。「娘を手に入れるなら今だ。ゆるす」の意をこめる。 ■待ちつけたまへるも 夕霧は内大臣からの連絡を内心待ちに待っていたので、心躍るのである。 ■かしこまりきこえたまふ 目上の人からのお誘いに対していったんは儀礼上、辞退する。 ■なかなかに… 内大臣のお誘いがあるのでかえって、雲居雁を得ることを躊躇してしまうの意をこめる。 ■進みものしたまはばこそは 先方から折れてきたのを「待ってました」の感がある。 ■孝なかりし 内大臣が大宮に対して親不孝をはたらいたこと。夕霧と雲居雁の関係について大宮を責めたこと(【少女 14】)。 ■御心おごり どうだこちらが勝ったぞ、の気持ち。 ■対の前の藤 内大臣の対屋の庭前の藤。 ■静かなるころほひ 宮中のこれといった行事もなく暇な折。 ■使さされたりける 「使さす」は使を差し向ける。 ■濃くて 「濃い」は赤みが濃いこと。それを否定して、縹色を想定している。 ■非参議 参議相当の四位ではあるが参議に任じらていない者。 ■ニ藍 紅花と藍で染めた色。紫色。 ■ひきつくろはんや 身だしなみをととのえること。ニ藍は夕霧の官位としては軽々しいので、縹色の衣を着るべきだとすすめている。 ■

朗読・解説:左大臣光永