【藤裏葉 14】夕霧夫妻、三条殿へ移る 父太政大臣の訪問

原文

御|勢《いきほひ》ひまさりて、かかる御住まひもところせければ、三条殿に渡りたまひぬ。すこし荒れにたるを、いとめでたく修理《すり》しなして、宮のおはしましし方を、改めしつらひて住みたまふ。昔おぼえて、あはれに思ふさまなる御住まひなり。前栽《せんざい》どもなど小さき木どもなりしも、いと繁《しげ》き蔭《かげ》となり、一叢薄《ひとむらすすき》も心にまかせて乱れたりける、つくろはせたまふ。遣水《やりみず》の水草《みくさ》も掻《か》きあらためて、いと心ゆきたるけしきなり。

をかしき夕暮のほどを、二《ふた》ところながめたまひて、あさましかりし世の、御幼さの物語などしたまふに、恋しきことも多く、人の思ひけむことも恥づかしう、女君は思し出づ。古人《ふるびと》どもの、まかで散らず、曹司《ざうし》曹司にさぶらひけるなど、参《ま》うのぼり集まりて、いとうれしと思ひあへり。男君、

なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくへは知るや宿の真清水《ましみず》

女君、

なき人のかげだに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水

などのたまふほどに、大臣、内裏《うち》よりまかでたまひけるを、紅葉《もみぢ》の色におどろかされて渡りたまへり。

「昔おはさひし御ありさまにも、をさをさ変ることなく、あたりあたりおとなしく住まひたまへるさま、華やかなるを見たまふにつけても、いとものあはれに思さる。中納言も、気色ことに顔すこし赤みて、いとど静まりてものしたまふ。あらまほしくうつくしげなる御あはひなれど、女は、またかかる容貌《かたち》のたぐひもなどかなからんと見えたまへり。男は、際《きは》もなくきよらにおはす。古人《ふるびと》どもも御|前《まへ》に所えて、神さびたることども聞こえ出づ。ありつる御手習どもの、散りたるを御覧じつけて、うちしほたれたまふ。「この水の心尋ねまほしけれど、翁《おきな》は言忌《こといみ》して」とのたまふ。

そのかみの老木はむべも朽ちぬらむ植ゑし小松も苔生ひにけり

男君の御宰相の乳母《めのと》、つらかりし御心も忘れねば、したり顔に、

いづれをも蔭とぞたのむ二葉より根ざしかはせる松のすゑずゑ

老人《おいびと》どもも、かやうの筋に聞こえあつめたるを、中納言はをかしと思す。女君はあいなく面《おもて》赤み、苦しと聞きたまふ。

現代語訳

新中納言(夕霧)がご権勢盛んになられたので、このような御住まいも手狭であるため、三条殿にお移りになった。すこし荒れてしまっていたのを、まことに立派に修理して、故大宮がおすまいであった御殿を、改修修繕してお住まいになられる。昔が思い出されて、しみじみと理想的な御住まいである。あちこちの植え込みなどはそれぞれ小さい木ではあったのが、まことに深く繁った影を作り、一叢の薄も生え放題に自由に生えているたを、お手入れさせなさる。遣水の中に生えた水草もかきはらい改めて、まことに気持ちよさそうな流れとなる。

風情ある夕暮のようすを、お二人でお眺めになって、辛かったあの頃の、幼かったご自分たちの昔話などをなさっていると、当時が恋しく思えることも多く、人がどう思っていただろうと思うと、女君は恥ずかしくお思い出しになっていらっしゃる。古参の女房たちで、散り散りに退出することなく、あちこちの局にお仕えしてい者たちなどが集まり参って、一同まことにうれしいことと思い合っている。男君、

(夕霧)なれこそは……

(宿の真清水よ、岩から漏れ流れるお前こそは、この家を守る主である。かつて見た人(大宮)のゆくえを、お前は知っているだろうか)

女君、

(雲居雁)なき人の……

(いさらゐの水をのぞいても、亡き人の姿さえ見えず、素知らぬ顔で気持ちよく流れているだけですね)

などおっしゃっている時に、大臣(新太政大臣)が、宮中より退出なさったところ、紅葉の色の見事さに驚かれて、おいでになられた。

昔、大臣の両親がご健在であられたころのご様子にも、ほとんど変わることなく、そこらじゅう落ち着いた感じにお住まいになっていらっしゃるさまが、晴れ晴れしい。それを御覧になるにつけても、大臣は、まことに感慨深くお思いになる。

中納言もあらたまった気分になり、顔がすこし赤らんで、まことに静まっていらっしゃる。申し分なく可愛らしげなご夫婦の間であるが、女は、世間にこれくらいの器量の者もなくはないだろうと拝見される。しかし男は、どこまでも美しくていらっしゃる。古参の女房たちがご夫婦の御前にすわりこんで、古めかしい昔話を聞かせ申し上げる。大臣は、さっきの何枚かの手習いが散乱していたのをお見つけになられて、涙にお暮れになられる。(太政大臣)「この遣水の心を尋ねたいとは思うが、老人は言葉を慎むとして」とおっしゃる。

(太政大臣)そのかみの……

(昔ここにあった老木は、なるほど朽ちてしまったようだ。当時植えた小松に、今は苔が生えているほどだから)

男君(夕霧)の御宰相の乳母は、男君に辛く当たられた大臣の御心を忘れていないので、したり顔で、

(宰相の乳母)いづれをも……

(私はお二人のどちらのこともお頼み申しております。二葉の昔から、根を交わしあった松のような、そのお二人のご関係の、行く末々までも)

年老いた女房たちも、こうした内容で歌をよみあっているのを、中納言(夕霧)はおもしろいとお思いになる。女君(雲居雁)は間の悪いことと顔を赤らめ、聞き苦しいと御面持ちでいらっしゃる。

語句

■かかる御住まひ 新太政大臣(前内大臣)邸。 ■三条殿 故大宮が住んでいた御邸。 ■昔 大宮ご存命の昔。 ■一叢薄 「君が植ゑしひとむら薄虫の音のしげき野辺ともなりにけるかな」(古今・哀傷 御春有助)による。 ■心ゆきたる 遣水がいかにも満足げに流れているようす。 ■ニところ 夕霧と雲居雁。 ■あさましかりし世 相思相愛でありながら仲を裂かれて辛かった時期。 ■御幼さの 夕霧十二歳、雲居雁十四歳の頃に二人の関係がはじまった。 ■古人ども 大宮存命中からお仕えしている女房たち。 ■なれこそは… 「岩」はこの家。「漏る」に「守る」をかける。「見し人」は大宮。夕霧が見た人とも、真清水を見た人とも、真清水が見た人とも取れる。 ■なき人の… 「なき人」は大宮。前の歌から趣向を継承する。「なき人の影だに見えぬ遣水の底に涙を流してぞ来し」(後撰・哀傷 伊勢)による。「いさらゐの井」は水の浅い水。ここでは遣水。ここでの夕霧と雲居雁の唱和は松風巻における明石の尼君と源氏の唱和に似る(【松風 08】)。 ■おはさいし 太政大臣の父(左大臣)と母(大宮)が健在であった頃の。 ■ものあはれに 大臣は自分が生まれ育った家に、今、自分の娘と婿が新居を営んでいることに感慨をおぼえる。 ■神さびたる事 古めかしい昔話。大宮存命中のこと。 ■うちしほれたまふ 母大宮をしのぶ歌だから大臣は涙がこみあげる。 ■そのかみの… 「老木」は大宮。「植ゑし小松」は大宮が植えた小松。大臣自身。 ■男君の御宰相の乳母 夕霧の乳母である宰相。 ■つらかりし御心 大臣が、夕霧と雲居雁の間を引き裂いたことをいう。 ■いづれををも… 「根ざしかはせる」は松の木が根元を交差させていること。いわゆる相生の松。夫婦の信頼が深いことを象徴。そんなお二人の末々まで、つまりお二人が年老いるまで、私は頼りにしますの意。 ■あいなく 「あいなし」は感心できない。女房たちの歌をいらぬ世話と思った。

朗読・解説:左大臣光永